迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

関西の芸人と競馬の話・その2

今回は旭堂南鷹(なんおう)にまつわる話…ま、デビュー時は“南太平洋”だった訳で、こっちの芸名で覚えてる人の方が多いんじゃないかと思うw オイラと年齢的に変わんないんだが、なんで“講釈師”という古典芸能の道へ進んだのか。その原点は、意外なトコにありました…と言っても、ここら辺はあまりに有名なので省略するがw
先に、講釈という芸に関して解説すると、そもそもは中国や日本の史実を基に、識字率が低かった時代において、その歴史小説や情報を、時に詳しく、時に誇張して、大衆の前で語ることを指す。一見すると落語や漫談に近い様に思えるが、中身はかなり硬派、且つ、テンポが早い。だから聞き手側も、ある程度知識や想像力が試されるトコがあり、また、やってる中身が殆どの場合、大河ドラマ級の戦国絵巻であるため、笑いを取る事よりも、克明な描写が肝となる。ゆえに、語り部である講釈師自身の“国語力”が、作品の良し悪しに響く。古典芸能の中でも、ある意味特殊な部類と言っていいだろう。また、落語との大きな違いは、“打ち扇子”という小道具を使うこと…リズムを刻んだり、話の場面転換を行ったりする際に、小気味よく机を叩くのに用いる道具で、どっちかといえば、扇子の形をしたハンマーみたいなモノと言った方が早いw
旭堂南陵の下へ弟子入りした時、当の本人は、歴史が大の苦手だったw さっきも説明したが、講釈師は歴史小説や史実を取り扱う芸人であり、そこの部分が苦手だと、大概は挫折して辞めるのがオチである。しかし、ある事をきっかけに、そこの部分をクリアできることに気づく…そう、戦国絵巻の物語には、必ず、合戦描写が出てくる訳であり、そこには必ず、馬も登場する。この“馬の描写”に着目し、競馬に結びつけた訳である。そこで、創作講釈として、競馬を題材にした物語を作る様になる訳である。この時から、自分自身を“競馬講釈師”と銘打って、活動するようになる訳である。折しも、バブル崩壊初期の競馬ブーム…競馬に関する芸事に関して、黎明期と言っていい時代に、大好きな競馬をモチーフにした物語を作っては、舞台で披露する事を繰り返した。とはいえ、最初の頃は、マイナーな古典芸であるがゆえに、一部の競馬ファンからは嫌われていた訳で…w
しかし、“継続は力なり”な訳でして、グリーンチャンネルKBS京都NHKが取り上げる様になると、次第に話題を呼び、仕事が増えた訳である。だが…それがゆえに師匠との軋轢が決定的となり、袂を分かち、“太平洋”という名で活動する様になる。何度も説明したが、講釈師はあくまで、歴史小説や史実を語るのを芸とした者であって、現在進行形の話を創作し、語る事は何事だという部分で、師弟が対立してしまった訳である。もちろん、双方の言い分には、それぞれにおいて正しいのだが、それ故の僻みや妬みを抱え込む様になる訳である。この事から、競馬関係者やファンは彼を支持する者が多いのに対し、古典芸能に親しみがある者や他の講釈師から、いろんな意味で“総スカン”を喰らう事になる。さらに、贔屓にしてくれていた放送局からも、芸能界特有の圧力に屈し、次々と番組打ち切りや終了に追い込まれたのである。ぶっちゃけ、競馬ファンはあくまでニッチでヲタクな層であって、芸能全般で言えば“少数派”である。それ故の弊害と言っていいだろう。
されど、本当に“競馬講釈”だけでイケるとは、当の本人も思ってないからこそ、干され気味になり始めた頃から、近代史の講釈を創作する様になる。この努力をいち早く認めたのが、先輩格の講釈師たちであり、もう一度、舞台に上がって活動できるようになる為に、現在の芸名に改めた訳である。再び“旭堂”の名を使う事に関して、当の本人はある種の屈辱を感じてるトコがあるが、これも自分自身が“講釈師”という芸人として生きるための、選択肢だったからこその話である。

この話をやると、前回の山田雅人とダダ被りな部分が多い様に思えるが、前者は俳優業の一環として、競走馬の物語を語るのであり、後者…即ち南鷹がやる競馬講釈とは、競馬そのものの“講釈”である。つまり、ファンの視点からなのか、関係者へ取材を行うかの差がある。そう、彼の芸は、トレセンでの関係者への取材が肝になってるのであり、現場の“生の声”を作品にしてるのである。ここの違いを認識した上で聞き比べると、結構面白いですよw

一切の事柄は、すべて“自分”に“原因”がある!!

アメリカ・ミズーリ州で起きた、黒人少年を射殺した白人警官に対して、不起訴処分という陪審結果に対する抗議。当事者遺族が不服をいうのはともかく、その周囲が騒ぐ“理由”はどこにある?事件の発端は、窃盗容疑で職質されるのを嫌った当事者が黒人であったこと、そしてその“行動”が過剰防衛を招いた可能性があること…ってことだが、アメリカに限らず、多民族国家であるが故の“民族差別”が根強く、特に白人迎合主義を“正義”とする概念がある以上、こういう問題は頻発するのが当たり前。同じことは、日本の嫌韓・嫌中思考にも繋がる部分であり、中国や韓国の抗日反日感情にもある部分。しかし、根幹的なことを除けば、その“理由”があんまりにも稚児こい訳であり、実態を考えた時、目の前の人間を信じられずに、上辺の情報に惑わされた心理故に、誤解や偏見を招く。この法則、西アフリカの“エボラパニック”と同じ理屈であり、実体験が乏しいが故に、パニックに陥る。

では、どうして“民族差別”がなくならないのか?その最大の理由が“変化”を嫌うあまりの“引きこもり”である。要するに、ニートと一緒で、現状維持を望むあまりに現実を見ず、実情に合わせた行動や提案があっても、自分の“幸福”に固執するあまりに、他者を邪険に思うようになる訳である。様々な風習、文化、生活様式が存在するのは、その地域に根ざした“進化の過程”という変遷がある。しかし、そこを無視して現状維持を訴えたトコで、何の意味もないのは言うまでもない。なぜなら、他者との交流があってこそ“歴史”は正しく刻まれていく訳であり、関係者“だけ”で技術開発ができるというモノではないし、様々な刺激があってこそ、芸術の幅は広がる訳であり、様々な意見や思考が寄り集まってこそ、社会全体が成り立っている。そこを無視して…否、排除して“純粋なモノ”など存在しない。競馬の話をするのはなんだが、競走馬としてメジャーなサラブレッドは、イギリス在来種の牝馬と純血アラブの三頭の牡馬(ダーレーアラビアンゴドルフィンアラビアンバイアリーターク)から成り立つ交雑品種であり、しかも近年はダーレー系の品種が一般的である。言い方を変えれば、より速く走ることを目的とした家畜馬として登場したのがサラブレッドであって、その基礎がタマタマ純血アラブだっただけの話であって、アラブよりも速い脚と耐久性がある品種の馬がいたら、それが今日の“サラブレッド”になっていたかもしれないってこと。ちなみに、“サラブレッド”とは、直訳すると“純血種”という意味になるが、実際は先ほど解説した通り。本当の意味での“純血”を求めるのであれば、それこそ、日本の場合だと野間馬やトカラ馬、木曽馬などの在来種を指すべきであって、もっと突き詰めれば、モンゴリアンポニー(蒙古馬)こそ、アジアの“純血種”とすべきである…もちろんこれは、あくまで極論だがw

人種差別で一番問題なのは、“古い因縁”を理由に罵る事が、いかに自分を“バカにしてる”行為なのかに気付かない事が、人種差別根絶を阻む最大要因であり、特に窃盗や傷害といった、実害を伴う犯罪は、どの人種、民族であっても、共通の“悪事”であるという認識が欠けてはいけないって事だ。ここを無視して“これだから黒人は…“とか、“だから黄色種は…“とか、“日本という国は…“とか、“大陸人の民度が…“とか言う筋合いはない。もっと言えば、自分自身が“その現場”にいた訳でもないのに、歴史上の話を持ち出して騒いだところで、目の前の人を傷つけたり、所有物を壊したりする権利はない。もしも、それを“理由”に襲撃していいというのであれば、必ずその“禍根”は、自分に降り掛からなくても、その周囲で影響を及ぼすことになる。これ、仏法における“四つの罰”の法則で、自分“だけでなら“別罰”で、自分がいる“組織全体”に及べば“総罰”となり、表面上に現れたら“顕罰”となり、後々に影響が及ぶのは“冥罰”となる。以前に解説した“One for all,All for one(一は全、全は一)”と同意の話で、たとえ自分とは“無関係”だと思われる事柄でも、それが総じて自分が所属する組織や故郷の“評価”につながる事がある。この自覚が欠如してる以上、必ず、歴史上における“同じ過ち”を繰り返す…それこそ、過去の出来事を先祖代々、後生大事に訴え続けること程バカバカしい話はない。今を生きる者たちを苦しめてる禍根を断ち切るためには、民族(組織)としての概念と、眼前の諸犯罪は“別問題”として片付けるべきであり、そのためにも、同じ場所の“住人”として、叱る事も、励ます事も、そして、支え合うことが肝となる。習慣や民族性の違いを認め合った上で、共通する事柄に関して、一切の贔屓や差別を許さない…それが、本来あるべき社会の姿なのです。肝心なのは、目の前の“相手”を侮蔑する権利は、何人たりとも有してはならない。そして、何人たりとも、いつ、自分が“原因”で他の誰かが傷つくかもしれないという“現実”から目を逸らしてはいけない。“他人”のせいにしていいのは、過去の歴史における粗相だけ。もしもそこで“因縁”をつけられたとしても、“当事者”でない者を責める筋合いはどこにもない。それでも他人をバカにするなら、それゆえに苦労するのは“誰”なのか…今一度、よく考えた方が良いでしょう。

 

さて、衆議院解散となったわけだが…2014

毎度ながら、不正な選挙だ国民無視だと騒いでるバカがウヨウヨ湧いてる様だが、今の政治がグダグダになったのは、言うまでもなく、国民全員の責任である。選挙に“行かない”事を“正義”とするなら、それは、自らの手で国を潰す事と同義である…言い方変えれば、政治を無視する“無血テロ”と一緒。しかし…いくらこれをやったトコで、当の政治家が公職選挙法を利用して、この“国民の行動”を“無視”してる以上、何の意味もない。政治家を懲らしめたいのであれば、選挙に“行かない”のではなく、選挙結果で“大波乱”を導く事にこそ意味がある。

今回の“突発的解散”は、表向きは“安定政権化のため”ではあるが、裏を返せば、連立相手の“公明党潰し”がチラ付いている…そう、維新の党が気付かないといけない事は、自分達自身の立場を、自民党が“利用”する可能性があるって事だ。小泉内閣以降、自民党公明党選挙協力を要請してる訳だが、本音を言えば、一刻も早く公明党…否、その支持母体である創価学会との縁を切り、昔の“一党独裁”の状態に戻したい議員が多い。ぶっちゃけ、昔の自民党に戻したいからこそ、こういう事をやってると、オイラは読んでいる訳である。投票率が低いのは、今の政治…というより、すべての政党や政治団体に、民衆のほとんどが“何も期待していない”からこその話。むしろ、選挙の度に“政権奪取”に燃えるのは、共産党ぐらいであるw なんでそうなるか?だって、共産主義こそ“正義”ですから…彼らにすればw

資本主義や拝金主義の限界は、資産を持つ人自身がその資金を“運用”することにばかり気を取られ、その“見返り”を求めすぎて、貧困層や僻み体質の他者に対する不信感から来る。貧困層もまた、自分の資産の無さを嘆くばかりで、必要以上に対価を求めすぎている事に気付いていない。どんなにお金があったとしても、物質的なモノ以外信用できない様では、誰も救われないし、どんなに大金が手に入っても、心が満たされる事はない。共産主義は、そこんトコの“解決策”の一つでしかない。みんな“平等・均一”という価値観を、物質的、あるいは具現的に限って実行しようとするから間違えるのであって、個々のレベルや事情に合わせた“解決策”を模索しない限り、必ず失敗する。中国の共産主義はある意味、少数民族を強引に抑え込む事で、主体となる民衆の不満を遠ざけ、“偽りの結束”によって、成り立っている部分が大きい。故に、かつて周恩来は、やがて来る“崩壊の時”を予見し、強引な政治手法に警鐘を鳴らした。しかし…かつての人民大革命による教育の歪みは、誰一人として修正されることなく今日まで及んでしまった。これが、日本近海での密漁尖閣諸島問題、さらにはベトナムフィリッピンでの領海問題などの“根元悪”である。ただし、だからと言って中国政府そのものが悪いというには、若干問題が違う。そう、中枢部と地方末端の組織で感覚がズレているからこそ起きる問題なのであり、中枢の幹部がどんなに部下の指導を行っても、喉元過ぎれば…ってヤツである。それだけ、民衆は自分“以外”の存在を見るコトができないくらいに疲弊してる事に気付かないほど、政治と民衆がかけ離れてしまっているのである。日本もまた然り。

閑話休題。要するに、選挙をせんでもいいのにやるのは、その裏にある“個人的危機感”がそうさせるのであり、また、マスメディアは、民衆が混乱する様をスクープせんがために、こういう事を風潮するトコがある。情報公開といっても、肝心なトコを公開しないのは、勘違いするバカが多いからこそであり、過度な不安を煽ってパニックになる事を防ぐためであり、また、しょうもない理由で振り回されている“真実”に、自分自身がやり場のない怒りで狂うのを避けるための“方便”である。時として、嘘を吐く事も必要である。だけど、それに対していちいち目くじら立てて怒鳴る様では大人気ない。維新の党の共同代表が、いわゆる“公明党憎し”で衆院選に出る様な事を言ってるが、府政・市政を投げ出して、国政選挙に出る様なエエ加減な人物が、今まで地方行政の長だった事の方が、大阪府民や大阪市民に対して失礼千万。それでも憎むなら憎めばいい…自分の責任でスクラムが崩れたのを、他人の所為にしてる様では、どんな最強のラグビークラブのトップスター選手であっても、故に新設の弱小チームにボロ負けする事になる…“One For All All For One(一つは全てに通じ、全ては一つのため)”とは、まさに、自分自身の愚かさが、せっかくの構想実現の“邪魔”になる事を意味するw 個別的な恨み言を政界に持ち込んでいる時点で、お察しである。だからこそ、敢えて言おう…代議士の名を騙るなら、万民の“奴隷”であれ。万民の“生贄”であれ。自分の使命に忠実になれない者は、“国首”の本意を知らずに玉座に座る“愚か者”である。さて、これから選挙活動のための準備をしますかw

関西の芸人と競馬の話

このタイトルを見て、関西の芸人…特に、吉本興業の芸人話でもするのかと思ったそこのあーた、残念でしたw ここで取り扱うのは、山田雅人にまつわる話。え、それって“競馬を愛する…”の方が合ってるかって?残念w オイラの信条として、局アナ・フリーランスの実況アナ以外は、あそこの部分では紹介しない事にしてるんで、こっちで紹介する訳である。というのも、今の若い競馬ファンからして、“渡る世間は鬼ばかり”などのホームドラマでのバイプレイヤー的な俳優のイメージしかないと思うが、オイラは彼のデビュー時から知ってるクチなんで、どっちかといえば“お笑い芸人”のイメージが、どうしても付き纏う訳である。まぁ…そもそものきっかけ自体、実は蜂谷アナが絡んでる訳でして…
幼少の頃からの競馬バカで、KTVMBSKBS京都、たんぱ(現:ラジニケ)の競馬中継を見聞きしてた事もあって、競馬の実況模写が非常に得意だった訳で、この事が“全ての始まり”といっていい。ほれ、今でもゴール板前の付近で実況の真似事してるキモいヲタク系の人がタマにいるかと思うのだが、実は、芸能界に入る以前は、そんなイタい存在でした。折しも、バブル期突入の頃…1984年、MBSでは、トンでもない深夜のテレビ番組をスタートさせました。そう、あの伝説のアナウンサーたちの自由時間番組“あどラン”です。この初期の頃に、実はある企画が放送されたのです。それが、競馬実況に関するネタの一つとして、熱狂的な競馬ファンの間で、“アマチュアなのに、局アナより実況表現がうまい”という噂を検証するために、彼を紹介する企画を作っちゃった訳です。まぁ…初期の“あどラン”は正直言って、いろんな意味でラジニケの“新アナライズド”を、さらにはっちゃけた様な内容のオンパレードでございまして、中には、よくこれ放送できたなぁ…という“トンでも企画”も相当あった訳ですが、その中の一つとして数えられるのが、実はコレなんですねぇw
ま、内容としては、かなり競馬実況に関して“熱いインタビュー”ネタになった様ですが、この部分を、たまたま見ていた視聴者の中に、松竹芸能のスカウトがいた様で、放送後に問い合わせをしてきたのだそうな。で、“蜂谷アナの紹介”という事で、松竹芸能から“競馬実況模写”の芸人としてデビューする事になる…んだが、さすがにマニアック過ぎる事もあって、最初は地方の営業ばかりやっていく事になった訳である。しかし、まだ当時20代だった事もあり、ルックス的にも伸び代が見込めると判断され、イマイチ芸風が固まりきれてなかった森脇健児とコンビを組ませ、テレビで10代向けの夕方ワイド番組をやらせる事になる。これが、YTV読売テレビで放送されていた“ざまぁカンカン”って番組。実は当時、いわゆる“夕焼けニャンニャン”系の若者向け番組が、テレビでウケてた時代の名残りがあって、また、バブル期で色々とヤンチャなことができた時代でもあったため、関西でも、伝説的な若者向けワイド番組が続々と作られた時代であった…その波に乗り遅れ気味だったYTVに、ダウンタウン今田耕司といった、いわゆる“二丁目系吉本タレント”に対する対抗馬として、松竹芸能がこの二人を売り込んだ訳である。ちなみに、この番組…ぶっちゃけると、ラジオの延長戦のような感じの内容で、最初は番組に来たファンレターを淡々と読んでいく様な感じだった訳だが、その合間に挟む、ミニコーナーがかなりぶっ飛んでいたw(男子大学生に強引にあみだくじを引かせ、その場で丸刈りにする“Oh 丸刈りータ”とか、寒いギャク投稿に対する公開処刑“メケノハカマカ”とか…w)で、これ自体、いわゆる吉本に多い“勢い任せな下ネタ”をする芸人を嫌った女子高生にウケて、5年ほど続いた訳でして、最終回には大阪城ホールが満員御礼になる程、ファンが押し寄せたのです。この後、山田雅人は“お笑い芸人”という枠を打ち破ろうとして、いろんなドラマで脇役として登場する様になり、やがて松竹芸能から独立する事になります。

俳優として、さらに磨きをかけたい…否、もう一度“原点”と言える競馬に関する“何か”をやりたい…この想いから、彼はドラマの撮影の合間を縫って、語り部としての話術を学ぼうと試行錯誤をやり始め、その一環として、ラジニケの赤坂朗読サロンに通う様になり、しばしば、スタジオで見かけることがあったそうです。それが現在の“持ち芸”である、競馬に関する“語りの世界”というヤツに繋がるわけです。で、先月、ラジニケの開局60周年記念イベントが京都競馬場で開催された訳だが、以前にも解説したと思うが、藤田アナは蜂谷アナと大の仲良しで、芸能界にデビューする以前から知ってる訳でして、だからこそ、ある意味、進行役である大関アナの緊張緩和と、話があらぬ方へ脱線する事を防ぐ為に、(もちろん、ラジニケのOBとして)あの場にいたと考えていいでしょう。なにせ、競馬の話…特に菊花賞にまつわる話になると、途端にヒートアップするほどアツいですからw


メディアリテラシーと五重相対

上記のタイトルを見て、“なんじゃそら?”と思ったあーた。メディアリテラシーといっても、なんのこっちゃじゃ意味がないから、ぶっちゃけ論でいえば、情報の真贋を見極めるには、実は仏法上の“五重相対(ごじゅうのそうたい)”という概念をもって、それを上手く使い分けることによって、正確な情報判断を下せる…という事である。そう、日蓮が説きたる五重相対と“摂受・折伏時による”という御金言は、現在でいうトコのメディアリテラシーの“基本”とも言える格言といって良い訳であるw

では、五重相対で情報を見極めるコツとは何か?先に“五重相対”のおさらいをすれば、

1)内外相対(内道と外道)

2)大小相対(大乗教と小乗教)

3)権実相対(権教と実教)

4)本迹相対(本門と迹門)

5)種脱相対(脱益と下種益)

という概念で、コレをメディアリテラシーとして考える場合、

1)他者の感情と、当事者の感情

2)総合的な事と個別的な事

3)本音と建前

4)噂と真相

5)過去形と現在進行形

という概念に当てはまる。つまり、一つの情報に対して、アプローチの方法は様々でも、それが真実か否かは、自分で確信が持てるだけの見極めが必要となる。故に、自分自身に関心があることならとことんまで調べるが、それ以外の部分での情報に疎くなるのは当たり前だし、当事者がいないのに噂や“関係者”を名乗る“他人”の話を鵜呑みにする事自体、既に“情報弱者”ということを世間に露呈してるようなモンである。まして、過去にあった出来事ばかり話したとしても、現在進行形で推移してる事柄が抜けてたら、全く“デタラメ”な話になりかねない。これらを総合して、なおかつ、全く知識や理解度がない人に解説するのと、専門的な事に精通してる人に対しての解説方法を間違えたら、それこそエラい事になる。故に、子供でもわかる様な解説と、いわゆるヲタク系に通じる話では、相手のレベルを推し量るため必要な情報量も違ってくるし、うまく説明できたとしても、相手が勘違いする様な解説では、却って情報そのものが錯綜し、真実が“消える”ことになる。だから、マスメディアが流す情報を精査する時には、“自分”と“相手”がどういう関係で、何をもって“事実”として確認する術を持っているかを考え、できるだけ“証拠”となる文献やレポート、当事者への聞き取りなどを踏まえた上で判断する事が重要となる。その“基礎知識”を、鎌倉時代から指摘してるのが日蓮仏法の面白いトコなのです。まぁ、あの時代からメディアリテラシーの事を指摘して、しかも分析・解読を行ってたとは、全くもってファンキーな人ですw

だから、某タレントの嫁さんに関する“黒い噂”を信じるか否かは、自分が相手に対してどのポジションで見てるかを考え、判断した方が賢いでしょう。また、触れられたくない事柄をベラベラ喋る人達が、如何に“安請け合い”で情報を垂れ流してるのか…それをよく考えた上で、目の前の“相手”と接して、真贋を見極めた方がいいでしょう。鵜呑みにした“情報”に盲信的になって、相手を侮蔑し、自身を正当化しようとする程、カルトな思考に陥ってる事に気付かなくなるのです。

 

 

恥をかかない為の馬名の話w

先日、某成金整形外科医が中央競馬馬主資格を取得し、所有馬の馬名登録を行ったら、申請した名前全てが却下された事が話題になったが、こういう事は、新米馬主にはよくある話であり、珍しい事ではないw しかし、これは馬名登録に関する規定がある事を知らないからこそ起きる事であり、また、実際に馬名の登録は、そのまま血統書に記載される重要な部分でもある為、悪ふざけをする馬主には、その悪ふざけで馬生を狂わされた競走馬達に、思わぬしっぺ返しを喰らわされる事を意味する。とはいえ、実際に繁殖用に回されるのは、競走成績が優秀で、且つ、血統的に貴重であったり、人気の高い産駒であるヤツでも、ごく一部だけだが…
閑話休題中央競馬において、競走馬の馬名登録には、いくつかの“お約束”が存在してて、それをクリアしてないと、希望する馬名を登録したくても“門前払い”になる。その基本的な“お約束”とは…
1)馬名はカタカナで2文字以上9文字以内(英語表記は20文字以内)

2)過去の名馬、および冠称と類似する、あるいはダダ被りな名称はNG(同一馬主、および法人は別)

3)既存する競走馬名で、登録抹消から5年未満の馬名は、再登録不可(GⅠ馬、および、重賞勝ち馬でない限り、実は使い回しができるw)

4)血統上の父母と類似する、あるいはダダ被りな名称はNG(読み方を変えてもダメw)

5)公序良俗に反する様な名称を使う事はダメ(当然ながら、人種差別系や民族侮辱系の馬名は、もってのほか!!)

6)あからさまに企業のCM効果を狙った様な馬名は言語道断w(今回のケースは、まさにコレw)

主に、この6項目に該当した時点で、馬名として申請しても、受付係員に目の前でビリビリと申請書類を破られても、文句が言えない訳でして、そこをなんとかしない限り、デビュー前でいつでも出走可能な2歳馬が、レースに出走できないまま終わってしまう事になる。逆を言えば、この6項目をクリアした上で、なおかつ、性別に似合った名称(牝馬なのに“タロー”とか、牡馬なのに“アユミチャン”みたいなアベコベな状態は、当然NG!!)であれば、何でもアリな訳である。故に、一部の馬主みたいな“珍名馬”が出走するケースがあって、ある意味、競馬実況アナに対する“言葉遊び”を強要する様な事態になる事もしばしばw
ま、この類で一番有名なのが、いわゆる“オダギラー”馬名であったり、冠称だけで言えば“シゲル”とか“テイエム”“カシノ”あたりが難癖系の馬名になる。で、その中の一人、小田切有一氏曰く、とにかく、実況アナがどんな風に、自分の持ち馬をレース中に表現してくれるかが楽しいから、ワザとそういう事をしてるのだそうな。故に、途方もない様な馬名がポンポンでてくる訳であり、いろんな意味で“実況アナ泣かせな馬主”として、結構有名になってしまってる訳である。とはいえ、“オダギラー馬名”だからと侮ってはいけない…オレハマッテルゼやノアノハコブネ等、GⅠクラスで活躍した名馬も存在するから、単におもしろがってるという訳でもない。(でも、流石にモチとかロロとかオマワリサンとか…どう頑張ってもふざけてるとしか言い様のない馬の方が多いのだがw)一昔前だと、“マチカネ”という冠称も、相当ふざけた馬名が存在しまくってた訳だが、そこんトコも含めると、毎年テーマを決めて名付けてるケースで、ちょいちょい“考えるのマンドクセw”となっただろとツッコみたくなる馬名と遭遇する事がある。故事成語にちなんだヤツから、映画俳優や役柄、果樹、戦国武将、アニメキャラ…果ては挨拶や方言等から名前をつけるモンだから、タマに馬名をみて“あのなぁ…”ってなるのは、ある意味仕方ないトコだろう。あ、ちなみに、アニメキャラの場合、上記の6項目に引っかかる確率が高いのだが、ジャスタウェイテイエムプリキュア等、他の言い訳を利用する事で、条件をクリアできる事もある。(ま、ジャスタウェイやオツウの場合、馬主がアレですから…w)

そういう意味では、競馬の世界にも、いわゆる“DQNネーム”やら“キラキラネーム”をつけたがる馬主がいて、それをなんとか抑制するために、主催者や関係団体がこういったルールの作成をやる訳である。世間の愛玩動物保有者にも言える話だが、いくら自分の“所有物”といえども、まして、自分が飼ってるペットを自慢したいのはわかるけど、常識を逸脱した名前を付けるのは、名付けられた動物達が気の毒で仕方ないw ま、個性的で楽しいのはわからなくはないが…

臨時投稿:女性アナに求められる“品格”とは何か?

一昨日のニコニコニュースで、日テレが、銀座で水商売(今回はクラブホステスのバイト)をしてることを理由に、女子大生に対して内定取り消しをやった件について裁判沙汰になってるという話題があった。ま、学生バイトの遍歴を“理由”にそういう事をやってるような放送局ですから、さぞかし、セクハラやマタハラといった、女性軽視も甚だしい行為を、社内ではやってないですよね?(過去の因習、忘れたとは言わさねぇよw) 経緯と今後の展開に関しては他のメディアに任せるとして、オイラ的に、放送局が“アナウンサー”希望の女子大生に対して、一つだけアドバイスしておこうかと思う。それは…所詮マスメディアは“男尊女卑”の世界のままで止まってる、旧態依然の職場だって事を頭に入れた上で選んでほしいという事だ。
ここからが本題…つまり、同じ職場で働く男性から見て、女性を軽視する最もの“理由”が、子育てを含めた家事全般をやるには、仕事を辞めて、嫁ぎ先の家庭に籠もってるのが“普通”だろ…という概念が抜けないことにある。今現在、結婚後も最前線で仕事をしてる女性アナは増えたが、30年以上前だと、結婚を“諦めた”者だけが社内での現役を続行し、結婚を機にマイクの前を去る…ぶっちゃけタカラジェンヌの様な形態の女性アナが一般的だった。しかも結婚→出産後に再登場するケースであっても、もともと、タレント事務所からの“派遣社員”として放送局に出入りしてた上での話で、正社員じゃなかった人の方が多い。関西で有名なトコを言えば、佐々木美絵アナがそれに該当する…彼女も元々、とあるタレント事務所からの派遣契約でMBSに出入りしてて、“ヤングタウン”や“アップダウンクイズ”などに出演してた。結婚後、MBSとの契約が切れたが、担当の番組を降板しなかったのは、その際に“タレント”として取り扱われたからである。(ちなみに旦那は努兄w)
では、なんで女性アナが“派遣社員”だったのか?その最たる答えは、先ほども書いた通りであり、そして、入社して3〜5年で“寿退社”されるぐらいなら、派遣で賄った方が、人員を確保しやすい…という事もあった訳である。これは今でも、関西の独立系テレビ局ではよくある話で、社員としてアナウンサーを抱えるよりも、タレント事務所からの派遣で賄った方が安上がりだからである。しかも、社員ではないからこそ、セクハラまがいな業務を強要しても、元請けのタレント事務所が許諾してる以上、文句が言えないという状況がある。つまり、裁判沙汰になる前にクビを切れる条件が整ってるから…と推測される。とはいえ、あくまで30年以上前の話であって、現在、こんなことが表沙汰になれば、“地域に根ざした放送局”という謳い文句を返上せざる得ない事態に陥る。(ただでさえ、セクハラは世間から叩かれるからねw)
とはいえ、女性アナに対して、雇用先である放送局が求める事は何か?もちろん、放送局の体質にもよるが、基本的に、人間としての品格を重んじる点は男性アナも同じ。違いがあるなら、それは“女性らしさ”である。特にテレビ局の場合、見た目の美しさはもとより、立ち振る舞いや発声の良さ、そして、放送局の“イメージ”を体現する為の態度が問われる事になる。ラジオ局やラ・テ兼営局の場合、ビジュアル面でダメポな女性でも、言葉の表現や話し方が上手いと、すぐにエース級の扱いになる。それどころか、中にはデスク職として後輩の男性アナをこき使う…もとい、指導する“スゴ腕お局”がいたりするw 故に、ベテランの女性アナが、世間的に言う“女子アナ”という表現を嫌うのは、男性目線で自分たちの事をバカにしてほしくないからこそであり、また、同じ女性でありながら、自分の職務に対してチャランポランな態度を取られる事が許せないからである。しかし…なんで女性アナを“女子アナ”と表現したがるのか?その“元凶”と言える話をすれば、なぜかラジニケにたどり着くw ま、その人に関しては来月に取り上げようかと思うが…
閑話休題、バイトで何をやっていようが、どんな学問をやっていようが、放送局が新卒を社員として雇うからには、そんな事は不問でなければならない。まして、アナウンスの業務を任せるのであれば、日本語の“正しい使い手”としての教養がある者の方が、即戦力として使える可能性がある。むしろ、いわゆる“おバカキャラ”であってはいけない。敢えて言っておくが、本来の芸妓・舞妓は、高学歴で教養豊かな女性でなければ、武士や富裕層の殿方と対等には張り合うことなど不可能と言っていい存在だった。そこから転じて水商売の女性を、本当にバカにしてはいけない理由はそこにある。様々な事情があって、夜伽を生業とする様になっただけであって、本当にそういった“特殊な接客業”をバカにするのであれば、それこそ愚かな話である…何故なら、“利用してる人間”が、自分の職業をまるで“聖域”の様に扱っている時点で、自分の職務や使命を見下してる様なモンである。だからこそ、こんな“つまらない理由”で内定取り消しする様な企業は、自分の方から願い下げすればいい…職種・職業に貴賎なし、就活者に品格を問うのであれば、企業こそ自らの襟を糺すべし。