迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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競馬を愛する語り部達…vol.6:初夏に咲き誇れ、菫華(くにか)のセントウル・広瀬伸一

本来なら、命日の9月26日前後にやりたかったんだが、今月は宝塚記念が行われる関係で、この時点で広瀬アナの事をやろうと思う。ちなみに、この記事は、本家の方で2007年12月13日…決して訪れる事のない50回目の誕生日に、哀悼の意を表して掲載したヤツを加筆・修正しています…
オイラは時折、彼の名前を伏せる時に、“菫華(くにか:2018年4月24日訂正)の君”と表記する事がある。その理由は、彼が春のG1でよく実況してたのが宝塚記念であり、秋のG1といえば(マイルCSもそうですが…)秋華賞のイメージがありました。その二つのレースにあやかって、この名称にしたのです。(ちなみに、藤田直樹アナは、長年桜花賞の担当が多かった事もあって“桜花の君”、北野守アナは淀での長距離戦での実況が多かった事から“菊花の君”といったトコでしょうw)
また、エピソードを知れば知るほど、まるで“競馬版の逸見政孝”というイメージがそこにはありました。もちろん、その最期の瞬間までもまったく同じだなんて…。
未だ多くのファンが、話をする度に涙する“競馬実況の職人”の生き様を、オイラなりに振り返ってみることにします。

なんで彼が、ファンの間から“競馬実況の職人”といわれたか…そのキーワードを繙くには、まず、学生時代の“出逢い”を知っておかなくてはいけない。元々彼は、アナウンサーという職業は望んでなく、できれば映画関係の仕事に就きたかったという。映画好きの彼は、大学生活の殆どを映画館通いをしてたほどで、特に名画座系の映画館でやってた小津安二郎監督の作品をこよなく愛した。小津監督の作品は、現在でいうトコの“ホームドラマ系”であったが、日本の家族愛や生活感を大事にしたという。そのため、一つの作品を製作するとき、台本に書かれた言葉の表現ですら一切妥協をせず、フィルムを無駄にしてまでも撮りたい映像が撮れるまで何度もカメラを回し続けたという。その精神が後に、広瀬アナ自身のアナウンサーとしての心構えの基本となる訳である。そして、就職活動でドタバタしてる時に、ふと見たテレビが、実は“徹子の部屋”だった。そう、黒柳徹子トークの中で、ある一言がアナウンサーになるきっかけとなる。それは、彼女がNHKのアナウンサー…というより、専属劇団員になった理由が、「いつか家庭を持って、子供達に正しい日本語で本を読み聞かせてやりたい」という思いからだった。それに気付いた時、映画よりも言葉の表現力を豊かにしたいと思い立ち、そこで赤坂アナウンス塾に通うことになるんだが…実はコレが、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)のアナウンサー養成学校だった訳である。そしてここで、同期入社する佐藤泉アナと出逢う訳である。
さて、ラジオたんぱに入社して研修を受けた後、新人アナとしてはあまりにも過酷な試練を受けるハメになる。そう、最初に貰った辞令が大阪支社への配属だった訳である。この放送局は長岡一也アナ以来、若手アナを中心に、必ず3年以内の大阪支社での修行が必須となっている。その“白羽の矢”がいきなり来た訳である。当然だがそれは、“一人前の競馬アナになれ!!”という辞令でもある。競馬を知らない彼にとって、最初からそれは苦痛であり、後悔の連続であった。しかし半年が過ぎ、ふと自分の立場を考えた時、彼は競馬を“楽しむ”という事を心掛ける様になっていった。そう、これからの人生において、一番長い付き合いになるのは競馬の世界であり、馬券から離れた部分では、人間と馬が織りなす筋書きのないドラマがそこにあったのである。その頃から競馬実況こそ、言葉の表現力一つで描かれる世界観が変わることを悟り、真剣に取り組む様になっていくのである。後にその姿勢が、後々、佐藤アナとの“技術の差”となって現れる訳である。
2年半後、佐藤アナと入れ替わりで東京本社勤務となるんだが、そこにいたのは僅か5年間だった。というのはこの当時、大阪支社のメンバーが危うい状態…といっても、現在の様に檜川彰人アナが、実質一人で常駐するという状況ではないものの、競馬中継に関しては、“西の双璧”である北野アナと藤田アナだけで実質は業務をこなしていた状態であった。そんな二人の姿を間近で見ていた彼にとって、それは放っておけない状況であった。だから彼は、家族に兄がいることを幸いにして、自ら大阪支社“常駐”を志願した。この行動を見て、当時の競馬班は驚くと同時に、なんとか東京に留めようと説得したものの意志は固く、渡辺和昭アナが本社に戻る時に、当時新人アナだった山本直也アナとともに、関西に舞い戻って来たのである。こうして、俗にいう“なにわの三本柱”が揃い、それと同時に空前の競馬ブームが日本中を席巻する事になるのである。
大阪支社へ再び赴任する事になった時、彼はその生活の場を神戸に求めた。故郷・横浜と同じ港町にして、映画好きの彼にとって“映画発祥の地”は、まさに彼が愛して止まない街だった。(そういや、映画評論家の淀川長治も、神戸・新開地の出身だったなw)また、この頃あたりから宝塚歌劇にハマる様になり、本拠地に近い事もあって、何度も宝塚大劇場に通い詰めたという。そのため、競馬ファンの間でも“ヅカファン”振りは有名となった。(ま、北野アナも愛娘をタカラジェンヌにさせる程のファンなんだがw)そんな彼が、一時“行方不明”になる騒ぎが起きた。そう、阪神淡路大震災である。実は、当時大阪支社勤務で、同じ神戸市内に住んでいた(なんか近所だったらしい)小林雅己アナの安否確認に奔走してた為に、当時関西のチーフだった北野アナへの連絡が遅れ、ドタバタになった訳である。(ちなみに小林アナに関しては、後日紹介します。)結局連絡がついて安心したのだが、この12年後に、まさかこんな“悲しい別れ”が待っていようとは、この当時は誰も予想していなかった。でも、その“始まり”は今にして思えば、この時から静かに訪れていたのかも知れない…。
競馬実況において、飾り気のないオーソドックスなスタイルが持ち味だった訳だが、それはシンプルでも聞き手にとって“わかりやすい”という事に徹する為の姿だった。些細な見逃しも、ちょっとした言い間違いも、そして慣用句として使われる言葉ですら、彼は妥協しなかった。最初にも触れたが、その姿は小津安二郎監督の映画作りと同じ精神である。だからこそ、後輩への指導は厳しく、また、自分自身の実況すら“満足する様な実況はしていない”と常に言い聞かせていた。だから、後輩達が実況でマズいミスをやらかした時は、たとえ自分の仕事が残っていても一緒になって関係各所に謝罪行脚し、慰める事も忘れなかった。また、
“稽古不足を、レースは待ってくれない。”
と自分自身に言い聞かせ、どんなレースでも“一期一会”である事を諭した。また、クセになっているフレーズに対しても厳しいツッコミが入るほどで、特に“懸命”という言葉に対して、
「懸命にってのは『命を懸ける』と書くんだよ。そんなに懸命って言ってたら、命がいくつあっても足りないよ。そもそも馬はみんな一生『懸命』に走るんだよ!」
と言って、後輩を諌めたという。それはむしろ、彼自身がこの言葉以上に、命を懸けて実況してたからこその話であろう。だから、自分自身の実況では、極力そういった慣用句を使わない様心掛けて、マイクに向かってた。その気迫は、たとえ先輩である北野アナや藤田アナですら、近寄り難かったという。また、海外競馬の実況中継において、特に、ドバイワールドカップに関して、その先陣を切ったのも彼であり、今でこそ日本人でも知り得る中東の一大リゾート地に、ライブリマウントが日本馬として初めて参戦した当時、単身乗り込んで取材した事から歴史が始まった。言ってみれば、日本人にとっての“未開の地”を開拓したのは、実は彼の行動だったのだ。
“なにわの三本柱”の崩壊は、2001年の人事異動から…という部分に関しては、追々解説させてもらうが、その時、たった一人でその“最悪の事態”を何とかしようと奮闘したのは、ファンの間でも有名である。しかしそれが、彼自身の肉体を蝕んだ。2006年の夏、小倉開催を丸まる一回分休んだ事があった。それは、後にこの“結末”を予期するものだった。彼は健康診断で、末期の胃癌(スキルス性胃癌)になっている事が判明した。その時、医師に告げられた余命は3ヶ月…でも、それを彼は一部の人間にしかその事を言わなかった。丁度、藤田アナがディープインパクトの三冠実況で喉を傷め、“戦線離脱”状態だった事もあって、これ以上の欠員を関西の競馬班で出してはいけないという気負いがあったからである。だから彼は、ファンにも、そして競馬関係者にも“時間がない”事を告げなかった。入院・手術をする事よりも、投薬治療を行ないながら、できるだけ現場へ足を運び、取材を続け実況をやり続けた。その熱意は、その当時の菊花賞マイルCSの実況を聞けば、わかってもらえると思う。だが、確実に病魔は彼から体力を奪っていく。2007年2月…丁度亡くなる7ヶ月前、ラジオNIKKEI競馬中継ホームページで、ファンに自分が癌に冒されている事を初めてカミングアウトした。その時から多くのファンは、病気平癒と完全復活を願って止まなかった。しかし一時復帰した彼から告げられた言葉は、むしろ残酷な現実をファンに突き付けてしまった。あの時と同じ状況…オイラが率直に感じたことは、“それ、なんて逸見政孝?”ってことである。そして彼は、最期の最後まで仕事に穴を空けたくない、誰にも迷惑をかけたくないと戦ってきた。そしてあの日…2007年9月26日、彼は愛すべき神戸の街と、六甲山を吹き抜ける風となった…。
翌週、オイラは神戸港まで行って一人で泣いた。そして今(執筆当時)、この文章を書きながら泣いている。(実は、この編集作業してる時点でも、あの日を思い出して、涙腺崩壊中…w)彼は今、ターフを熱くする優駿を見守りながら、遺された同僚達の実況を聴いている。これから先、彼の様なシンプルスタイルの実況は消えていくであろう。だが、ファンはいつまでも忘れない、人生という名のターフを懸命に駆けた、“菫華の君”という名のセントウルの存在を…。