迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

競馬を愛する語り部達…vol.13 憧れと現実の狭間で・馬場鉄志

さて、今回は馬場アナに関する話w と言っても、本家のまんま(http://d.hatena.ne.jp/strayhorse/20071115/1195122628)コピペしても面白くないでしょうし、あらかたのネタは既に2月の段階で暴露してますから、ある意味スカスカです。でも、一応、キチンと紹介しないと、そこは不公平ってモンでしょw

苗字の如く元々競馬好きで、将来は競馬関連の仕事に就きたいと願ってた。で、大学生になってからは、更に具体的に、競馬実況アナになりたいと、日々夢を描いていた。そもそも競馬のデータブック(競馬四季報)の発刊に関するスタッフとして創刊に立ち会い、この時から競走馬の血統とか、牧場・厩舎関係者の思い等、競馬のもうひとつの魅力…ギャンブルとしてではなく“人馬一体のドラマ”というスポーツとしての魅力にひかれていった訳である。そんな場面に立ち会えて、なおかつファンにその魅力を伝える仕事は何だろうと考えた時、アナウンサーになることを決意した様である。しかも、競馬中継をやってる放送局なんて数は知れてるものの、そんな中で注目したのがラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)とKTVで、特に長岡アナと杉本アナの実況に心酔した訳である。(なんせ、彼等を“師匠”として、その実況を文字に起こし、詠唱したほどだった。)だから彼は、敢てこの2社以外の放送局を受けず、自分の思いをぶつけた訳である。で、KTVの入社試験の面接で、その面接に立ち会った松本アナが、彼がとった“行動”に思わず驚嘆したのである。実は…松本アナは意地悪するつもりで、何頭かの競走馬の血統を喋ってみろと質問したら、自分より詳しく3代前までの血統をスラスラと答えたのである。この“根性”に松本アナは将来性を掛け、それを受けて、彼は晴れて“憧れの先輩w”がいるKTVアナとなった訳である。
だけど現実はそんなに甘くなく、競馬実況は志願してるものの、KTVはテレビ単営局故に他のスポーツ中継も担当しなきゃいけないトコだから、最初の頃はなかなか競馬実況に専念することなんて、できなかったのはいうまでもない。でも、できるだけ競馬場へ行ける時は、杉本アナから実況のイロハを教えてもらい、次第にその実力を身につけていった訳である。そんな中で彼が手がけた競馬以外の実況で、後にCX系のモータースポーツ実況の礎となったモノがある。それがF1実況である。最初の頃はCX自身、F1中継をそんなに盛り上げようという気もなく、ただKTVがある意味“勝手に”鈴鹿サーキットで行なわれる日本GPを昼間に(競馬中継までのつなぎor競馬中継後の特番として)放送するためのモノでしかなかった。しかしコレが後にバカ受けする訳であり、現在の日曜深夜にこっそり放送するきっかけとなる訳である。(そもそも、本田技研の技術が“日本代表”として世界の一流メーカーと張り合ってるというドラマがあるからこそなんだが…w)この時から徐々に、競馬実況アナというより、“F1実況アナ”というイメージの方が先行し、彼自身が本来なりたかった姿とは違った評価しかされなかった訳である。それもそのはず、F1の実況をやってる間も、ずっと杉本アナが競馬実況の第一線にいた訳だし、出番といっても、準メインかゲートリポーター、メインをやらせてもらえる時は、杉本アナが他の仕事(東京での競馬イベントに借り出されたorゴルフ中継スタッフとして帯同してる時)ばっかりだった訳である。
そんな彼を一番不憫に思ってたのは、他でもなく“師匠”である杉本アナ自身であり、だからこそできるだけ早いタイミングでG1実況をやらせてやりたいと考えていた。そこで1988年に、杉本アナは初めて桜花賞実況を彼に譲るのである。理由は、(CXのスポーツ中継研修とはいえ)ゴルフのマスターズオープンに帯同するためであった。多くのスタッフは、杉本アナに対して“マスターズなんか行かずに桜花賞の実況をやって!!”という意見が多かったものの、自分が松本アナから桜花賞の実況をバトンタッチしてもらったのが32歳だったことを考慮し、G1実況20年という自身の節目だったこの時に、馬場アナに実況を任せたのである。そして、1992年に桜花賞に加えて天皇賞・春エリザベス女王杯を担当させた訳なんだが、この時はファンから大ブーイングの嵐が起きた。特に春天の時、“何でアンタがやらへんねん!!”とか、“後輩に譲るんやったら牝馬路線だけにしろ!!”等の顰蹙(ひんしゅく)を買い、さらにエ杯では、たまたまゲートリポートを、杉本アナがやっちゃったモンだから、さらに“テラ鬼おこブーイングw”だったのはいうまでもなく、馬場アナ自身も実況の中で「大先輩にゲートリポートへ行かせて申し訳ないのですが…」と恐縮しまくりだったのはいうまでもない。
でも、ファンだって本当はわかっていた。KTVアナの中では群を抜いた実況センスと、どんなスポーツにも柔軟に対応する器用さは、まさに天賦の才能としか言い様がなかった。だけどそれ故に、杉本アナで慣れ親しんだファンからは、東京から来た“変わり者”に対して、非常に冷たい態度でしか受け止めてもらえなかった不遇さがあった。そんな彼でも、いつかは“杉本清の後継者”としてすべてのG1実況をこなさなければいけなかったのはいうまでもなく、だからこそ杉本アナも、徐々に彼に実況の機会を譲っていった訳である。そして、杉本アナが定年で実況回数を制限する様になってからは、名実ともにKTVを代表する競馬実況アナへと成長し、いつしか彼の後ろには、彼と同じ“杉本門下生”である石巻ゆうすけアナや大橋雄介アナ、岡安譲アナが虎視眈々と自分の“後釜”を狙うポジションにまでなっていた訳である。

だが、同時に私生活での乱れが、彼の喉を徐々に嗄らせていった。一線を退く数年前から、思う様に声が出ず、ネット上でもファンから“馬場状態:不良”とまで揶揄される程、酷い状態に陥った…あれほど、大好きで堪らなかった競馬実況を、思う存分にできないというジレンマを抱えながら、毎週の競馬中継に臨んでいた実況は、聞くに耐えない状況だった。その自覚から、自らにけじめを付けた…それが2009年4月。のちに牝馬三冠となるアパパネ桜花賞を最後に、双眼鏡を置いた。それから3年後…もう一人の憧れだった、長岡アナと一緒に仕事がしたくて、(もちろん、福島復興を願って…というのが本分だがw)再び競馬場で、一度限りという条件の下で実況を行った。決して、福島以外の競馬場では流れる事のない実況…でも、40年以上の時を越えて、実況アナとしての念願を叶えた事には変わりない。