迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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競馬を愛する語り部達・番外編:昔、娯楽の人…将来、俺がスタンダードw・斎藤努

今月は終始、MBSアナウンサー関連で記事が構成されます…てのも、今月は蜂谷アナの誕生月だからですw(かなりエコ贔屓…)で、競馬実況アナではないけど、MBSのアナウンサーの歴史を語る上で外せない存在、斎藤努アナ…オイラは敬愛を込めて“努兄(つとむにぃ)”と呼んでいる方に関する話を、今回は取り上げる事にする。正直、努兄がいなかったら、蜂谷アナにめぐり逢う事もなかったし、ここまで競馬実況にのめり込む事もなかった。オイラにしてみれば、努兄とマーグ…もとい、土居まさるの存在こそが、オジアナヲタクとなる原点であり、その延長線上に、競馬実況アナに関する様々な話題を提供する事ができるのである。だからこそ、ここでキチンと取り上げておかないと、後々、他の競馬実況アナを紹介する上での基準がぼやける事になる…本家Blogの“My favorite announcer”でも、一番最初に取り上げたのが努兄であり、そして、全ての帰結点でもある。

オイラが幼少期の頃、丁度テレビはラジオから続々とスタークラスのタレントが登場する様になる頃であり、その過渡期に、日曜の夕方に放送してたのが“ヤングおー!おー!”である。当時はまだ、MBS日本教育テレビ…現在のテレビ朝日とネット提携をやっていた頃であり、番組の殆どが、大阪制作の割合が多かった。オイラは物心付いた頃から、テレビの前に陣取っては、いろんな番組を見ていたが、特に気に入ってたのは、“ヤングおー!おー!”と“TVジョッキー日曜大行進”だった。その当時から、一番気になっていた存在がいた…それが努兄だ。というのも、他局では絶対に姿を現さず、MBSでしか見る事のできない“タレント”だったからだ。ま、努兄がMBSの“社員”だという事に気付くのは、中学校に上がる頃、たまたま見た深夜のテレビ告知なんだが…w
当時から、他のアナとは違う、とてつもないカリスマ性を帯びたオーラをなにげに感じていた。70年代当時の流行であったアイビールックやジーンズスタイルを、局アナなのに着こなしていたのが、後々民放のアナ達のファッションスタイルに大きく影響を与える事になり、特に顕著なのが、CBC中部日本放送に在籍してた小堀勝啓アナだったりする訳で…
閑話休題、ともかく、その出立ちがあまりにも当時のアナウンサーらしくないスタイルだった事が、当時の若者世代に大いにウケた訳であり、また、ラジオでも、その破天荒ぶりが注目されたのである。特に、“ヤングおー!おー!”の元ネタになっているラジオ番組“MBSヤングタウン”…通称“ヤンタン”のスターティングとして選ばれた理由が、どこまでも若者目線で歌舞くスタイルだったという点を、“ヤンタン”の生みの親である渡邊一雄氏は晩年、本に綴っている。(興味ある方は、“ヤンタンの時代。”ってタイトルで検索をw)ただ…当時の努兄はスポーツ実況アナでもあった為、“ヤンタン”が軌道に乗り始めた頃に、プロ野球中継のローテーションに組込まれた為に、本来全曜日担当だったのを、前半と後半に分ける事になり、この時に月曜のワンコーナーで登場していた河村静也…そう、桂文枝(当時は桂三枝)と正式に分担する事になり、のちに、センバツでの一悶着(粋がって生やしてた髭を剃る事を拒否した事で、スポーツ担当から外されたw)を経て、完全にコンビを組む様になるのである。そして“ヤングおー!おー!”がスタートすると、“ツトム&サニー”のコンビは、関西を中心に人気を博する事となる。もちろん、今でも文枝師匠とは事ある毎に連絡を取り合う関係であり、渡邊氏が亡くなった時も、そのお別れ会を派手にやろうと企画した程である。
しかし、そんな人気絶頂期に、いわゆる“ネットチェンジ”という試練を受ける事になる。そう、現在のJNN系列にMBSのテレビが加わる事になったのは、実は田中角栄内閣時代の“日本列島改造論”の一環であり、これで割りを喰ったのがABC朝日放送で、元々、TBSとネット提携を組んでいたのは、ABCのテレビの前身である、NJB新日本放送…ま、MBSの前身なんだが、そことの合弁会社OTV大阪テレビ放送で、NJBが単独でのテレビ放送免許を取得すると言い出してモメた事による存廃問題の煽りを受けて、OTVのスタッフと機材、そしてTBSとの提携をABCが引き継いだのである。この件については、テレビのアナログ放送終了時の特別編成エンディングを見た者であれば、多分、理解可能だろう。この時の“提携の歪み”を解消しようと試みた事が、後々、混乱を来す事となる。そして、ABCから出向でTBSに行っていた道上洋三アナが強制的に引き返す事になったのを受け、その代理として、MBSは努兄にTBS出向を命じたのである。そして、それを機に、それまで伸ばしてた髪をばっさりと切り落とし、“ヤングおー!おー!”を降板したのである。(実は、道上アナと努兄は、共に日本大学出身なんだが、道上アナは山口県随一の高校生ハードラーで、その実績による推薦入学をしてるんだが、努兄は浪人をしてたりする…ま、いろんな意味で“永遠のライバル”なんですよ、マジで。)
この時の海外取材等の経験が、のちに政治に深く関わるきっかけになる訳であり、そして、いわゆる“あの法則”を持ち込んだのも、その経験が因ともいわれている…いやね、当時国交断絶状態だった韓国への取材を試みた事が仇となり、事実上、TBSから系列局の社員なのに“出入り禁止”という制裁を喰らってたりするw で、これを理由にMBSに戻ってから、平松アナとコンビを組む事になる…丁度、小池清アナがアナウンサーとして一線を退く事となり、その後釜として、“MBSナウ”のキャスターとして登用される事になり、常に平松アナのサポート役として活動する様になる訳である。で、これと前後する頃に、“あどラン”を制作する事になり、のちに番組制作の裏方へとシフトする。表舞台から一時姿を消すきっかけも、やはり朝鮮半島絡みの取材であり、北朝鮮の実情を“あどラン”の企画として取材する事と引き換えに、アナウンサーとしての一線を退いた(一応、形式上は加藤康裕アナが取材した事になっているが)…けど、1998年3月で“あどラン”が放送終了するとともに、在籍するアナ達の引き締めを行う為に、アナウンサー室長として最前線に戻って来た。そして、この頃から羽衣国際大学で教鞭を取り始め、定年後は正式な教授として招聘される事となる。そして…平松アナが大阪市長選へ出馬する事を受け、その後援会を立ち上げた事をきっかけに、そっち方面での活動を活発化させた訳である。それは、どこまでも“みんなのアニキ”としてのプライドが、そうさせていると言って良い…楽天家のフリして、実は思慮深く、洞察力に優れ、そして強い正義感が、そのカリスマ性の“正体”だと思う。(しかも語学力が凄まじいから、どこの国の要人であろうと、通訳ナシでガンガン話せるという特技があるw)

でも…そんな努兄にも弱点がある。それは、彼には子供がいない…いや、実際はどうだかわからんが、実はバツイチで、再婚相手が佐々木美絵アナであり、彼女との間に子供を授かる事ができなかった。でも、今でもおしどり夫婦なトコがあって、時折、夫婦で行動してるのを見かける事があるとか。もちろん、努兄は佐々木アナの話題を振られると、完全にリヤ充ノロケをやらかす訳で、当然、佐々木アナと一緒に仕事をする事になると、完全に注意力散漫になるw
ついでに言えば、イベント・催事が大好きで、賑わいの中に飛び込んで大騒ぎする時が、いちばんイキイキしてる…ん?どこぞの海賊マンガの主人公だな、このノリってw