迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

ずるいよ…

昨日の昼間に、Twitterの通知が賑やかだったんで確認すると、後藤浩輝騎手が自殺したという一報で、競馬関係のフォロワーが騒然とした様子だった。確かに、彼の様なファンサービスを積極的にやってる騎手は、とんとお見かけしないだけに、これはあまりにも切ない…そして悲しい話ではないか。遺された者達にとって、精神にどれだけ傷つけたことか。
一部フォロワーから、自死した騎手に対して、一開催期間中、献花台を設けてファンの声を集めるのはおかしいという意見があるが、オイラからすれば、それは後藤騎手のやってきたことに対しての“返礼”であり、あまりにも唐突すぎる事だったから、現場が混乱したが故の話として無視するのが賢明…と判断する。どうせ、いつもと変わらない週末の競馬だし…

ここからが本題、自死を選ぶ人の心理は、誰にもわからないのではなく、誰にでも潜在的に存在する意識である…が、そのリミッターが壊れる時は、なんでもない様な事がきっかけになってる可能性がある。もっと言えば、今まで“できた”ことができなくなったり、自分自身の“居場所”を見失ったり、これまで自分がやってきたことに対して自信を失ったり…とにかく、本当に他人からすれば“どうでもいいこと”が、当事者にとっては“一大事”であり、たとえその悩みや苦しみを打ち明けられる場があったとしても、そこへ向かう事、あるいは、向こうから近づいて来たとしても、それ自体が既に嫌になっている…だから、突発的に死を選ぶ可能性がある。生きている間なら、どんな我儘も大概の場合、相手あってこその反応があり、そして、それに対して、ある程度までは笑って済ませることができる。が、死んでしまえれば、それに対する悲しみや怒り、憂いが先行し、そして二度と、誰であろうと、声をかけることができなくなる。
だけど、自死を選ぶ人の多くは、それが“鬱陶しい”からと、自分という“存在”が消えても、世界はどうにでもなる…という概念に捉われてしまっている。要するに、自分の中の“自分”が、勝手に“消滅”してるから、精神と肉体の両方を合致させる術としての“答え”が、戦い続けることによって自分を見出し、自分の意思で“生きている”という実感を求めるか、戦うことすら億劫になり、早く“次世代”へ切り替えたくて死を選ぶか…この“究極の二択”になる。生きてても虚しさだけしか残らないから死ぬのではなく、勝手な“満足感”に堕ちたから…そうなると、もはや誰も止めることはできない。残念だが、ファンや関係者が声をかけたとしても、まして、親族や親友が手を引いて止めようとしても、当人自身が“もう充分だ”と感じたその瞬間から、すべてが決まってしまう。故に“鬱陶しい”のであり、勝手に自分の存在そのものが“消滅”してるのである。
ただ…遺された者は堪ったモンじゃない。勝手に“精神のバトン”を放り上げて、その場からいなくなったからね。だからこそ、この喪失感に負けている訳にはいかない。むしろ、死んだ事を後悔させるぐらいの覚悟で、競馬に打ち込もうじゃないですか。だからこそ、失ったモノは仕方ないと割り切り、ただ寡黙に、愚直に、前へ進んでいきましょう…彼のことを忘れたくないのであれば。

陽気でファン思いなアンちゃんに哀悼の意を表し、今を懸命に生きる者達にご武運を…南無。