迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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競馬を愛する語り部達…vol.16:夏に燃えるクイズ王・小林雅己

はい、今回は、ラジオNIKKEIの“コバマサ”ですw 今年は改装工事中で札幌出張がなかった事と、ダメ虎…もとい、阪神がイマイチ締まりのない結果だった様で、相当フラストレーションが溜まっている様ですが、競馬実況アナとしては、かなり人気が高い反面、昨今は短距離GⅠ戦線以外での実況機会が減っているトコが気掛かりなトコ…しかし、鋭い感性と記憶力の良さは、デビュー時から定評があるからこそ、短距離路線で多頭数という状況でも、キチンと捌ける腕がある訳で、その根幹には、学生時代の経験が活きてると言って良いでしょう。ネタそのものは5年前に、“西のモリシゲ”こと、MBS森本栄浩アナとセットで紹介した(http://d.hatena.ne.jp/strayhorse/20080115/1200403948)んだが、ここでは競馬実況アナとしての部分を再編集…

プロフィールと見ると、元々高校球児だったそうで、確か茨城県でも有数の甲子園常連校の出身だったらしい。ただ、公式戦で活躍する事が殆どなく、背番号も2桁のまま…ま、“補欠要員”扱いのままで、選手として甲子園へ行く夢が散った訳である。で、コバマサが何でトラキチかと言うと、どうやら出身高校のOBに阪神田宮謙次郎選手がいたそうな。(高校野球マニア&トラキチなら、一発で小林アナの出身高校がどこか、よくわかるヒントだわ…w)でも、その当時は真面目な話、後に中日やロッテで活躍した牛島投手(当時、波商のエース)の球を打ってみたいとか、掛布選手のファンだったから左バッターボックスに立ってスイングしてみたかったとか。
で、高校時代は球児だったけど、某タレントよろしくな“おバカ”キャラでなかったのがこの人の面白いトコで、記憶力の確かさから転じて明治大学へ…そこでその頭脳の良さを活かしたサークルに所属する事になる。コレが“明大クイズ研究会”なるサークルで、関東の大学サークルでもクイズ番組での覇権争いは凄まじいモノで、特に小林アナが在学中だった頃…1980年代は、それこそ視聴者参加型クイズ番組の全盛期時代で、その中でもトップクラスのサークルだったのがココなのである。で、一年生の時から既にその頭角を表していて、番組の予選会の当選確率の高さもさることながら、本選での活躍ぶりも凄まじく、まさに“明大クイズ研のエース”と称されてたそうな。で、そんなクイズ三昧な日々で、時として出題される知識の中に競馬用語もあった訳で、コレが後に競馬実況アナへ進むきっかけとなる訳である。当然だが、あの“アメリカ横断ウルトラクイズ”や“アタック25”にも出場した事があり、当然だが“アップダウンクイズ”にも出場する事があったそうな。実は、この“アップダウンクイズ”で苦い経験をする事となる。てのも、あと一歩のトコで、“失敗は許されない…”というプレッシャーに圧されてしまい、他の回答者に先を越され、負けてしまうんです。てのも、“アップダウンクイズ”をご存知の方はわかると思うが、間違えると一気にゴンドラが最下層まで落ちるルールになっていて、それにビビってしまったのです。ま、この当時から“勝負弱いギャンブラー”だった様でw
この時から、大学卒業後はアナウンサーになりたいと考えてたフシがあって、しきりにカメラ写りを気にする事が多かったそうな。でも、どのクイズ番組に出場しても、その見栄えの悪さが祟って、“俺、テレビ向きじゃないや…”と思う様になり、そこでラジオの方へ進路を向けていったそうな。で、結局内定を貰った先がラジオたんぱ(現:ラジオNIKKIEI)だった訳で、ここで本格的に競馬と向き合う事となる訳である。で、丁度この時は広瀬伸一アナが佐藤泉アナと替わって東京本社勤務になった頃である。だからこの時から何かに付けて、広瀬アナに指導を仰ぐ機会があったらしく、特に実況中の言葉遣いに関する指導を受けたんだそうな。そして1994年に、山本直也アナと入れ替わりで大阪支社へバシルーラ…もとい、転勤した時に、広瀬アナと同じ神戸市内に住居を構えた。理由は簡単、常に彼に付いて行きたかったからである。(もちろん、甲子園球場に通いやすいという事もあった訳だが…w)だが、コレがあの忌まわしき阪神・淡路大震災で“消息不明”の原因になるとは…。この時、実は心配して真っ先に広瀬アナが小林アナのトコに飛んで来たのはいうまでもなく、その事が原因で、“西の双璧”が安否確認にてんやわんやになった訳で…そういや、あれから18年が経過したんですなぁ。
そんな“災難”は、東京本社に戻ってからも続き、1998年の札幌2歳Sの翌日、突然左半分の顔面が動かなくなり、病院で検査したところ、原因不明の突発性顔面神経麻痺(通称ベル麻痺)を発症してる事がわかった。かなりの重症だったらしく、現在でも本当は後遺症が残ってるのだそうです。そういえば、20代の頃の写真と現在の写真では、若干向かって右側の部分の表情が、現在の方が強張った状態になってます。(でも、ちゃんと実況できるまで回復させたってのが、スゴいわw)
そんな彼にとって、ある意味“大勝負”となった出来事といえば、やはり2008年にあった“クイズミリオネア”騒動ですね。話が逸れるついでに、日本での“クイズミリオネア”に関して、簡単に説明すると、元々は世界中で“一攫千金”できるクイズ番組として人気を博し、インド版の番組では、映画“スラムドッグミリオネア”になる程、放映された国では社会現象になる程人気高い番組で、それをCXフジテレビがアメリカの本家から版権を取得して、一時期、レギュラー放送してた訳で、電話で事前の予選を行い、地域毎の予選から番組上の本戦、そして、MCとのタイマンで、100万ドル(日本の為替レートで換算して1,000万円)目指して4択クイズを繰り広げる…言ってみれば、クイズでありながら、MCとの駆け引きがウリの番組である。(日本では、そのMCがみのもんただから、色々と見ててイラだつ番組だった訳だが…w)
この番組に、ラジニケに内緒で一般参加で出場し、本選でセンター席まで行ったからさぁ大変w ラジニケの局アナである以上、グリーンチャンネル以外の他局の番組への出演には、各局間の放送規則として、所属する放送局と相手の放送局からの“出演許可”を貰わなきゃいけない訳で、しかも万が一、センターまで残った時の為に、自宅で応援してくれるスタッフを待機させなきゃならないわ、紹介VTR作成の為に、新潟競馬場ラジオNIKKEIの放送席にCXのミリオネア取材クルーを入れなきゃならんわ…で、これまた番組上での企画等の加減で、てんやわんやの大騒ぎとなり、放送されるまでに当初の予定(8月放映予定)から4ヶ月(12月放映)待たされる事になったのである。結果は…“アップダウンクイズ”同様、プレッシャーに負けて750万円の手前で“ドロップアウト”した訳だが、その姿はまさに往年の“明大クイズ研のエース”としての姿だった。

話が逸れまくったので、競馬実況アナとしての部分をやっていこう。さっきも書いたが、広瀬アナに実況に関する言葉遣いを相当学んでいた様で、それ故に実況では、相当神経を尖らせている。そして、元々高校時代に野球部で心身を鍛えた事もあって、運動神経の良さと正確な動体視力を持っている。しかし、その正確無比な目が、公式記録としての実況では“仇”となる…北野アナのトコでも触れたが、写真判定が必要な勝負になった時は、例え自身が見間違いがなかったとしても、馬券を握りしめているファンに対して、自らの判断のみで優勝馬を言い切る行為は背任に等しい。しかし、それにも拘らず言い切ってしまう危うさがある為、中央競馬八大競走の実況から外れたといっていい。もちろん、過去にオークス有馬記念を担当してるとはいえ、その危うさが、他の放送局ならともかく、JRAの公式記録として残る実況を請け負っている以上、実況がチグハグになって失敗すると、土下座だけでは済まされない。

この実況は、特にその“危うさ”を物語っている。結果的に、写真判定で事無きを得たが、実際問題、映像を見れば、ほぼ馬体が並んだ状態である。ラジオの音声のみで判断する分にはともかく、映像を見たファンからは、“ヘタレ実況”と批判されても文句は言えない。しかし…
この様に、基本ができているからこそ、タイミングのいいフレーズを使えるのである。ただ…例題として挙げてる実況が、若干“吉田節”に聞こえるのは、気のせいだろうか?