迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

競馬実況と落語の話w

本家の方でも、白川アナに纏わる話として取り上げたテーマではあるが、競馬実況アナに限らず、落語が好きだというアナウンサーは、結構多い。特に、学生時代に落語の研究サークルに属していた人が多く、中には“本職”差し置いて高座に上がる(?!)様な猛者もいるw(在阪局のアナ達は、特にそんなヤツが多い…誰とは言わんけどw)これは、黎明期のアナ達にも言えた話であり、単なる“お笑い好き”ではなく、その先にある“話芸”という“技能の芸術”を極めたトコに、“声の職人”としてのアナウンサーの本分がある…と考えられていた為である。つまり、ラジオの実況アナにとって、単なる“描写”として実況するのか、それともひとつの“物語”として実況するかは、まさしく“喋り手”の技量に掛かっている訳であり、リスナーの感性に響かない実況は、どんなに後世に残る様なレースでも、その“内容”まで詳細に覚えてられる様な代物にはならない。だからこそ、聞き手…即ち、競馬ファンの感性に共鳴できる様な実況とは何かを求め、その“ヒント”として、落語を聴きに寄席に行ったり、演芸番組を見る人が多い訳である。
そもそも、落語家もその話芸を学ぶ為に、先人達の話芸を舞台の袖で聴き、そして街中で人間観察をしながら、その描写を言葉で、どの様に表現するかを考える。特に古典落語の場合、実際のネタ本(オリジナルの話)を現代風にアレンジする際、時代錯誤がない様に工夫する必要がある。例えば“饅頭怖い”の一席をするにも、古典の見本通りにやったとしても、現代では殆どウケない。しかし、話の中に出てくる饅頭の品目を、演じる場所の名物や流行のモノに変更したり、登場人物の話し方をアレンジする事で、“オリジナル”の形態を保持しながら、その時代や世相にあった話へと進化させる事ができる。ちなみに、“饅頭怖い”という演目は、若者の与太話で、“自分の怖いモノ”というテーマで喋ってる時に、饅頭が怖いと言うバカがいて、それをからかおうとしたら…って話。(脱線ついでに、上方落語の場合、演者によっては551の豚まんとか、御座候が出てくる場合があるw)
閑話休題、つまり、競馬を含むスポーツの実況でもまた然りで、同じレースを実況するにしても、リアルタイムでやるのと、映像を見ながらやるのでは、その間合いや感覚が違うし、同じ現場でやってると言っても、実況アナが違えば、その描写は違ってて当然。オイラ的に解り易いのは、1990年の有馬記念オグリキャップ最後のレースでの、白川アナと蜂谷アナの実況の違いである。一般的に白川アナの“さぁ頑張るぞ、オグリキャップ”の行が有名だが、オイラは“蜂谷クラスタ”なんで、どっちかと言えば、“オグリ先頭!!”からの行が好きな描写だったりする。(フジテレビクラスタなら、そこは解説だった大川慶次郎の“ライアン、ライアン…”と吼える声が入った大川和彦アナの実況を推すだろうが…w)というのは、白川アナはオグリキャップに主眼を置いた状態で実況してるため、どうしても他の馬の動きを無視して展開してるのだが、蜂谷アナの場合、最後にメジロライアンの動きを入れている分、余裕を持った実況(現場は相当てんやわんやな状態なんだがw)になっている…つまり、中山競馬場内で、正確に伝えると同時にその場を盛り上げる為の実況をやっていたのか、それとも、阪神競馬場などの西日本の場外で、状況を知りたくてラジオを聴いているリスナーに向けてなのか…の違いが、モロに出ている一例ともいえる訳である。理屈としてはこれと同じで、落語も、同じ演目のモノでも、前座と真打ちではまったく違う。まして、上方落語江戸落語では、同じ内容であっても、そのテンポや間合い…リズム感が違う。その為、江戸落語が好きな人が上方落語を聴いて“面白くない”と感じるのも、その逆で上方落語に精通してる人が江戸落語を聴いて“なんやねん、これ”って感じるのも、言葉遣いひとつの“違和感”がもたらす感覚なのである。

さて…ここからは余談だが、落語家に限らず、芸人は文芸作家以上に、古くからギャンブル好きが多く、芸事の為なら…という大義名分の下に鉄火場に出没する人が多く、それ故の失敗談も多い。しかし、それ故に競馬実況アナとの交遊がある人も多く、それが因で、競馬場でのイベントに登場する際、その“出演交渉窓口”になるケースもある。特に、藤田アナの場合、吉本興業のベテラン芸人とコネがある関係で、ラジニケが主催になる場内イベントで、吉本芸人の予想会などがある場合、ステージの隅っこの方で待機してる場合がありましたw(特に、小倉競馬場でのイベントでは、よくある話でした…)