迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

政治と競馬の話。

この記事を編集してる最中は衆院選公示前日な訳だが、今までの公営ギャンブルの話とは別に、政治的な競馬に関する話。と言っても、経営的なことではなく、政争の一端としての部分。
ジャパンカップやドバイミーティング等の国際競走が競馬のある国で行われている裏側には、国際的な取引が行われている事を、以前のネタでも書いたと思うが、一口に“国際競走”といっても、それを実現させる上で、一番ネックになるのは、競走馬の検疫に関するルールが、国によってバラッバラな訳で、そこには、各国の家畜伝染病に対する防疫の観点から仕方ない部分と、いわゆる“ローカルルール”を押し付けてくる場合とある。前者に関しては、エボラ出血熱や変異型鳥インフルエンザなどの関係で、人間ですら様々な事柄があるからともかくとして、後者が一番“ウザい”話である。つまり、いくら“公平な競馬開催”と言えど、その“常識”が主催国によって通じない事があるってことだ。
アメリカの競馬では、呼吸器系疾患などの予防ということでのラシックスというクスリの処方に関して、結構規制が緩いのに対し、日本や欧州の殆どの国では“ドーピング行為”と見做されるために、国際競走に出走する際、使用できないために、海外遠征を行わないケースが多い。欧州…特にフランスの場合、さらに厳しい規制があって、植物(薬草)由来成分のクスリ以外の処方が禁じられているため、日本では規制対象になっていなかったクスリが因で、“失格”というケースがある…そう、ディープインパクト凱旋門賞の一件は、そういう薬事的な部分での取り決めが、日本側が把握していなかった事による結果と言っていいだろう。同じ理屈で言えば、日本の“枠帽”制度も、海外にはないルールであり、馬番と枠番が順番通りになるのは、実は日本独自のルールである。しかしこれらは、あくまで“ローカルルール”の一つであり、また、馬名のルール一つでも、日本の場合はカタカナ2文字以上9文字以内という規定があるが、香港だと漢字(広東語表記)で4文字まで、英語圏の場合、アルファベットで20文字以内という規定がある。また、オーストラリアなどでは、馬名による宣伝行為は規制対象になっていないため、レースの勝敗にかかわらずに実況でコールされる事を目的とした名前がつけられた馬もいる…1990年のジャパンカップに出走した、ベタールースンアップがそれで、オーストラリアではメジャーな清涼飲料水であったりする。他にも、勝負服のカラーリングやデザインに関する規制も、国によって様々…
でも、一番重要なことを言えば、馬主資格に関する規定や、国際競走を行う際の検疫などは、実は農業分野における閣僚級の議論を要する部分であり、ゆえに日本の場合、農水省の役人たちの“仕事”の一つとして執り仕切られている事である。ぶっちゃけ、TPP問題にも繋がる話であり、競馬を取り巻く環境における部分において、非常にデリケートな部分なのである。そう、コメや牛肉などの農畜産物の取引がニュースでは報じられがちだが、実は競走馬に関する輸出入にも影響があるのだ。特に馬産地にとっては死活問題であり、生産馬が海外でも自由に取引できるようになる反面、海外からの輸入も“解禁”されることを意味するため、零細農家は生き残れなくなる。大手であってもその影響は免れない反面、自家生産した馬が、海外の競馬で活躍し、賞金を稼ぐことができれば、それはそれでウハウハな話でもある。つまり、浦河や新ひだかで生産した競走馬が、日本ではなく海外の競馬場でデビューし、そこで活躍すれば、海外からも注目される“馬産地”として名が通る事になる。ところが、日本の競走馬に関する取引は、原則として“日本に限る”的な空気がある為に、ノーザンホースパーク中山競馬場等で行われるセレクトセール(競市)で、海外からも注目されるような血統の仔馬が上場してても、海外への輸出を断念せざる得ないケースが多い。さらに、馬主資格に関しても、日本の場合は法人所在地が日本国内にないと取得できない。これでもかなり“規制緩和”した方で、昔は日本に在留資格がある人でないと、外国人が日本の馬主になることはできなかった。つまり、ダーレーやゴドルフィンが日本で法人資格を得れたのは、規制緩和によるモノであって、さくらコマースの場合でも、旧来の法規制に従った上での取得(実質のオーナーが外国籍であっても、日本での在留資格があったから)できたのである。また、騎手の免許についても、去年から法改正され、外国人であっても中央、あるいは地方の騎手免許(短期ではなく通常の)を取得できるようになった訳で、短期免許自体も、実は紆余曲折があって、今日に至る訳である。(ここの部分は、後日、改めて解説させてもらう。)
このように、単に競馬ができることが、どれだけのモノかという事を理解した上で、罵るのは結構だが、政治的な意図を競技の場に持ち込む事ほど、バカバカしい話はない。むしろ、競馬場の中だけでも、愚かな考えで政治批判をするのはやめる様にしないと、いかなる競技も面白くない。馬には何に一つたりとも罪はないのだから。

ガキだな…

ここんトコ、世界のあっちゃこっちゃでイスラム原理主義を唱えるバカが、学校を襲撃したり、カフェに立て籠ったりしてる様だが、イスラム教の理念を利用して、やってる中身が盗人猛々しいのはこれいかに?ぶっちゃけ、どこまで“宗教”の理念や教義をバカにしてるよ?言っちゃなんだが、宗教そのものは、あくまで共栄共存の哲学であり、宗派や地域による概念の違いはあれど、共通認識に“未来を見据えた”概念の下に、信徒の研鑽と修行がある。それを無視して、単にマスメディアの報じる“理想像”にダマされ、暴力を振るう様では、真面目な信徒や宣教師に失礼なこと。では、なんでこんなことが繰り返されるのか?

およそ20年前に起きた、いわゆる“オウム事件”関連の騒動…その発端は、実は、一部のマスメディアが彼らを取り上げ、担ぎ上げた事から始まる。それは、どうしても創価学会を潰したいという、他の宗教団体や政治家の意図が見え隠れしてて、創価学会と同じように、異端なる存在として叩くための下準備をして取り上げた…と考えていい。しかし、創価学会と違って、オウムには、基礎となる宗派・戒律が曖昧過ぎた事と、教祖自体が社会に対して強い恨みを持っていた事が、事態が明後日の方角へ向いてしまうことになる。つまり、当時の創価学会は、あくまで日蓮正宗の在家信徒の集団であり、また、宗教法人上は東京都に本拠地を構える宗教団体として認められた存在である。(学会恨むなら、当時の鈴木東京都知事を罵りな…彼が下した判断だからなw)逆にオウムは、そういう経緯もないまま宗教団体として設立したトコがあり、しかも、詐欺紛いに近いような勧誘を行っていた。(空中座禅とか、ハルマゲドンとか…あ、ちなみにオイラも、空中座禅はできる…胡座かいたまま腰を勢いよく上に振れば、簡単に飛べたりするw)だけど、その頃から優秀な頭脳や技能を持つ若年層は、この“イカサマ奇術師”の行動に興味を持ち、やがて賛同し、そして…あの事件へと走る様になる。あの当時から…否、その前の“あさま山荘事件”よりも前から、一部の大学生には“世間知らずな正義”を振りかざすバカがいた訳で、それを諌める術を、大人たちも持っていなかった事が、悲劇を繰り返す一因になってると考えられる。要するに、以前から散々やってるように、若者が社会の中で何か行動を起こしても、それを真っ当に評価してもらえないと勘違いしてるからこそ、それに対する逆恨みが、テロやバスジャック等の重大事件に発展する訳である。要するに、自分の“思い通り”にならないのを、自分ではなく“他人”…言い換えれば、社会そのものが“悪い”と断罪する訳で、その“拠り所”として、宗教哲学を悪用する訳である。言っとくが、宗教が教えるのは、人間らしさの追求であって、他者の排除や撲滅を求めるような概念は、むしろ“後付け”解釈でしかない。違いを認め合い、互いを支え合う為に、信頼関係を築くための教義であって、そこを履き違えて侮蔑するような態度をとってはならない…と、どこの宗派でも最初に教える事である。が、ここを勘違いしてる以上、どんなに教義が素晴らしい宗教団体であっても、理解されないどころか、むしろ、色眼鏡で侮蔑する人たちの思惑通りな集団になり得る訳である。つまり、オウム系宗教団体が、今でもテロ組織として公安委員会から監視され続けるのは、この“カルト異端”と見做す連中の手中で踊らされた結果であり、もしも、毒ガステロや信徒撲殺などの重篤な犯罪行為をやっていなかったら、他の宗教団体同様に、周囲から“キモい”と罵られても、存続できた可能性がある。あ、ちなみに言っとくけど、宗教団体は大なり小なり、公安委員会からなんらかの監視を受ける対象であって、いわゆる右翼団体や零細政治結社指定暴力団同様に、警察や自治体の行政指導を受ける事は、日常茶飯事ですよ、単にマスメディアが報じないだけで…w

つまり、クリスマスの時期にイスラム教徒を名乗るテロリストが暴れるのは、単に“リア充爆発しろ”である。要するに、自分が不幸なのは不公平だというガキっぽい理由で、女性や子供、さらには身障者や高齢者を襲う訳である。“Do they know it's Christmas?”の歌詞ではないが、自分さえ幸せなら、なんでもいいというなら、なんで他の人を襲って、その幸せを奪う権利がある?(歌詞の一部を和訳すると、「君がその犠牲者の中に入ってなくってよかった」と叫ぶ部分がある。が、これは、単に“綺麗事”だけを歌詞にするよりも、“冷酷な真実”を突きつけることで、本当の慈善とは何かを考えて欲しかった…いう意図があった。)自分が幸せになるために、他人の幸せを奪ったり、将来を否定する権利は、誰にもない。だが、テロをやってる連中は、自分たちの幸福を“否定された”という勘違いから、なりふり構わず暴力を振るうのである。だからこそ、躊躇してはいけない…同じ宗派の者だからとか、同じ民族だからとか、同じ国民だからとかではない。同じ仲間であると認めてるなら、だからこそ、自らが襟を正して叱らなければならない。貴様らがやった行為によって不幸に見舞われたヤツの方が、もっと気の毒だと…特に、将来を嘱望された子供たちを殺す行為は、たとえ信仰上の理由があったとしても、一番許されない行為であると同時に、自分自身が、“ガキ”だと言ってるのと変わりない。そんなに時代の“主役”になりたいのであれば、勝手にどうぞ…世間が誰一人、自分を支持しないのは、あまりにもその世界観が、他者から見れば小さ過ぎる事に気付いていないからである。バカにされるのは別にいいんだよ…その瞬間は悔しいかもしれんけど、後々、そのちっぽけな概念が、自分を苦しめる枷だったんだと気づく時が来るから。罵られたって、自分が思う正義を、きちんと示し続けるために、社会と向き合い続ける根性さえあれば、必ず陽の目を見る時がくる…御金言“法華経は冬の如し、冬は必ず春となる”どんなに凍てつく寒さが続いても、そんなに長くは続かない。巡るべき時か来れば、それを逃さない限り、それに応じた功徳を得られる。自らがそれを嫌った時点で、それは巡ってこないだけ。だからこそ、自分が汚れること、傷つくことを嫌ってる以上は、誰からも罵られないどころか、本当に“いらないヤツ”呼ばわりされるだけ。何度も傷つき、汚れても、立ち上がれる人が一番強い。そして、歴史上の偉人たちは、その多くは当時の世間から“奇人・変人”呼ばわりされた。だけど、本当に“変態”であるなら、歴史の汚点として消されるのがオチである。ガギにはそれがわからんのだよ…自分がどれだけ成長を拒んだかを。

アニキャラ馬名が増えた理由(わけ)とは…

先月の記事(ar640192)と、3月下旬にやった記事(ar458606)の補足とオマケですw 昨今、アニメやコミック、ラノベ等のキャラクターから付けた馬名がGⅠ戦線を賑やかし、しかも実際に国際レーティングのトップにまで君臨してる馬まで存在する。(ついでに言えば、先月、エリザベス女王杯で勝った馬も、あの作品の主役キャラである事は、ファンならご存知の事w)しかし、前回の解説では“広告になる様な馬名は禁止”という話で疑問を持たれた方も多いだろう。実は、アニメやラノベ等の名称に関しては、ちょっとひと工夫する事で、審査をパスする事がある。そこについて、少し解説しておこう。
現時点(2014年12月)で、現役GⅠ馬でアニキャラなのは、“ドバイの英雄”ジャスタウェイ(@銀魂)と、エリザベス女王杯で初の戴冠となったラキシス(@F.S.S.シリーズ)なのはご存知の通り。オイラの記憶では、かつて2歳女王になったテイエムプリキュアを含めて、3頭のGⅠ馬がぶっちゃけ“アニキャラ馬名”を持つ状態になっている。このほかにもオツウやレディオスソープ、セイラ等が実際に走ってたりする訳だが、どうやって“アニヲタホイホイ”な馬名が審査を通過するのかといえば、実は幾つかのポイントがある。それは…

1)いわゆる“外来語”として一般的にある名称である。

2)タイトルや主人公ではない。

3)冠称などを付ける事で意味が変わる。

この要素がある場合、馬名登録でバカを見ずに済む訳である。特に1)の場合、実際にL'Arc-en-Cielのファンが名付けたネオユニヴァースは、ラルクの楽曲名でありながら登録できたのは、別の意味…新世紀(新世界)を意味する“英訳”として通用したからこそであり、ファンと音楽好きの一部以外、この馬名が“そういう意味”である事を知らずに通用する訳である。だから、引退式の際に、あの楽曲がBGM(馬場入場曲)として使うことができた訳でもある。オツウの場合は2)が該当する訳で、さすがに露骨なネーミングだと、却下される可能性の方が高いw 同じ理由でセイラやシャア、ヒートホーク等のガノタならすぐわかる“単語”についても、ぶっちゃけ2)が該当する訳で、ガンダムの場合でも、3)にしてしまえば、なぜか通用してしまう訳であるw(実際にエーティーガンダムとか、ヒシガンダムなどがいましたw)かつてセラムンヲタどもが狂喜した馬名にセーラージュピターってのがいたのだが、これに至っては、たまたま冠称が“セーラー”であったが故の偶発的なモノであり、おそらく審査の際に他の名称を使おうとして引っかかったから、この馬名になったと推測される。(そりゃ、“ムーン”なんて付けたら、まんまでんがなw)また、ルパンやコナンの場合、取り合えず“一般的な外国人名”ということで通用するため、特にひねらずに付ける人もいる。当然ながら、1)と3)のコンボで通過してる訳で、もしも同じレースに、“ルパン”馬名と“コナン”馬名が同時に走ってゴールまで接戦を繰り広げたら、“ルパン三世”と“名探偵コナン”のファンは、ニヤニヤが止まらないでしょうw
でも、なんでこんなにアニキャラ系の馬名が増えたかと言えば、これは馬主自身がそもそもアニヲタであったり、関係者である事がヒントになる。ジャスタウェイやオツウの場合はご存知の通り、馬主がアニメ版の“銀魂”の構成作家であるからこそであり、ラキシスの場合、馬主自身がF.S.S.のファンであったからこそ、こうなったという訳である。しかし、これ以外の理由の中には、子供や孫が愛馬を愛でてくれるように、ワザとつけたケースもある。実はテイエムプリキュアは、当時幼稚園児だった娘が大好きなアニメのキャラだった事と、プリキュア自身は化学工業用語で、熱硬化性のプラスチックの硬化前処理の段階で、予備硬化(事前の結晶化)の事を指す…この点から名付けたのがアレである。(故にパドック用メンコに、キュアホワイトのステッカーが付いてたりした訳でw)ちなみに、同じ“逃げ道”はジャスタウェイラキシスにもあって、前者は“我が道を行く”という英訳、後者はギリシャ神話の女神様を指す…とすれば、誰もコレが“アニメのキャラクター名”とは気付かないw 同じ理屈は“コナン”でも通用する話で、推理小説“シャーロック=ホームズ”シリーズの作者であるコナン=ドイルから名付けたとすれば簡単だし、湖南(琵琶湖の南部を指す地名)とか、小楠(こなん)という苗字であるとすれば、これだけで“一発通過”であるw

30年ほど前だと、実はアニキャラでも登録NGになるケースが多々あって、なかなか難しかったのだが、昨今のアニヲタが、馬主資格を有する程の富裕層にもいて、また、実況アナですらアニヲタがいる状況にあって、いわゆるポップカルチャーとの結び付きが徐々に増えているからこそ、アニヲタから競馬の世界へ関心を引きつけるために、ぶっちゃけ“規制緩和”を行った事が、ここまでアニメキャラ系の馬名が登場する背景にあると思われる。とはいえ、せっかくアニキャラ系馬名を付けても、オープンクラスまで勝ち残れなかったら、単なるネタ馬扱いであって、オダギラー馬名や悪ふざけな馬名と同様に、笑い者にされるのは、いささか心苦しいかと…

臨時投稿:馬のドーピングについて…

ブルヒーン、オグりんだお。このブロマガではお久しぶりだおw
さて…なんで本編の前にボクちんが登場したかといえば、今日(21/10)のJRAからの発表で、12月7日に行われた、中山の第6Rで、1着入線した馬から、カフェインが検出されたというニュースを受けて、ご主人様の指示で解説を頼まれただお。何が問題かといえば、ボクちん達、馬にとって、カフェインを含む食品は、人間以上に興奮を促す作用があることから、摂取が禁止されているだお。もちろん、これは日本中央競馬会規程にも規定されている“禁止薬物”扱いで、当然だけど、法律上、この牝馬ちゃんはルール違反で“失格”となり、さらに偶発的なのかどうなのかや、体内に残ってる薬物の影響が消えるまで、出走が禁じられるんだお。(詳しい規定とかは、これを参考にしてほしいだお。)
中央競馬では、こういう事案は実に21年ぶりの事だという訳だけど、なんでボクちん達にもドーピング検査があるのかといえば、ボクちんも一応、競走馬という“アスリート”だからだお。つまり、薬物による影響を受けてレースに出走する事は、他のスポーツ同様に、違反行為に該当するからだお。もちろん、ボクちん達は、現役引退後に繁殖に回ることもあるから、影響が子孫に出る可能性もあるだお。だから、家畜防疫以上に、薬物の使用に関しても、厳しい規制がかかるだお。特に、タバコ(ニコチン)とカフェインに関しては、飼葉の中に少量でも混じってたら、とんでもない影響が出るから、細心の注意が必要なんだお。だから、本来、厩務員のオッチャンとか、ジョッキーさん達は、ボクちんの前でコーヒーやお茶を飲まない様にしてるだお。だって、眠気覚ましで飲むコーヒーやお茶には、ボクちんらでも同じように、興奮剤としての効果があるだお。実際、一部の神事で使われるボクちんの仲間に、祭礼の前にワザと茶葉を食べさせる風習があるけど、それはカフェインに拠る興奮作用を利用して、暴れさせる為だお。
もしも競馬で、しかも出走直前に厩務員のオッチャンが、ボクちんらの目の前でコーヒーなんかを飲んだら、せっかくレースに勝っても、薬物使用による影響と判断されたら、気分が悪いだお。もちろん、検体として提出するのは、通常はレース後の排尿なんだけど、サンプルに必要な量が出ない場合、採血を行うことがあるだお。もしかすると、サンブルに必要な量の尿が採取できなくて、水増しで厩務員のオッチャンが自分の尿を混ぜてた可能性もあるかもしれないけど、血液検査でカフェインの陽性反応が出たなら、飼葉に混じってた可能性が高いだお。(ちなみに、何年か前に高知競馬で、検体用の尿の量が足りなくて、厩務員のオッチャンが、自分の尿を混ぜたせいで、失格になった馬がいただお。あれはマジで気の毒だお…)もちろん、故意にカフェインを飼葉に混ぜて食べさせた場合、競馬法で定める法律違反(ドーピング)にあたり、それを行った者は、3年以下の懲役、または300万円以下の罰金が科せられるだお。万一、該当馬の管理厩舎全体検査で、他の管理馬の検体からもカフェインが検出されれば、その管理調教師自身が疑われるだお。(現時点では、該当馬以外からはカフェインの反応があったかどうかは判断できないけど…)該当馬がたまたま、厩務員のオッチャンや、誘導などの係員の“うっかりミス”によってカフェイン混入の飼葉を食べちゃったか、コーヒーやお茶を飲んじゃった、あるいは検体サンプルの“水増し”などであれば、単なる“事故”として処理されるけど、そうでない場合は、中央競馬の公正な競馬開催を阻害したと見做されるだお。だから、今回の様に、記録上の結果に関しては“失格”という処分になるんだお。但し、馬券上での結果に関しては、現場での結果であり、そこにいた裁決委員による判断で確定してる以上、覆る事はないだお。でも…馬主にとっては、入賞賞金が手に入らないどころか、むしろ嫌疑をかけられるんで、踏んだり蹴ったりな結果になるだお。
ま、どっちにしても気の毒なのは、これで失格扱いになった該当馬だお。ボクちんらは家畜である以上、人間様の都合に振り回された挙句、罵られるからだお。こういう被害は、できればあんまり繰り返されたくないだお。だから、管理する人間様には、より一層の注意を払ってほしいだお。

と、いう訳で、この辺でボクちん帰るだお。また、何かあったらこっちにお邪魔するだおw んじゃ、バイバイ…ノシ


知る権利と黙る“義務”

さて…一部の弁護士やマスメディアの記者にとって“都合が悪い”法律(特定秘密保護法)が施行された訳だが、ぶっちゃけて言えば、一般庶民にとっては“どうでもいい”話でしかない。なぜなら、知る権利というのは、単に情報を共有することではなく、情報の“性質”によっては、無闇矢鱈に開示してはいけない部分…つまり、秘密にしておく事で、事の混乱を抑えなければならないことだってあるという事。そこを含めた意味で振りかざす分には良いのだが、何でもかんでも“開示すべき”というのは、むしろ本当の意味で相手を信用してない証拠であり、情報の正確さを有耶無耶にしかねない話である。つまり、真贋を見極められない人に、特定の情報を喋ったとして、その“事の重大さ”がわからない以上、不特定多数の相手に開示することが、いかに“危険な行為”であるか…それを踏まえた上で批判すべきであって、情報をすべて開示すべきであるなら、プライバシー(個人情報)の保護なんぞ、クソくらえな話になりかねない。

つまり、国家の重大な危機を招きかねない様な事案があったとして、それを一般庶民に喋るのはいいが、もしもその中に他国の諜報部員がいて、それを聞いたとしたらどうなる?更に、自分自身が調べた情報の内容に、誤りがあった場合、それによる混乱は、誰の責任となるか?ここの部分を踏まえた上で、“知る権利”というものを考えるべきである。つまり、誰にも言えない様な“秘密”を、第三者に打ち明ける事ができるのは、あくまで相手が守秘義務を守れることを約束してるからこそであって、口の軽い人に相談事をやって、回り回って自分の下に、自分の“情報”が外部に漏れた事を知れば、感情的に激怒するのは目に見えた話。つまり、そこんトコの概念をすっぽかして、“知る権利の侵害”を叫んだとしても、誰がその意見に賛同するか?ここが一番重要なことである。

況や、チェック機関が身内の者であったとしても、秘密にしたい“情報”は、必ずどっかで“漏洩”するモノであり、それゆえの“犯人探し”をやったとしても、それで不利を受けるのは、不特定多数の民ではなく、情報を漏らした張本人であり、情報の発信源となった機関自体です。ぶっちゃけ論で言えば、自分自身に不都合な事があっても、それを外部に漏らさない“約束”が守れない状況であれば、故に黙秘するのは当たり前なことです。つまり、“知る権利”というのは、“黙る義務”を守れてナンボな訳であり、それが守れない様な状況では、却って情報に惑わされた挙句、情報を仕入れた当事者がパニックを起こしかねないのです。もちろん、それを“目的”としてる不逞の輩がいる訳だが…その“理由”だって、ある意味感情的なトコがあって、単に相手を、あるいは不特定多数の民衆を蔑むための行為でしかありません。

“誰か”に“何か”を話す時、本当に気をつけなければならない事は、その“話”をして、どんな影響が出るかを考えずに喋る事です。例えば、医師に身体検査を依頼し、その結果を聞く時、その“判断”を信じられるかどうかは、一種の信頼関係に基づいた判断が試されます。仮に、胃カメラの検査で異常があって、組織生検を行うために、粘膜の一部を切り取って検査した旨を伝えられた時、何もわからないままでやれば、それはそれで一瞬パニックになるでしょう…しかし、正確な診断を下すために行った事を、浅はかな情報のみで勘違いすれば、さらに混乱するだけです。だから、検査の結果に対してさらに正確さを求めるためのセカンドオピニオン(他の医師による再検査)が認められている訳であり、総合判断から結論を出しても遅くない訳です。(胃にポリープがあったとしても、それがガン細胞なのか、あるいは単なる炎症なのかは、生検での組織解析を行った上で判断される事であって、素人の考えてパニってたら、助かる命も無駄になる。)だから、開示できる情報に制限をかけている訳でもないのに、まして国防の観点からの“情報規制”であって、それをさも“知る権利の侵害”と騒ぐ方が、他国から見れば異常なのです。企業でもまた然りで、特許製法の類は、業種ごとの“最重要機密”な訳であり、そこを明け透けで公表すれば、製品の価値が下がるだけでなく、粗悪な模造品が大量に、市場に流れることになり、利益を損ねる事になりかねません。だから、下請け企業であっても、受注先からの要望で部品製造を行う際、自作を含めて他に転用しないことを条件にライセンス(製造許可)を取る訳です。そこをバラすべきだと言ってる時点で、お察しですw

だからこそ、秘密を作るべきでないという人は、今一度、考えた方が良いでしょう…自分の秘密を他人にベラベラ喋る事の怖さと、それが拡散した時に、謂われなき侮蔑を受ける事が、どれだけ腹立たしいか。

競馬を愛する語り部達・番外編その3:競馬実況に憧れたアイドル・大橋照子

本来であれば、競馬実況アナ、および経験者のみで構成されるこのシリーズ。あえて今回は変化球を使いましょうw 女性アナウンサーが、俗にいう“アイドル”化したその先駆けは、何と言っても彼女でしょう。かつて、アメリカ大使館前にあった日本自転車会館に、多くの若者が集い、バカ騒ぎを繰り返したという伝説は、ラジニケの歴史において燦然と輝く(?)名物w その話題に欠かせなかった存在こそ、今も長岡アナと一緒に“私の書いたポエム”に出演している“チェリーちゃん”こと大橋照子アナである。でも…彼女が本当に目指したのは、以前紹介した井口アナのような競馬実況アナだったことは、意外と知られていない。
山口県周南市で生を受け、東京で育った彼女。大学在学中にFM東京(現:TOKYO FM)で洋楽の番組を担当した経験があり、この事が、ラジオたんぱ…現在のラジニケに入社する決め手となった。その当時から、このラジオ局は“美女”が多い放送局として、関東ではメジャーだった…が、ぶっちゃけ、短波ラジオ局故の、そして当時ラジオ局のアナウンサー達が画像付きで紹介される機会がなかった事もあって、噂通りの“美女局”というのは、ごく一部の関係者以外、知る由もなかった。でも、彼女がラジニケに入社して、やってみたかった事は、実はスポーツ実況であり、特に競馬実況は、井口アナの存在が影響して、どうしてもやってみたかった…しかし、JRAの公式実況も請け負う事情を知らなかった事や、女性にとって、競馬の世界は放送業界以上に“男尊女卑”な環境である事を理由に、競馬班の上司達は、首を縦に振る事はなかった。もしも、先見の目がある幹部がいたなら、もっと早い段階で、中央競馬にも女性の“公式実況アナ”が誕生していたかもしれないが、当時の女性に対する認識が、鉄火場には分不相応と判断された事が大きい。まぁ…当時から可愛らしい風貌で、しかも、愛くるしい声の持ち主であるが故に、これがいざ、競馬実況に耐え得る声かと言われれば、些か考えさせられる部分がある。
そんな、ある意味打ちひしがれた彼女を、一番不憫に思ったのが、長岡アナである。せっかく、ルックスが良くで特徴がある声の持ち主を、なんとか別の方法で活かせないか…そこで、彼女の“我侭”に対して、ある程度までは許してやろうと考えた訳である。その一環として、あの伝説の番組“ヤロウどもメロウどもOh!”の中で繰り広げたラジオドラマ“アチャラカ王国物語”を作った訳である。(ちなみに、この一部が書籍化されたんだが、現在、とあるオークションサイトでは、様々なプレミアがついた影響で、滅茶苦茶高騰してるのよね…マジで。)今でも、当時のヤロメロリスナーが集う機会があり、交流が深い。でも、そのきっかけは、非常に思いがけないトコから始まるのであった。それは、他の番組中に彼女は、自分が週末にスタジオ勤務する事を告知し、その時に、一部のリスナーをスタジオに招いたのである。この時に、あのボロいビル…もとい、日本自転車会館に中高生のリスナーが集う様になり、中には、学校の長期休暇を利用して、遠路はるばる訪ねる猛者もいた。その影響力を見て、彼女を中心とした女性アナたちで構成する、若者向けの番組を作る事になる。そして、今では考えられない話だが、夕方の17時台に、中高生向けの番組として、ヤロメロが設定された訳である。そこで、現在でも使われている愛称“チェリーちゃん”が使われる様になる訳である。
そんな人気絶頂期に、彼女は商社マンの男性と結婚し、相手の都合でアメリカ・サンフランシスコへ5年ほど渡る事になる。結婚後、フリーになって、様々な場面で活躍するようになった矢先の話である。しかし…“私の書いたポエム”だけは、降板しなかった。他の番組に関しては、他の人に全て譲ったのに対し、この番組だけは、ラジニケとの繋がりを断ちたく無かったのか、月イチでテープに録音した声を送り、リスナーにエールを送り続けた。その時、彼女は、もっと“美しい日本語”を、アメリカ在住の邦人に教えるべきだと考え、行動を起こす。それは帰国後、現在のNPO法人「日本スピーチ・話し方協会」の活動に繋がるのです。

さて、ここから話は脱線するが、会員制ポッドキャスト番組である“ドキドキラジオ”でタマに共演してる直也アナは、実はT.Oプランニング所属…即ち、“チェリーちゃんの下僕”ですw ぶっちゃけ、番組内での無茶振りに、苦笑しながら付き合えるのは、直也アナから見て、相手が大先輩だからこその話。ま、その更に上の先輩が“アレ”ですから、断ろうとすれば何やらされるか堪ったモンじゃない事だけは察しが付くかと…w それと、泉タソがタマに、“ミュージックライフサンデー”で常連リスナーを、大阪支社スタジオに連れ込む(?!)のも、ある意味“前例”があるからこその話。そういえば、旧本社にあった“フリースタジオ”というエリアが設けられたのも、実は大橋アナのせい…いろんな意味で、ラジニケの“女王様”なのですw

本気で世間を変革したいなら…

単刀直入に言えば、自分自身が“変わる”ことに尽きる。特に、固定概念を捨てる事と、自分自身の責任を自覚した上で、行動を起こす事である。言い方変えれば、他人のせいにしたり、他人の意見に何も考えずにホイホイとついて行かない様にすれば、自ずとその“答え”が見えてくる。但し、あくまで“個人的観点”での話であって、全体を変えようと思うなら、それこそ、上質な酒を作るように、じっくりと時間をかける必要がある。

もうすぐ始まる衆院選に関して言えば、この2年で、何ができて、何ができなかったかを考えた時、5年前の衆院選での結果が、何を意味していたかがわかる。急激な変化を求め過ぎて、その反動でgdgdな政治になったのはいうまでもなく、更に、貧富の差が激しくなったと感じたかと思う。けど、要は富裕層が気持ち良く、金銭を使ってくれないからこうなるのであって、貧困層が騒げば騒ぐほど、富裕層は逃げていく…自分の財産を奪われたくないあまりにねw 自分でも考えたらわかるけど、不特定多数のヤンキーに囲まれて、“カネカネサイフw”と恫喝されて、誰が手持ちの財布を緩めるよ?まして、そういう被害に遭いたくないから、その場に近付かなくなるだけで、いつまでも富裕層に対して負担をかけてたら、そら逃げられるわ。で、そういった大口の顧客がいないのに商売しようと考える方がおかしい訳だし、貧困を招いているのは、実は貧困層の富裕層に対する僻みが全てと言っていい。貧しいことを“言い訳”に、自分の責任を放り出している時点で、余計に社会が困窮するだけで、何にもならない。だから、変革に必要なのは、いろんな意味での“貧者の一灯”なのである。

仏法の概念上での“貧者の一灯”とは、貧しくて灯油(この場合はランプや提灯に使う蝋燭)すら買えないほどの貧民が、有り金叩いて僅かな灯油を買い求め、それを仏に供養した真心を意味する。富裕層の信徒があぶく銭で灯油を大量に買い漁って供養しても、ある意味事務的な行動であり、ゆえに、すぐ燃え尽きたり、風に煽られて消えてしまいがちになる。でも、自分自身の意志で、自分が出来る精一杯の事をやった上で灯した炎は、最後まで残った…という故事。言い方変えれば、資産持ちはそれゆえに散財するけど、得られる充足感は一瞬。貧困でも、社会に貢献したいという思いを込めた行動は、どんなにささやかな事であっても、その充足感は無尽蔵。

しかし…昨今の若年層は、富裕層の“偽りの幸福”に惑わされた上に、それを憧れているからどうしようもないw まして、自分たちが貧困なのは、すべて“上の世代”のせいにし過ぎてるからタチが悪い。自分たちが“報われない”のは、先人たちも全く一緒。どんな施しを行っても、それに見合う対価をもらえてないと勘違いしてるから、いつまでたっても報われないのであり、苦しいのである。だから、開き直って、余分な欲望を捨てることも必要であり、小欲知足を学ぶべきなのである。

まぁ…若いうちは、戦隊ヒーロー等に憧れ、いわゆる“正義の味方”がカッコイイと思うから、拙き“正義”を振りかざす訳で、それがいつまで通用するかって言えば、小学校を卒業するまでである。本当の“正義”ってのは、実はとんでもなく“カッコ悪い”モンである事に気づくのは、自分が思う“ヒーロー”という存在が、実は単なる“幻影”だと悟った瞬間である。もっと言えば、自分のクチで“正義”を唱える人ほど、本物の“正義”になる事はない。本物の“正義”ってのは、救済を受けた者だけが、自分に対して施した人に感じるモノであって、万人に受ける存在ではない。どんな“悪人”でも、その意見や行動を支持する人がいる限り、“完全悪”とは言い切れない。しかし…その一方で被害を受けた者は、例え当事者でなくても、当事者が所属する組織の者である事を理由に、あるいは、全く関係のない事案で問題を起こした事を理由に、フルボッコにしたくなるぐらいに“極悪な存在”として見做すのである。同じイスラム教徒でありながら、過激派組織を支持する宣教師と、そんな彼らを“異端”とする宣教師がいるから対立する訳であり、それを利用して“代理戦争”をやっているのが、アメリカやロシアといった先進国…否、白人迎合主義の人々である。ぶっちゃけ、バカバカしい話ではないか。

だからこそ、相手を真正面から見て、受け止められる英知を学ぶべきであり、それに対して老若男女の隔たりを設けてはいけない。当然だが、民族や宗教の違いでバカにするのはもってのほか。自分が本当に世界平和を唱えるにふさわしい人物になりたいのであれば、民衆から嫌われ、罵られる事を恐れない人にならなければいけない。そして、いかなる災いの元凶となったとしても、目の前の人を救済するために命を賭して戦う人でなければならない。だけど勘違いしてはいけないのは、だからと言って、無抵抗な相手をフルボッコしたり、過去の因縁を理由にしたり、とにかく他人から“いい人”として崇め奉られようとカッコつける事である。相手からいらん恨みを買ったとしても、それをも“許せる”人になりなさい…人はどこまでも人であって、神様でも、空想上の魔物でも、妖怪でもない。