迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

ラジニケのアナはなぜ、デビューが遅い?

先日、“うまきんIII”のリスナーとTwitterで話し込んでいたのだが、他局の競馬実況アナは、デビュー2年目からGⅠ実況をやってるのに、どうしてラジニケの実況アナは、デビューから5年経ってもGⅠ実況をやらせてもらえないのかという話題になった。しかし、そこには放送局の“格の違い”や、会社としての人材育成方針の違いが、実況アナの違いにもなっている訳であり、デビューの早い遅いだけで語る様な話ではない。特にラジニケの場合、何度も解説したかと思うが、JRAの公式実況も兼ねている事を踏まえれば、安易に新人アナに実況を任せる訳にいかない事情があってこそ、こうなるという説明ができる。
実のトコを言えば、これ、ラジニケに限らず、テレ東系列のテレビ局でも言えてる事で、他の民放が、入社から3ヶ月の基礎研修を終えた後に、いきなり“初鳴き”となるのに対し、日経系の放送局は、大概、1年近く“塩漬け”になる事が多い。去年ラジニケに入社した山本直アナでもそうだが、正式に“アナウンサー”として紹介される様になったのは今年の6月以降で、米田アナでも福島テレビから移籍後、およそ半年以上は正式な所属アナウンサーとして紹介される事はなかった。もちろん、オイラの知ってる範囲で言えば、植草ブラザーズ(元・ABC植草貞男アナの息子達、長男は結樹アナでTVO所属、三男の朋樹アナがテレ東所属)も、それぞれ九州の放送局から移籍してすぐには登場していない。つまり、ここに日経系列の会社としての“人材作り”に関する秘密があると思われる。
ここからはオイラの推測なのだが、一番言えている事は、とにかく“報道記者”としての基本的な取材の姿勢を仕込む為には、所属の枠を超えた研修が不可欠という概念があって、こういった事になるのでは…という事である。つまり、単に縦割り的な役割分担をしても、協合する部分があると、そこで“仕事の取り合い”になってしまう。そこで、柔軟な対応が求められるから、一通りの仕事内容を経験させ、常にバックアップ体勢を整えられる状態にしておく事が、社員全員に求められていると考えれば、話の筋道がわかりやすい。言い方を変えれば、NHKの地方局員と同様に、あらゆる業務を一通りこなせて、初めて専門分野の業務に就かせる、少数精鋭ながらも業務に穴をあけさせないシステムがあると思われる。現に、競馬関連番組の殆どは、自分達で構成や番組進行、時間調整等を行っている訳で、競馬実況から外れたアナ達も、株式市場関連番組や音楽番組でのプロデュースを行っている。この器用さが求められている…となれば、必然的に入社から3ヶ月“だけ”の研修で身に付く訳がないし、中には“他の仕事がしたい”という理由で、入社1年未満で退社する人もいる。それを“回避”する為にも最低1年間の雑務をやりながら、基本的な業務の作法を、じっくりとやっていくのが、ある種の“伝統”になっていると考えていいだろう。
特に競馬実況に関して言えば、入社半年程度のペーペーに、競馬場内で、しかもGⅠレースの実況をしろと命じる程乱暴なやり方をすれば、公式実況を委託しているJRAも堪ったモノではない。もちろん、そつなくこなせる度胸と技能があるならともかく、入社して間もない新米に“公式実況”という荷は重過ぎる。だから、入社1年は競馬場へ通わせる事はあっても、実況席には座らせないで、主に雑用をやるだけであり、2年目以降から本格的に実況アナとしての訓練を行う訳である。だから、入社しただけでアナウンサーとしてデビューできる他局と違って、GⅠ実況までに時間がかかる分、“公式実況”を請負うにふさわしい人材が揃う訳です。

ちなみに、“あどラン”をやってた頃のMBSでは、4月の正式入社後すぐに番組内で紹介され、新人研修の様子がそのまま番組のネタとして取り扱われていました。中には、無茶苦茶なミッションを課してとんでもない事をやらかした人もいた様で、修験者になったり、パビリオンのコンパニオンになったり、サーカスの団員になったりと、結構身体張ってましたw (一番ブッ飛んでたのは、実際の舞台で漫才をやった事かしらw)

JR西日本を叩く、脳無し鉄ヲタへ。

昨日の台風騒動で、なぜかJR西日本の判断に非難が集中してる様だが、正直に言って、そんなに自然災害に遭遇して、賠償金が欲しいか?ただでさえ、広島の豪雨災害からの復旧等で収益よりも支出の方が上回っててピーピーな鉄道事業者に対して、無茶振りもいいトコだ。寧ろ、台風による土砂崩れ等を警戒せねばならん状況でもフルスロットルで運転してる、関西の私鉄の方がクレイジーだ。(とは言っても、近鉄と南海は“虎の子”の有料特急を運休しとったけどなw)なんでそんな事になるか、きちんと検証すれば、すぐに解る事。なのに誰一人として、何の検証もせずに文句言ってるから、オイラからすれば片腹痛いわ。言っとくけど、本当なら京都競馬も、昨日開催しようと思ったらできた状況だったのに、交通事情…特に競走馬の輸送に影響が出る事を考慮して、早々と中止にしたぐらいだ。それだけ、今回の台風19号は“動きが読めない”タチの悪いヤツだったって事であり、もしも、動きが速かったら、事前にJR西日本が下した判断でも、間に合わなかった可能性がある。そこまで予測して、批判を言ってるのか?

まず、JR西日本…特に京阪神地域の状況を言えば、都市部のエリアはどんなに運休したとしても、それを補って剰りある私鉄路線とバス路線が充実してる為、寧ろ殆ど問題ない。そもそも、代替輸送はどんな交通機関でも、不通区間エリアの事業者持ちで運賃が支払われる為、利用者自身は、事業者発行の証明を見せる事で、代替エリアの交通網を使う事ができる。ひっくり返せば、事業者が代替輸送の費用をケチろうと思えば、最初っから運行を取りやめて利用者を募らなければいいだけの話である。つまり、JR西日本がやった事は、事前に利用者に対し、メディアを通じて“この日は使うな”と告知してた訳であり、それに従わなかった人がバカを見ただけである。何度も言うが、JR西日本が悪いのではない、この日に無理矢理、JRを利用しようとした者が悪いだけだ。

もうひとつ、JRは19年前に“反則技”を使って神戸線(東海道本線山陽本線)を震災から2ヶ月で復旧させた事がある。当時の運輸省建設省がJRの無茶振りに対してGoサインを出した経緯を考えると、その“アラ”が出る前に回避したまでである。そう、阪神大震災で、大阪〜姫路の鉄道路線が壊滅状態になり、しかも主要幹線道路すら使えない状態だったらか、それをいち早く解消しようとすれば、大量輸送ができる鉄道の復旧が急がれた訳であり、旅客しか扱っていない私鉄(阪神&阪急)よりも、貨物も扱うJRが厚遇されるのは、当然の話。そして、安全確認の為の最終試験走行に、重量がある電気機関車重連4編成作って走られる事ができたからこそ、他の事業者よりも早く復旧させる事ができたと言って良い。しかし、たった2ヶ月の工期で、高架の鉄路を復旧させた事の“弊害”は、そろそろ何らかのカタチで出てもおかしくない状況である。それを避けないと、福知山線脱線事故以上の被害を出す事になる…だからこそ、慎重を期したまでの話。第一、台風でズタボロになった交通機関を使って、目的地に行こうとする方が、頭おかしいのではないか。件の兵庫県議員が政務活動費に関する虚偽の発言がバレたきっかけとなった話も、報告書の記述された日付に台風で運休してたハズの路線を使ったとしてたからである。つまり、最初っから“運休”って言ってるのに、それでもそこの区間を“利用した”と嘘付いたからバレたと言って良い。にもかかわらず、こういう頓珍漢な事をするバカのせいで、その“責任”を取らされたら、誰が真面目に仕事する?

閑話休題…根本的に、何の為の“サービス”かって部分を勘違いしてるバカが多いと、必然的に仕事の質が下がる訳であり、苦情が多ければ多い程、それに対応する部門がてんてこ舞いする訳である。で、それがわかってても、過剰に期待してるトコがあるから、全体的にダメになる訳で、肝心なのは、利用者ではなく、事業者が如何にして“従業員”の生活を守るかに重点を置くのが“本物”であって、サービス残業(無賃金労働)や深夜のワンオペ(一人で店舗の営業を任せる行為)なんかをする事業所が“正義”になるのは、ぶっちゃけ、それを“望む”顧客がいるからである。そう、いわゆる“ブラック企業”が繁栄するのは、“利用者”の利便性を理由にされてしまってる事に、当の本人…つまり自分自身が気付いていないからこそである。もっと言えば、低価格で高品質を求め過ぎた結果が、日本の経済そのものが“gdgd”になってしまった、全ての元凶なのである。賃金を上げたくないなら、寧ろ労働時間を短縮して、雇用を創出させる“ワークシェア”という概念を持つべきであって、しかも事業者、利用者双方が、その概念を勘違いしてはいけない訳である。

 

本気で、JR西日本の対応を“腰抜け”と抜かすのであれば、御嶽山の噴火で、自分の命と引き換えに写真や映像を撮った人々こそが“正義”か?自分の命よりもスクープが欲しいなら、マスメディアの社員は、毎年、何らかの“労災”を会社に報告しなくてはならなくなる。それが嫌だから、フリーの戦場カメラマンやルポライターと称する者にギャラを払って“使い捨て”してる訳であり、記者自身が自らの意思で戦地や被災地で取材する方が稀である。当然だが、私鉄各社もJRの“尻拭い”をしてた訳じゃない…自分トコの従業員を守れぬ事業所に、現場の“安全第一”だの、“法令遵守”等を声高に叫ぶ権利等ない。現場での対応を任せられるだけの安全基準と、現場と指令の信頼関係あってこそ、安心できる定時運行ができるのであって、その概念抜きでギャーギャー言うヤツは、故に“自分の責任”で事故に遭って、交通機関がマヒった時の“補償”ができるのかと問いたい…当然だが、走行・通過中の列車に飛び込んで自殺する者や、プロ以上の写真や画像が撮りたいからと線路や踏切に侵入したり、無断で車両基地に入るマナーレスと“同罪”な事を言ってる以上、他人を批判する資格はない。少数派の“迷惑行為”よりも、大多数の“利用者”に対する“運行上の安全の確保”こそが、公共交通機関を運行してる事業者の“義務”である。それを無視しろと言って事故った責任を、事業者に訴えてる時点で、他の利用者に大迷惑を掛けてる事に気付かないといけない…それでも自分の“利便性優先”で騒ぐなら、最初っから公共交通機関を使わない事だ。

なぜ若者が“イスラム国”へ参加したがるのか?

今朝のニュースで、北大の学生が“イスラム国”へ参加する為に…というのがあったが、正直、19年前の出来事が頭をよぎった。そう、いわゆる“オウム事件”ってヤツ。なぜ、学生は、既存の“平和”を否定したがるのか?その最大の“原因”は、いつも、かつての“若者”が指導者の立場になり、自分達のやりたい放題が通じる様になった事による“弊害”を、今の“若者”が被ってるからである。つまり、当時のオウム幹部の殆どが学生上がりや若き研究者で構成されていたのと同じで、それが世界規模になっただけの話だ。宗教の教義に従った行動なんてのは、あくまで隠れ蓑であって、本質は、卯建の上がらん若者が、一刻でも早く、既成の“平和”をブチ壊して、自分達が“主役”となる世界にしたいと願うから、こういうバカげた行動を取ると言って良い。

事実、“イスラム国”と称するテロ集団に加わってるのは、およそイスラム教徒とは思えない外国人…特に白人が目立つのは、その“出身国”の社会情勢を鑑みた時に、ある“共通項”が見出せる。それは、あまりにも“平和”過ぎて、若者が“退屈”している事である。そしてもうひとつは、あまりにも“高齢者”が社会で実権を握り過ぎて、未来を担う者達の成長を阻害してるからである。言い方を変えれば、“自分”が長年掛けて築き上げた“世界観”を潰されたくないあまりに、若者を冷遇し、奴隷の様に扱ってる事が、若気の至りで正義感を振りかざす者にとって許せないからである。もっと言えば、役立たずな年寄りが厚遇される事が、一部の富裕層のみが幸福である事が気に喰わないのである。しかし…真面目な話、こういう“幼い正義感”こそが、実は権限を握る“黒幕”の思うツボであって、コレが因で世界中が戦争する様になれば、一番ケラケラ嗤うのが、そういう“老人”共だ。

戦争はいつでも、富裕層のわがままで起きるのではなく、貧困層が現状の“不幸”に溺れて破壊を望む様になる事から始まる。しかし、どんなに物質的な豊かさがあっても、心が満たされない訳で、その“乾き”を潤す術を知らないから、暴力による破壊と殺戮を繰り返す。その刹那の世界観が“美しい”と感じる様になると、必然的に自分以外の“誰か”が不幸になる事で“幸せ”を得るというパラドックスに陥る。自分が“不幸”になりたくないから、“誰か”を“生け贄”にして“幸福”を得ようとする…仏法、特に法華経において、そういう“矛盾した幸福論”は、自分だけでなく全ての人々を不幸にさせる“元凶”として、一番罪深い事としている。その打開策として言われるのが“願兼於業(がんけんおごう:自らが業に挑む事を望み、願う事)”であり、自らが様々な困難に立ち向かい、足掻き続ける事を“使命”とする概念である。だが、ここで間違えてはいけない事がある…それは、その“使命”に殉ずる為と言って、他人の人生や価値観までも破壊して良いってモンじゃないって事だ。つまり、自分の“不幸”も“幸福”も、決して“他人のせい”ではないのに、他人を責め、ズタボロにする権利は、何人たりとも有してはならないという事だ。

しかし、残念ながら、拙き者達の“正義感”は、自分の不幸を“他人のせい”にする事で解決させようとするから拗れる訳であり、その“心理”を利用して、世界規模の戦争をしたがる訳である。何故なら、自分が“英雄”として褒められたいが為である。誰に?その“価値観”を決めるのは、富裕層の有識者でもなければ、自分の家族や祖国の人々ではない。自分の事を必要とし、大切に思ってる“指導者”である。その“指導者”が人殺しを望むのであれば、自らが“指導者”の“奴隷”となる事も厭わなくなる…宗教がたびたび叩かれる背景には、“指導者”と“信徒”の主従関係…というより“師弟関係”が、他者から見て異様な状態になっている事に、信徒も指導者も気付かない事が多い。褒められたい一心でやった行為によって、批判される事に強い不信感を抱ける時はまだしも、そこが狂信的な状態に陥ると、どんなに世間が“おかしい”と指摘しても、その言葉すら聞こえなくなる。多くの宗教は時として、それを“善し”としてきた部分がある。それ故に、他宗派や異文化に対する批判的な態度を取り、そういった“外部”を排除する動きを見せる訳である。そして、それが行き過ぎた時…そのカルトな思考は、内側ではなく外側に対して牙を剥く。鬱屈した思いをどうにかしたいが、自分達以外の存在が“ウザい”と思うからそうなる訳であり、他人様なんぞ“排除すべき“で凝り固まった挙げ句、自分達の存在を他人に認めてもらえないなら、破壊してしまえ…となる訳である。これこそ、“摂受折伏時による”という御金言を忘れた姿と言って良い。

自分が寛容であれば、他人もそれ故の価値観で自分の事を受け入れてもらえるのに、それが“許せない”と感じるのは、他人に屈する事の“敗北感”が嫌だからである。そうなれば、相手も同じ…結局、そこには相手を想い、信じてやれるだけの“信頼関係”を構築する術を、誰一人として学べなかった事が全てとなる。自分のみのちっぽけな世界観が、他人によってボロカスに否定される事を嫌うあまりに、人間不信になった者が向かう先は、故の“他人排除”の概念である。イスラム国やオウムへ向かう若者達は、老人共にボロカスに言われる事が腹立たしいから、武装して襲撃するのである。そして、彼等をボロカスに言った老人共も、かつて同じ様に、ボロカスに言いやがった連中が憎い…だが、それ故に若者から復讐されるのが怖いから、学童に対して“奴隷になれ”と教え込もうとする訳である。そこに気付いた者達が、結局暴動を起こす事となる。貧困が悪いのではない、富裕層が悪いのではない…一番悪いのは、第三者の振りをして嘲笑う、自分自身だ。彼等もやがて、気付く事になるだろう…世界を変革するには、表層の豊かさや武力を恨み妬む事ではなく、人それぞれの幸せを願う強き信念と、慈悲と真心から来る自らの行いであると。

酒とカラオケと競馬実況w

女性アナの件でも紹介した様に、競馬実況アナは、いろんな意味で“体育会系”のノリが支配する世界であるw 特に酒を介した付き合いは尋常ではなく、故に苦労した人も多い。よく聞く話としては、牧夫の“飲兵衛”ぶりは、相当なモノという事…オイラも三石青年団の婚活ツアーに参加した事があるが、マジで皆さん、お酒が強いw
さて、ここからが本題…酒宴があるトコでは、カラオケがセットになってる事も多い。で、競馬実況アナの中には、コレが“苦手”で早々と逃げる人もいるw もちろん、歌うのが好きな人もいるのだが、名調子の実況ができるからと言っても、全員が歌唱力があるという訳ではない…寧ろ、音痴な人の方が多かったりするw だから、“呑むのは良いけどカラオケ込みはちょっと…”って人もいる訳で、それ故の回避策が、いろいろ考えられている事もしばしばw
よくあるケースが、“さらばハイセイコー”で前振り実況を入れて、他の人に歌わせる方法。特に、ベテランアナに多い傾向で、ハイセイコーを一度でも生で見て、実況してる経験から、雰囲気に合わせて間奏に織り込むという方法。ただ…これはこの曲を知ってないとできない方法であると同時に、若手には“はぁ?”な訳であり、歌うのが好きな者にとっては、逆に苦痛になる事も。類似的な事で言えば、“走れコータロー”(“走れマキバオー”でも可)での実況シーンでの“早口言葉”もそれで、アレ自身は実況をパロってる訳だが、中にはオリジナルを差し込もうとして玉砕してるケースも見受けられる。この2曲は、競馬関連ソングとしては名高いヤツだが、競馬実況アナが実際に歌うとなれば、この2曲は、なぜか歌われる事は少ない。ま、いろんな意味でネタ的な扱いされるのと同時に、若手がふざけて歌う分にはともかく、ベテラン勢は真面目に歌いたい事もあって、避ける傾向にある訳で…
“実況を織り交ぜる”というケースでは、主に演歌…しかも酒絡みの楽曲に、実際のレース実況の再現をやるという手法で切り抜ける人もいる。この場合、曲のシチュエーションが大事になる訳で、別れの歌なら名馬の引退レースを、祝いの歌なら八大競争の名場面を…といった感じのチョイスをして臨むのだが、タマに選択ミスでヘンテコリンな状態になる事もある。こうなると場の空気がダダ滑り状態になり、歌う者も、実況する者も、非常に空気が微妙になるw 言ってみれば“諸刃の剣”ともいえるネタであり、関係者同士ならともかく、見ず知らずの一般客がいる様なスナック店では、絶対に避けたいトコである。
まぁ…酒絡みの“失敗談”は数知れずで、美藤アナの様にコップ一杯のビールだけで爆睡する様な人はともかく、夏場の出張シーズンは、宿泊先の現地の歓楽街で、いわゆる“盛り場鬼ごっこ”なんてのは日常茶飯事w もちろん、理由のひとつに競馬関係者への取材も含まれてる訳だが、レース開催時にホイホイと騎手が出歩く訳じゃないので、必然的に、滞在先の競馬場にいる厩舎関係者(主に厩務員)との付き合いで呑む訳であり、これが意外とアルコールに強かったりする訳である。そうなると、翌日の業務を考えずに呑むハメになる事も多々あって、放送席や記者席が“酒臭い”状況になる事もよくあったそうで、中には仕事中に“二日酔い対策”と称して、コップに並々と注いだ冷や酒を呷ってから…って人もいたそうなw とはいえ、流石に最近は健康志向が流行とあって、ここまで深酒するバカはいなくなったといえど、それでも古くからの因習で、酒を介さないと話ができない…って人も未だにいる訳である。それ故に、出張先でのセクハラ紛いな行動が仇となり、泣く泣く実況席から離れた人もいる訳で、同じ事は、他のスポーツ実況のアナウンサーにもある。

ちなみに、かつての名実況アナに共通して多いのは、実は“音階音痴”であること。つまり、カラオケが苦手なのは、歌う事に馴れてない&日頃から音楽(特に邦楽)とは無縁な生活をしてた事が原因で、小学校時代から“音楽苦手”なんて人も、しばしばいる訳である。杉本アナの件でも紹介したが、本人の声で歌をレコーディングしようとしたら、あまりにも楽譜通りに歌えない(=そもそも、楽譜が読めないw)為に、企画そのものが頓挫した…って話もある程。逆に、実況がヘタレな人程、歌うのが得意だったりする事も多い。つまり、実況アナにとって歌唱力がある…というよりも、酔って歌える芸達者は、総じて実況が中途半端になりやすい様で…

五新線の話…

先月末で、五条バスセンター〜専用線城戸(じょうど)の“専用線経由”路線が廃止・路線変更となった。理由は、路線の“老朽化”という事だが、こう表現すると何か違和感を持たれる人も多いだろう。無理もない…そもそも、この“専用線”自体が、本来であれば鉄道区間として開発が進められたトコの一部であり、もしも国鉄時代に無理矢理でも五条〜新宮に鉄路を敷いていたなら、この路線は存在する事はなかった訳である。ぶっちゃけ、五条〜城戸が既に完成してて、だけど鉄道による貨物輸送の需要が見込めずに、計画そのものが中止になった事を受けて、この一部区間を“バス専用”という事で整備したのが、件の路線という事である。

鉄道事業は時として、計画はあれどその後の採算が見込めなかったり、建設途中のドラブルが原因となったりして、頓挫する事が多い。当然だが、元々の事業路面電車だったモノを、高速鉄道として格上げするのも、狭軌から標準軌への改軌を申請しても、国交省がイチャモン付けたらそこまでなトコもある訳で、なかなかすんなりと事が進まずに頓挫するケースもあるから一概には言えない。しかし、鉄道であれ、高速道であれ、地元住民にとって、外部との、あるいは近隣の公的機関や商業施設等への交通網が拡充されるためのインフラ整備は、採算を度返ししても行われるべき事案なのに対し、なぜそれができないのか?その一番の原因は、やはり“コスパが悪い”の一言に尽きる。

つまり、新幹線の開発が、他の赤字ローカル線の損失補填以上に費用を喰っていたからこそ、表向きでは“赤字路線の廃止”を是とした訳であり、また、新幹線を整備していく過程で、どうしても切り捨てなければならない区間や地域が出るのは致し方がない事を地元に説明するにも、やはり何らかの“見返り”が欲しい訳で、そこんトコでモメてる内に、財政破綻が見える様な状況になる訳である。この“五新線計画”も、そもそもは、新宮や十津川等で伐採した杉や檜の原木を、都市部まで輸送する為の貨物路線として、当然ながら、東南海沖地震で海岸線に沿って走る紀勢線が、津波の影響で不通になった際の迂回路線として、計画されていたと考えて良い訳で、工事そのものは戦前から行われていた訳である。が、戦争や急激なモータリゼーション化が、結局この計画を“白紙”にしてしまった訳で、だけど、五条〜城戸の区間ができてただけに“もったいない”という訳で、路線バス以外は“車両通行禁止”という事で、国鉄バスがこの区間のバス路線を開業させ、後に、奈良交通が引き受けた訳である。が、奈良南部の人口減少が止まらなく、また、多くのトンネルや橋脚が老朽化してる事、更に、バス路線として採算が見合わない事もあって、専用道の補修費用すら賄えないなら…って訳である。

オイラもその存在は、幼い記憶であった訳だが、なんでこの道が使えないのかがイマイチわかってなかった。が、元々“鉄道路線”として供用されるハズだったからという理由を知って、納得すると同時に、仮に全線開通してたら、今のJR西日本の体質なら、豪雨災害を理由に真っ先に廃止になってただろうなぁ…と察しがつく。それにしても、いろんな意味で“贅沢なバス路線”だった事だけは、今更なから感慨深い。

競馬を愛する語り部達…vol.27 中京の重鎮・吉村功

正直、ネタ枯れ気味なのは致し方ないトコだが、それでも競馬に関する話をやめないのは、コアなファンがいる限り続ける事に意味があるから…否定するならいくらでも相手になりますよ。その時点で、オイラの“勝利”ですけどねw
とまぁ、一部のバカに対して喧嘩売ってどうすんだよなツカミは置いといて、今回は中京エリアの方々、お待たせしましたw 長年、東海テレビの競馬中継のみならず、あらゆるスポーツ中継で活躍し、現在も岐阜放送でレギュラー番組を持っている、吉村アナの話ですよ。まぁ、ぶっちゃけた話、近畿地方在住の競馬ファンにとって、杉本アナ以外のFNS系競馬実況アナに関しての印象は、とにかく“地味”で、且つ、馴染みが薄い。(しかも、いわゆる“裏開催”の時は、レース実況以外、殆ど映らないし…)まして、東日本エリアのアナウンサーは、東京以外は“OUT of 眼中”なモンだから、資料が全然ないのが実情w まして、中京開催と言えば、本当にこの人以外“アンタ誰?”状態w ま、競馬実況に関して、東海テレビを退役する晩年は、地元で相当叩かれてたようですが、そもそも論からして、この人以外の競馬実況アナが、本当に競馬実況が上手いのかと言えば、それは違う気がします…ではでは、本編に入りましょう。
西日本…特に“裏開催”と呼ばれる第三場として使われる事が多い中京と小倉ですが、今でこそ高松宮記念がスプリントGⅠとして、そして今年からダートのチャンピオンズカップが新設GⅠとして開催される事となり、ある意味阪神が“格下げ”っぽくなりつつある訳ですが、それ以前の中京と言えば、夏競馬の始まりと終わりを告げるイメージしかありませんでした。(個人的感想です、あくまで…w)そして、いつもそこには、吉村アナの姿がありました。実況スタイルからして、派手でゴテゴテのイメージが先行しやすいFNS系の実況アナが多い中、彼はどちらかと言えば、寧ろシンプルな方でした。ま、杉本アナで馴れると、どうしてもそういうイメージになる訳で…wでも、そこにはそれ故の“原点”があります。それは、彼自身がいわゆる“野球バカ”であるが故の哲学が、そこにあるからです。
東京出身で、事ある毎に父親と一緒に球場に行っては、野球観戦を楽しんでいた程で、だからこそ将来は、野球に関する仕事がしたいと願っていた。で、その願いは、名古屋の放送局が叶えてくれる事となる…そこで、中日ドラゴンズに入団したての星野仙一(現・東北楽天イーグルズ監督)と出会い、彼とともに、当時のナゴヤ球場でのホームゲームで、実況のあるべき姿を常に研究し続けていた。そこで得たのは、ファンと一緒に楽しむ野球中継にする事…これが吉村アナの実況スタイルの基本であり、その延長線上に、競馬実況がある訳である。だから、他の競馬実況アナがスピード感やレース展開の描写を肝としてたのに対し、どっちかと言えば“素人の競馬実況”といった感が否めなかった。しかし…本当に素人が実況してるのであれば、何もここで取り上げる必要もなければ、話題にする事もない。寧ろ、そのシンプルさこそが“聞きやすい”実況だったからこその“評価”であって、逆をいえば、派手なパフォーマンスを好むFNS系の実況アナのファンからすれば、派手さがない故の僻み…と考えるとスマートかと思う。それは、実況に関する概念の違いであり、テレビの場合、レース実況は“映像の補足”であり“描写よりも直感的な表現”が好ましいとされ、故にどうしてもデコレーション系の実況になりやすい。ラジオの場合は映像がない分、実況アナの描写ひとつな世界である。そこの違いを間違えて批判すれば、それこそ失礼にあたる。吉村アナが目指したのは、“テレビでもシンプルな実況”であって、それ故の苦心だからこそ、他の実況アナに比べてヘタレの様に聞こえるだけである。寧ろ、競馬が嫌いで実況を疎かにしてた訳ではないし、他のスポーツ実況…特にプロ野球との兼務もあった事を踏まえれば、どんなフジテレビの競馬実況アナよりも(ヘタすりゃ、KTVの連中よりも)上手いのは言うまでもない。だからこそ、東海テレビを退職した後も、岐阜放送でのスポーツ中継を中心に、実況アナとして、今でも現役で活動している訳である。
そして、忘れてはいけないのは、1996年に高松宮記念(当時は高松宮杯)が短距離GⅠに格上げされるまで、GⅠ実況の経験がなかった事…言い方を変えれば、裏開催の競馬場で実況するアナウンサーにとって、最高峰のレースを生で実況する事は“夢のまた夢”でしかなかったのに、JRAの改革によって、中京エリアに限って、それができる機会ができた…これが何を意味するか、想像してほしい。初めて中京で開催される、GⅠレースとなった高松宮杯を、他の誰よりも最初に実況する栄誉は、誰にも譲れない…その思いは、レース以上に並々ならぬモノだった。批判される事を恐れず、初めてのGⅠ実況に臨んだ時、既に定年の時が迫っていた。遅咲きながら、東京と大阪に集中してたGⅠ実況アナの、中京での第一人者として、その歴史を刻んだ瞬間だったのは、言うまでもない。

“おうまのracecallerふんせんき”の方でもチラっと書いたが、2年前の福島のイベントに参加しなかった理由は様々あるが、一番大きかったのは、中京競馬場でしか競馬実況の経験がない事が全てだと思う。本来なら、蜂谷アナよりも吉村アナが登場する事によって、FNS系の実況アナによる競演という絵面も面白いと思うのだが、それ以上に“地元LOVE”なトコがあって、恐らく、ヲタナベ局次長からの誘いを断ったのではないかと推測される。でも、自分より若い世代の実況アナを邪魔したくないからこそ、競馬実況から身を引いた。しかし、名古屋を中心とする東海エリアの競馬ファンや関係者からの人望が厚く、今でも競馬記者クラブの会友として、名前が残ってるのです。

何でもかんでも、他人を批判するな。自分が“利用者”である限り…

昨日、御嶽山が噴火して、Twitterでの情報収集をやってたら、マジでキモい感情論でほざくバカなアカウントがウジャウジャと…言わんとせん事はわからんでもないが、それとこれとは“別問題”であって、何でもかんでも関連付けて話すべきではない。…こう何度もオイラはTwitterで、あるいはこの裏別館で書いた訳だが、いっこうに直らない様である。まぁ…自分の意見こそが“正義”だと思ってる人程、自分がカルトな思考に陥ってる事に気付かない人種であり、多角的に物事を見て、選別する能力が乏しいのだと思う訳だが…

まず多いのは、脱原発と結びつけるネタ。これに関しては生温く笑うしかないw 何故なら、原発事故は老朽化した原発廃炉せずに、CO2排出量制限の名の下に酷使した事と、いわゆる“事業仕分け”の名の下に地震や火山活動の観測機器の更新を怠った事、そして、様々な人為ミスによって引き起こされた部分に加えて、マグニチュード9.0という未曾有の衝撃によって生じた津波でとどめが刺さったから起きた事故であって、もしも京都議定書を守る必要などないのであれば、とっくの昔に建造から40年以上経った原発は、既に廃炉準備に入ってても良かった訳である。逆の言い方をすれば、それを見誤ったのは利用者である国民全員であって、企業としての東電原発利権を振りかざす自治体のせいではない。

次にリニア新幹線絡み。これもまた、トンデモ論のオンパレードで、なんであのルートなのかを解説すれば、東南海沖地震東海道本線および新幹線が津波でつぶれた場合、北陸新幹線という迂回路ができたとしても、支援物資や避難の経路としては不確定であると同時に、上手く機能しても、許容量オーバーは急速な劣化を招きかねない。つまり、インフラ整備を嫌ったせいで、既存の避難経路が使えなくなって犠牲者が増えるという、広島の豪雨や東北の津波被害の様な結果を繰り返す事になる。高速道路にしろ、鉄道網整備にしろ、それらはあくまで平時の事よりも有事の時にこそ、本当の意義を知る事になる。ぶっちゃけ、19年前の阪神大震災の時でも、まさか阪神高速3号神戸線が横倒しになるなんて、誰も予想できなかった事であり、復旧までに4号湾岸線を使おうとしたら、そこも橋桁落下でしばらく使えなかった事を踏まえれば、幹線道路の“バイパス”は、同じ様な場所にいくつも作っても同じ様に被災したら意味がない。だからこその迂回路としての高規格道が必要なのであって、単に渋滞緩和や物流量増加を理由にやってる訳ではない。

そして自衛隊や米軍批判…もうここまでくれば、“自助できた?”って問いただしたくなる。自衛隊在日米軍とて、本職は“人を助ける”事であって、その為の訓練を積んでいる。それが建設重機になるか、戦車や戦闘機といった戦の準備になるかだけで、根幹的なトコでは“人命第一”な職務である。ぶっちゃけ、消防士や警察でも、己の命が危なくなったら、たとえ要救護者が目の前にいたとしても、危険回避の為に逃げる事を優先にしてるが、自衛官海兵隊員は、敢て危険を顧みずに救援に走る事がある。それが使命であり、その為の配備としてオスプレイを導入してるだけである。

そこんトコを勘違いして、自然災害をこれらのせいにしてる者こそ、実は天地の神々から怒りを買ってる事に気付かない。他人のせいにして、いかにも自分は“被害者”であると扮してる事こそ、宗教哲学上“愚か者”なのである。宗教はあくまで、先人の偉業を敬い、自ら精進し、それを超えて行く事を請願する教えであって、その為の儀式・儀礼が存在する訳であって、その意義を忘れて形式ばかりに囚われた概念で他者を罵る事は、無神論者ではなく鬼畜がやる行為である。自然からの恵みに感謝し、共存する事を願うからこそ、自然と頭を下げる事ができる訳であって、そういう事ができない者が、自然保護を理由に害獣駆除にイチャモン付けたり、公共インフラ整備を阻害するのは、とんでもない話である。敢ていえば、自然保護を訴えるのであれば、自分が文明に利器を捨てて、それでも快適な生活ができる実証を、自らの体験を持って訴えるべきであり、また、地域によって、それが通用するとは限らない事を知った上で、それぞれの事情に合わせた開発を提案し、実践する事が重要なのである。当然だが、それは他者からの一切の手助けを断った上での話だ。真の意味での自然保護とは、常に人間が必要最低限度の整備を行ってこそ成り立つのであって、過度な開発制限や禁猟(漁)区を制定する事ではない。当然だが、自分の感情論で語るのではなく、様々な地域の歴史と気候、生態系を加味した上でのデータを提示して、どうするべきかを論ずるべきであって、先住の民の経験や予測を無視して強引な規制や過剰な開発は避けるべきである。あくまで、先人の知恵をバカにしたツケは、必ず自分達の子孫末代にまで響く事になる…但し、先人達の意見全てが正しい訳ではない。その“過ち・間違い”を見つけ、そこを改めてこそ意味がある。真の恩知らずとは、即ち、今の自分があるのは、決して自分一人だけで成し得た結果ではなく、様々な人々から影響を受け、あるいは与えた結果である事に気付かない、稚児しい存在である。