迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

競馬を愛する語り部達…vol.5:色褪せぬバリトンヴォイス・白川次郎

さて、前回に引き続き、人物紹介ですw で、今月はダービーも控えてますし、今でも根強い人気の白川アナの話でも…元ネタとなる本家Blogでは、2005年に藤田アナの“補足”ていう格好での紹介(http://d.hatena.ne.jp/strayhorse/20051113/1131887291)でしたが、ここではじっくりと、白川アナ本人に関する腰を据えた話を…(ちなみに参考資料は当然、本人が書いたエッセイ“あと、100っ!”ですw)

名前の通り、次男坊として生まれた彼は、本来ならもっと自由奔放に動ける立場だったのですが、ある事を理由に、東京以外での職探しを断念せざる得なかった事が、現在のラジオNIKKEI…当時の“ラジオたんぱ”へ入社するきっかけとなってます。それは、両親に将来を嘱望された兄の病死…特に、父親の落胆ぶりは酷かったらしく、それ故に、その双肩に白川家の重責が重く伸し掛り、アナウンサーになりたいという夢はともかく、東京に居を構え続ける事が必須条件になってしまった訳です。その為、本来ならMBS毎日放送STV札幌テレビ放送の最終面談が残っていたそうなんですが、ラジオたんぱからの内定通知をもって、断ったそうです。(ん…この時から、大阪には何らかの縁があった様でw)
アナウンサーという職を目指したきっかけは、幼少期の頃…学者肌の父親と違って、水戸藩士の祖父を持つ母親が、躾に関して結構煩かった事と、音読による読書をやらせた事、そして父親も俳人だった事もあり、詩歌の発表会等へ連れ出された事も影響してる様です。とはいえ、大人でも読むのが難しい漢字を小学一年生で読める様になってたにも拘らず、筆記はカラっきしで、夏休み中は漢字や平仮名の書き取りばっかりやってたとかw
で、晴れてアナウンサーとしてデビューする事になった訳だが、最初から競馬実況に携わった訳ではありません。というのも、競馬実況アナとして活動する以前は、プロ野球実況をやってたのです。余談だが、かつて、ラジオでのプロ野球中継は、関西ではCRKラジオ関西が開局時からやってたモノの、関東ではラジオたんぱが担ってた訳です。ところが、短波放送故の弱点…そう、専用ラジオでないと聞けないというのがアダとなり、また、ジャイアンツ戦に関する“親会社”の規制が、後々ラジオたんぱプロ野球中継から“撤退”する事になる訳です。(ま、当時…現在の横浜DeNAベイスターズの前身である、大洋ホエールズ戦専門でやってた事も不人気の一端では…ともいわれてる訳だが。)
閑話休題、そうなると、スポーツ担当のアナ達は挙って“窓際族”になる訳で、その活路として、競馬中継の実況アナへの転向を迫られた訳です。そこで、先輩である長岡アナから、「ラジオたんぱのアナウンサーとして残るなら、競馬をやるべきだ。」と薦められ、競馬実況の訓練を受ける事になります。そしてそれは、のちに今の大関隼アナと同じ状況…つまり“既婚者なのに大阪バシルーラ”というハメになる訳です。というのも、白川アナ自身、大阪支社への転勤が決まった頃には、既に結婚して、しかも長女が生まれたばかりだったとの事で、結構ショックが大きかったそうで、まして年老いた両親の事が気に掛かり、東京を3年も離れる事は、結構不安だらけだったそうです。しかし、当時のラジオたんぱも、白川アナ一人の事情を飲む訳にいかない状況でして、前任である中根幹男アナの“東京帰還”が諸般の事情で大幅に遅れていた事もあり、泣く泣く引き受けざる得なかった様です。(実はその“原因”が、交代要員のアナの体調不良…てか、視力不足による離脱があったため)
とはいえ、そもそもラジオたんぱが大阪支社にアナウンサーを常駐させるのは、この競馬中継でのスタッフの確保と、競馬実況の技術を集中して行う事が目的であり、実際、白川アナ自身も、大阪支社に送り込まれた事に対する不安は、徐々に薄れたそうです。特に当時、北野アナが研修中であり、また藤田アナも入社したてという事もあって、年が近い…と言っても、“きたふじ”コンビは白川アナより4歳年下なんだが…という事もあり、ある意味“横一線”で競馬実況の技術を磨いていったそうです。この時に、藤田アナと故郷の話をした時に、互いに共通する親戚がいる事に気付き、以来、白川家と藤田家…てか、この二人の間には“戦友以上、親族未満”という微妙な関係が構築されたとかw(ちなみに“共通の親戚”とは、山岳写真家の白川義員氏…ま、某新聞の特集記事に顔写真があったんで比較したが、確かに…この二人に近い顔をされてますw)
その後、本来なら3年の予定が諸般の事情(てか、後が閊えてたw)で2年で繰り上げて東京へ戻る事となり、ここから、本格的にラジオたんぱのエース級としての活躍に発展する訳です。そう、長岡アナからバトンを引き継ぎ、ダービーの実況アナとして、また、数々の名勝負とともに、多くの競馬ファンから愛された。それは今でも不変であり、故に2012年、福島競馬場で行われた実況マスターズの大トリを務めた際に、多くの人がまだまだ現役でもやれるのでは…と思われた方も多かったと思う。ここで、他のユーザーさんが上げてくれた実際の音声を貼っておくので、実際に聞いてもらおう。(メールでご覧の方、あるいは電子書籍版でご覧の方は、PC版でお楽しみください…)


でも、この声も一時、引退が危ぶまれた時期があった。というのも実は、加齢による眼球の変形が因で網膜剥離を患ったからである。視力が回復したからこそ、今でもなんとか競馬の仕事に携われる訳だが、もしも処置が遅れ、視力を失っていたなら、現在の様に競馬学校の生徒達の模擬レースを実況をする事もできなかったであろう。ラジオたんぱラジオNIKKEIに名称変更となり、そして、佐藤泉アナ以降の後輩達が実力を付けた事もあり、一線を退いたとはいえ、まだまだ関東の…否、全国の中央競馬のファンから支持されるのは、実況の時と違う、軟らかい物腰で進行するスタイルがウケるからだと思う。それは、彼自身が見せる笑顔にある、そこはかとなく漂う人生観が、そうさせるのであろう。