迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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関西の芸人と競馬の話・その2

今回は旭堂南鷹(なんおう)にまつわる話…ま、デビュー時は“南太平洋”だった訳で、こっちの芸名で覚えてる人の方が多いんじゃないかと思うw オイラと年齢的に変わんないんだが、なんで“講釈師”という古典芸能の道へ進んだのか。その原点は、意外なトコにありました…と言っても、ここら辺はあまりに有名なので省略するがw
先に、講釈という芸に関して解説すると、そもそもは中国や日本の史実を基に、識字率が低かった時代において、その歴史小説や情報を、時に詳しく、時に誇張して、大衆の前で語ることを指す。一見すると落語や漫談に近い様に思えるが、中身はかなり硬派、且つ、テンポが早い。だから聞き手側も、ある程度知識や想像力が試されるトコがあり、また、やってる中身が殆どの場合、大河ドラマ級の戦国絵巻であるため、笑いを取る事よりも、克明な描写が肝となる。ゆえに、語り部である講釈師自身の“国語力”が、作品の良し悪しに響く。古典芸能の中でも、ある意味特殊な部類と言っていいだろう。また、落語との大きな違いは、“打ち扇子”という小道具を使うこと…リズムを刻んだり、話の場面転換を行ったりする際に、小気味よく机を叩くのに用いる道具で、どっちかといえば、扇子の形をしたハンマーみたいなモノと言った方が早いw
旭堂南陵の下へ弟子入りした時、当の本人は、歴史が大の苦手だったw さっきも説明したが、講釈師は歴史小説や史実を取り扱う芸人であり、そこの部分が苦手だと、大概は挫折して辞めるのがオチである。しかし、ある事をきっかけに、そこの部分をクリアできることに気づく…そう、戦国絵巻の物語には、必ず、合戦描写が出てくる訳であり、そこには必ず、馬も登場する。この“馬の描写”に着目し、競馬に結びつけた訳である。そこで、創作講釈として、競馬を題材にした物語を作る様になる訳である。この時から、自分自身を“競馬講釈師”と銘打って、活動するようになる訳である。折しも、バブル崩壊初期の競馬ブーム…競馬に関する芸事に関して、黎明期と言っていい時代に、大好きな競馬をモチーフにした物語を作っては、舞台で披露する事を繰り返した。とはいえ、最初の頃は、マイナーな古典芸であるがゆえに、一部の競馬ファンからは嫌われていた訳で…w
しかし、“継続は力なり”な訳でして、グリーンチャンネルKBS京都NHKが取り上げる様になると、次第に話題を呼び、仕事が増えた訳である。だが…それがゆえに師匠との軋轢が決定的となり、袂を分かち、“太平洋”という名で活動する様になる。何度も説明したが、講釈師はあくまで、歴史小説や史実を語るのを芸とした者であって、現在進行形の話を創作し、語る事は何事だという部分で、師弟が対立してしまった訳である。もちろん、双方の言い分には、それぞれにおいて正しいのだが、それ故の僻みや妬みを抱え込む様になる訳である。この事から、競馬関係者やファンは彼を支持する者が多いのに対し、古典芸能に親しみがある者や他の講釈師から、いろんな意味で“総スカン”を喰らう事になる。さらに、贔屓にしてくれていた放送局からも、芸能界特有の圧力に屈し、次々と番組打ち切りや終了に追い込まれたのである。ぶっちゃけ、競馬ファンはあくまでニッチでヲタクな層であって、芸能全般で言えば“少数派”である。それ故の弊害と言っていいだろう。
されど、本当に“競馬講釈”だけでイケるとは、当の本人も思ってないからこそ、干され気味になり始めた頃から、近代史の講釈を創作する様になる。この努力をいち早く認めたのが、先輩格の講釈師たちであり、もう一度、舞台に上がって活動できるようになる為に、現在の芸名に改めた訳である。再び“旭堂”の名を使う事に関して、当の本人はある種の屈辱を感じてるトコがあるが、これも自分自身が“講釈師”という芸人として生きるための、選択肢だったからこその話である。

この話をやると、前回の山田雅人とダダ被りな部分が多い様に思えるが、前者は俳優業の一環として、競走馬の物語を語るのであり、後者…即ち南鷹がやる競馬講釈とは、競馬そのものの“講釈”である。つまり、ファンの視点からなのか、関係者へ取材を行うかの差がある。そう、彼の芸は、トレセンでの関係者への取材が肝になってるのであり、現場の“生の声”を作品にしてるのである。ここの違いを認識した上で聞き比べると、結構面白いですよw