迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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競馬を愛する語り部達…vol.4:稀代のポーカーフェイス・長岡一也

さて、今回はラジオNIKKEIの歴史を語る上で、結構キーパーソンになりやすい、長岡アナの話。このネタ自体は本家Blog(http://d.hatena.ne.jp/strayhorse/20060413/1144904174)の方に記載されてるネタです。今でも競馬に携わる一方で、ラジニケの長寿番組“私の書いたポエム”のMCとして、首都圏を中心に根強い人気がある競馬アナの一人です。去年、福島で開催された競馬実況マスターズの際でも、現役時さながらの実況の腕を見せたあたり、他のアナウンサーにない、安定感…というか、どっしりとした存在感を見せつけていました。何事が起きても、穏やかながらも力強さをも感じる笑みを浮かべ、現状を冷静に、且つ的確に判断する能力は、まさに“賢者”そのもの…では、それはいったいどうやって培ってきたのでしょう?
戦争の足音が濃くなっていった満州国(現在の中国東北部からモンゴルにかけての一帯にあった、日本の傀儡国。終戦後に消滅した。)の片隅で生まれた彼は、終戦を日本へ脱出する為の船が停泊している上海(だったかな?)に向かう途中の列車の中で迎えた。いわば“一歩間違えれば残留孤児”という状況を経験した一人である。そんな彼が“放送”というメディアに関わるきっかけとなったのは、小学4年生の頃。たまたまNHKの番組で、児童合唱団の一員としておよそ3年間活動していたのである。この頃からどうやら、いつかは放送局に就職したいと考えていた様である。
大学を卒業し、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)に昭和36(1961)年に入社して、その時に下った辞令が競馬を含むスポーツアナになれというもの。当時のことですから、いきなり“競馬実況をやれ”と言われても、かなりの抵抗があったのは確かで、かなりショックだったとか。で、そんな思いの中で初めて見たのが日本ダービーで、競馬の“け”の字も知らないまんま買った馬券が見事に当たり、これ以降、競馬中継の仕事に就く“覚悟”を決めたらしい。(ちなみに、この時の当たり馬券は、巨人-阪神戦のチケットにバケたそうなwついでに言うと、長岡アナは大のトラキチ。)
入社して4年後、ラジオたんぱが正式にJRAの“オフィシャル放送局”として場内実況を任される様になると、関西でも“常駐”の競馬アナが必要となった。しかし当時の大阪支社には競馬の実況ができるアナがいない状態で、当時WBS和歌山放送から高木守アナに来てもらい、手伝ってもらおうという状況だった。しかも高木アナも競馬は“未経験”だったんで、競馬実況の研修も兼ねて、競馬実況の経験のある若手アナに“関西行き”を命じたのである。その“白羽の矢”を、この時に受けたのである。
当然この当時は、今みたいに明確なルール(基本的に、大阪支社に3年赴任したら、未経験アナと交代する)がないんで、“とりあえず行ってこい!!”と半ば放り出すカタチで送り出されたんで、その後人事とかけ合い、現行のルールが制定されるのである。(でも、その後がマズかったのが、白川アナの様な“既に結婚した後で”のケースだったりする。)この時代に、競馬場での取材(当時はトレセンなんてないんで、各競馬場毎に厩舍があった)なんかで、KTV杉本清アナと知り合うことになる。後に東西の競馬実況における“神様”的存在となる二人も、この当時はまだまだ…。
そういや、この大阪支社時代にとんでもない“武勇伝”がありまして…この話は後日、詳しく解説させてもらいますw
長岡アナが東京に帰ったのはそれから3年後。丁度、メキシコオリンピックの中継班になった事を理由に、“帰還せよ”と辞令が下ったらしい。そして、この時に白川アナに“競馬をやってみないか?”と勧誘したんだとか。(まさかこの後、白川アナが自分の跡を継いで、ダービー実況アナになるとは、つゆ知らず…。)
ダービーの実況を先輩(早坂昇治アナ)から引き継いだのは昭和46(1971)年…そう、入社して10年後の事。それからラジオたんぱを退社するまでの16年間、ずっとダービーの実況をやりつつけたのである。
競馬アナという立場から離れた部分で、長岡アナが語られるとすれば、やはり“ヤロウどもメロウどもOh!”(通称:ヤロメロ)での話だろう。この中での創作劇“アチャラカ王国物語”の脚本を書いた“いやだよう”とは、実は長岡アナなのである。(この物語の本は、一部の図書館で所蔵されている。)また、この時に“ナノヨ姫”なるキャラを演じたのが“チェリー”こと大橋照子アナで、この事が縁となってるのか、“私の書いたポエム”でもコンビを組む事となる。この番組自体はすでに、放送開始から30年くらいやってるんで、長岡アナはともかく(昭和14年生まれ)、チェリーさんも相当な…うわなにするやめ(ry

失礼…競馬実況マスターズでのトークショーの話で、母方の実家が津波に流され、その現場である岩手県大船渡市に訪れた時、無惨な姿になった街を見て、瓦礫の撤去以外で自分にできる復興支援はないかと、自分なりに探していたところに、後輩である渡辺和昭アナが声を掛けてくれた事から快諾したのとの事。ただ…どうやら、実況が福島“限定”だった事が相当不服だった様である。(当の本人は、全ての競馬場・ウインズで、自分の実況が流れると思ってたらしい…)久々に場内での実況を終えて、(もちろん、久々に馬場鉄志アナとのドタバタも含めてw)
清々しい顔をしていたのは、自分なりの答えを見出せたからだろう。実況アナとしての信念を、今も持ち続けているからこそ、自分の仕事に関して、決して妥協せずに没頭できる…それがあの独特の笑みを生み出すのでしょう。

オマケ:他人の褌でなんとやら…ってヤツではないが、ちょっと…2012年11月の福島競馬場で開催された実況マスターズ音源をw