迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

競馬を愛する語り部達…vol.15 MBS随一の“走り屋”・蜂谷薫

今日は蜂谷アナの68回目の誕生日ですwという訳で、今月の締めくくりは、蜂谷アナにまつわるエピソードでも、一番根幹となる部分の話。どうして競馬実況アナという道を選んだのか、そして、タイトル通りの“走り屋蜂谷”の異名が付くきっかけとは…2005年10月に本家で散々やりまくった(http://d.hatena.ne.jp/strayhorse/20051016/1129474348)のだが、改めて、このブロマガでやっていこうと思う。

アナウンサーになりたかった理由は、“生”で見たマラソンの感動を伝えたかったからだ。そもそも、蜂谷アナぐらいの年齢の人なら、ローマオリンピック男子マラソンでの“裸足のアベベ”を記憶してる人も多い。特に蜂谷アナは、非常に“運動音痴”というコンプレックスがあったのだが、細身で色黒なアベベの快走ぶりに、様々な思いを馳せた。その事がきっかけで、スポーツに携わる報道記者…特に、マラソンの実況をやりたいと、将来像を描いたのである。その夢を叶えたくて、いくつかの放送局やスポーツ紙(実は放送局がダメなら…と予防線を張ってた。)各社を受け、はるばる大阪まで就職活動をやっていた。そして、念願かなって、MBSでアナとしての内定を受けた。しかし、入社してわかったのは、希望していたスポーツ実況ではなく、DJやMCといった“バラエティー系”アナとしての採用だったのだ。確かに、入社時の写真を見ると、当時の男性アナとしては結構“ハンサム”な顔立ちをしていて、しかも細身の体格は、カメラでの見栄えが良く、キャラクター的に、当時人気を博していた、斎藤努アナの“後継者”にでもなり得る可能性は高かった。が、蜂谷アナ自身はそんな“きらびやかな世界”があまり好きではなかった。しかし、辞令を受けた以上は…と諦めかけた時、同じ様な理由で悩んだ同期入社のアナがいた。それが緒方憲吾アナだった。彼は元々、演劇青年だったが、アナウンサーの道を選んだ時に、少しでも演劇(芸能)の世界に関わりたいと、バラエティー系を志願していた。が、見た目がゴツく、熊本出身故に肥後弁アクセントが強く、体格もそこそこあったのでスポーツアナの辞令を受けた。そこで二人は、各々の目指した道を歩む為に、お互いの辞令を“交換”したのである。それ以降、二人は硬い“友情の絆”で励まし合う事となる。
しかしこの事が、先輩スポーツアナの反感を買うハメとなる。特に野球中継班での“パワハラ”は酷かったらしく、この事が遠因となった“ハプニング”が、後々発生する訳である。そんな事もあって、まともにスポーツアナとしての実践経験を積む事ができないのでは…という不安を払拭する為に、存在そのものが“茨の道”だった競馬中継班に、あえて身を置く事となったのだ。(本人はその理由として、「年齢の近い先輩アナにゴチャゴチャ言われるより、10歳以上離れた先輩アナに指導してもらう方が、技術が身に付きやすいから」と言ってた。)
そんなある年のセンバツの時期に、蜂谷アナの体調に“異変”が起こった。その年の開会式の模様を、TVでの中継の実況を任されていたのだが、本番直前になって腹痛を訴え、とりあえず甲子園球場にある、実況席から最寄のトイレに駆け込んだ。が、待てど暮らせど放送席に戻ってこなかった為スタッフがトイレに迎えに行ったその時、トイレ入り口付近でドス黒い血の海の中で、グッタリしている蜂谷アナを見つけた。すぐざま救急車で病院に運ばれ、診断した結果、十二指腸潰瘍で緊急の手術が必要な程の重症だった事が判明した。(今でこそ食欲旺盛だが、本当はこの影響で、胃袋が通常の3/1しかない…姿勢が若干、猫背気味なのも、実はこの影響。)
この事がきっかけとなり、周囲のスポーツアナからは“貧弱なスポアナ”と揶揄された…らしい。またこの事を理由に、野球やラグビー等のスポーツ中継のスタッフから外されてしまう事となる。しかし、その事は競馬中継のスタッフにとっては“ありがたい”話となった。なぜなら、それまでは“専門”として競馬実況できるアナが存在してなくて、大概は他のスポーツ中継の実況担当との兼ね合いを見計らって、競馬実況のローテーションを組んでいたんだが、蜂谷アナがその役割をやってくれれば、他のスポーツアナ達が競馬実況ができなくなっても、中継を“存続”させる事が可能になるからだった。そこで、体調面とスポーツアナとして生き残る為の選択として、“競馬・競艇専門”の実況アナとして、仕事を制限した。(2014年4月26日追記:この時、スポーツ部やアナウンサー室の同僚達から「もしも競馬中継を、次の週で打ち切ると言ったら、お前はどうするんだ?」と言われ、即答で「MBSを退社する」と答えたそうです…こないだ、皐月賞調教見学ツアーの際に、そんな事を話してくれました。)
“あどラン”が始まってすぐの時に、その旨を視聴者にアピールする機会が与えられた。(2018年4月23日追記:3月にグリーンチャンネルで放送された“競馬書記”で流れた、日本ダービーの架空実況の映像が、それに該当します。)そこで、普段の“ラジオでの競馬実況”の裏側を紹介した。この放送以降、完全に競馬と競艇以外の実況から身を引いた。しかし、思わぬ出来事が、この“あどラン”放送中に発生した。それが“マラソン”シリーズのネタである。
そもそものきっかけは、来栖アナの件でも解説したが、結城哲郎アナの“全員参加deスポーツ企画”のひとつとして、グァムでの駅伝大会に参加する事になって、その予選会を、当時の千里丘スタジオから目と鼻の先にある万博記念公園で行ったのである。当初は若手中心のチーム構成になるだろうと誰もが予測したのだが、その意に反して、ぶっちぎりで1位に入線したのが、実は蜂谷アナなのである。ただ…本番当日は日本ダービーの実況があり、どうしても休む訳にいかなかった事から、改めて競馬開催スケジュールを確認したところ、当時は阪神開催だった事もあり、土曜日の実況後に伊丹空港から成田経由でグァムに入り、第1区(およそ8km)を40分以内で走れば、成田空港経由で東京競馬場にギリギリ間に合う…という無謀なスケジュールを立て、これを実行した訳である。(ちなみに、その時の優勝馬はウイナーズサークル。)しかし、完走後に何か物足りなさを感じ、その年のホノルルマラソンへの出走を表明し、42歳にして初めてのフルマラソンで、3時間48分というタイムで完走したのである。その2年後には、サロマ湖100kmウルトラマラソンに出走し、いわゆる“サブ10(ウルトラマラソンで10時間以内に完走する事)”を達成させたのである。
これがきっかけとなって、MBSの競馬中継に“蜂谷人気”が波及したのである。で、ある時に彼自身が一番“嫌ってた”ラジオパーソナリティーの仕事が舞い込んだのである。それが“気分はアクティブ”という番組だった。(担当は火曜日、パートナーは小山乃里子…この二人の共通点が北海道生まれだったりするw ちなみに、この番組をやってた時、23時頃のテレビニュースの担当もやってたりするw)この番組の1コーナーで、彼が好き勝手に(本当はマラソンの話をやる予定で)喋って良い部分があったのだが、このコーナーに競馬に関する質問や意見等のハガキが大量に送られて来た。で、とても放送期間中(ナイターオフ番組だったんで)に処理しきれないとなって、それじゃ番組に“昇格”しましょうとなって、日曜日の早朝に“蜂谷薫の走れ!ジョッキー”として独立させたのである。(のちに放送時間が移動になり、後輩達が跡目を継いだが…w)
定年後も2年程、MBS制作のCRKラジオ関西での競馬中継で実況をやっていたが、思う様な実況ができなくなった事を悟り、実況席の双眼鏡を置いた…しかし、2012年11月18日、競馬実況マスターズの名の下に、唯一やり残した“仕事”をする為に、彼は馬場アナとともに福島競馬場へ姿を見せた。この実況をもって、彼はラジニケのアナウンサー以外では成し得る事ができない、中央競馬全場実況という記録をも、打ち立てたのである。


さて、マラソンと競馬実況以外での話をするなら、実は蜂谷アナは大の犬好きw 幼少期から現在まで、特に日本犬種が好きで、一時は柴犬のブリーダーもやってた程。(理由は、馬の血統を学ぶのに、具体例として用いたかった為w)でも、ジャーマンシェパードだけは、今でもトラウマがあって、あんまり良い思い出がないとか…というのも、小学校の時に、飼っていた黒いシェパード(なんでも、進駐軍の払い下げ的な感じで譲り受けたらしい…)が、目の前で交通事故死した為で、以来、シェパードを見るとそれを思い出してしまうのだとか。他にもインコを飼ってたり、ガーデニングが高じて、近隣の農家に農地を借りて、本格的に農作業をやってたりする。そもそも、園芸好きは母譲りらしく、ヒマさえあれば、とにかく花の種を買い求めては自宅のプランターに植えてみたり、土を弄り過ぎて枯らしたり…という事もしばしば。しかし、現役時は、水やりが必要な夏場が小倉出張という状況で、更に、マラソンをやる様になってからは、殆ど嫁さんに世話を任せっ放しにして、相当嫌事を言われたそうなw