迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

競馬における金銭感覚

いやはや…先週は更新をお休みして申し訳ございませんw 熱中症寸前まで農作業やってると、余力がなくなって更新作業に集中できなくなったモンで…(しかも今年は、ごぼうを育ててるモンだから、その収穫が大変なのよ。)

で、今回の話題…7月開催の競走馬の競り市…俗にいうトコのセレクトセールや家畜(育成馬)市場において、今年は高額取引が目を引く。ま、一般的な感覚で言えば、生物の“生命”をバカみたいな価格で売買する事は、狂気の沙汰にしか見えない。が、考え方を変えれば、それに似合うだけの功績を期待しての売買であり、それを支払えるだけの資産を持った馬主が、生産者や育成機関に対価を支払ってる訳であり、その期待に応えるために、生産牧場も育成施設も設備投資する訳である。言い方を変えれば、分相応の“潤滑な経済活動”をやっている訳であって、単に散財をやってる訳ではない。ここんトコの部分を見ずに、富裕層の経済活動を批判してる人が多い事…ぶっちゃけ悪いが、競馬サークルでの経済活動ってのは、“資産家の散財”あってこその話なのであって、コレを批判されて清貧を尊ぶなら、多くの生産牧場が、なんで競走馬の生産をやめざる得なかったのか、育成牧場がなんで倒産するのか、ちょいと頭を巡らせて欲しい…最大手の社台グループはともかく、名門と謳われたメジロ牧場トウショウ牧場が潰れた一因には、そういった僻み根性の貧困層の言葉にそそのかされた、一部の馬主のアホさ加減もある訳だ。(もちろん、背景には血統を重んじるあまりに、時代の変化についていけなかったってのもあるが…)

特にセレクトセールでの取引では、海外のバイヤーと日本の馬主の大接戦が繰り広げられ、億越えがポンポン出る状況となった。セールで購買された競走馬が、日本のみならず海外でも活躍し、結果を残してきたことがきっかけとなって、また、海外在住の馬主が条件緩和によって、日本でも自分の持ち馬を走らせることに関してできるようになったから、サンデーサイレンス系の血統を中心に、日本の競走馬市場が活況になった訳である。特に海外では、サンデー系の血統が日本に集中してるため、どうしてもサンデー系の後継血統の馬を購入したいとなれば、日本に出向くしかない訳で、そこんトコの国際的な取り決めが緩和された影響もあって、当歳や1歳のセールでも、既存の日本人馬主と競り合う場ができた訳である…だから、血統だけ見てると、海外の競走馬なのに日本産馬の血統だったりするのがいる訳であり、これはこれで、潤滑に、かつ、公平な価値観の下で、“血のドラマ”が展開されていることの証左となる。

ではなんで、こういった事情を無視して“動物虐待だ”とか“無駄金使わず慈善活動に回せ”などという批判が出るかと言えば、こんなのは先程もチロっといった通り、“貧困者の僻み”でしかなく、経済の原理を無視した発言でしかない。もっと言えば、富裕層が気持ち良く散財する環境でなければ、経済が滞ってしまう訳であり、それはひいては貧困層の生活がますます困窮する要因となる…もっと言えば、富裕層が守銭奴じゃ、その蓄財がいつまで経っても市場に波及することがないからデフレ(通貨よりも物品の方が価値がある状況)に堕ちる訳であり、富裕層とされる人々が“守銭奴”になりやすいのは、その殆どが“成り上がり”であるからだ…つまり、既に貧困から脱して人が羨むような裕福な生活を送っているにも関わらず、因習が抜けないでいることが多い。“本物”の富豪とは、常に散財するモノである…単に贅の限りを尽くすのではなく、本当に必要な部分に、必要な施しを行えるだけの財力と行動力を有してるから、いつでも気持ちよく散財する訳です。

また、宗教観的なモノで言えば、清貧を誤解してるトコが多い…そもそも、どこの宗派であっても、富裕層に対しては厳しい指導をやってる内容の文言が残っているのだが、なぜか指導する聖職者や宗教学者が、そこんトコの本意を履き違えて信徒に教えているモンだから、どうしても敬虔な信徒であるほど、そこんトコを誤解したまま突っ走る訳である…所謂“原理主義”を唱える人らの勘違いは、経典や法門の教えそのものは、救いを求めた信徒一人ひとりにカスタマイズされた部分が多く、そこんトコを知らずに“万民共通の意識”として押し付けがましく植え付けると、その時点で歪む訳である。言い方を変えれば、富裕層が成仏できないのは供養が足りないと教えてる理由は、世間に対して分相応の対価を払える立場でありながら、それを渋って溜め込む事は、多くの人々に妬まれた挙げ句、自分にとって“本当に大切なモノ”を失う事を説いただけなのに、そこを貧困層が無理して(見栄を張って)同じことをやれば、余計にしんどいだけである。だから、貧困層に対しての教えとして、“無理をしない”ことを指すモノとして清貧が説かれた訳であり、そこを富裕層が真似すれば、本来“民衆救済”として説かれたハズの宗教観は、全部“嘘っぱち”ということになる…つまり、富裕層が金銭で様々なサービスを受ける事は当然の話だし、貧困層が慈善活動を行う背景には、所属する宗派からの援助があってこその話であって、そこんトコを履き違えて、職人相手に“知り合いだからタダにして”とか“低価格で膨大な仕事を処理して”なんていうこと自体、ちゃんちゃらおかしな話である。もちろん、相手が貧困層であるなら、報酬を要求する代わりに、就労や技能講習といった方向での“等価交換”のあり方も模索すべきではあるが、守銭奴に対して、貧困層と同じことをしたって、何も尊くないと教える背景には、その分の手間を金銭で解決させられるからという概念がある。つまり、自分の代わりに、他の誰かで、自分の不得手な分野において優れた技能があるなら、その人に頼めばいい訳であり、その分の“代償”として金銭や物品を相手に支払うことが求められる訳である。守銭奴はそういう事を嫌う以上、人間として“最低な奴”と、様々な宗派で説かれる訳である。

話があらぬ方へ飛んだが、要は、世間から“富豪”と持て囃される人々とは、それに似合うだけの立ち振る舞いをやっている訳であり、それが競走馬の高額取引だったり、著名作家の絵画の取引だったりするだけに過ぎないのであって、そういう経済活動の裏には、そいういった“贅沢”を支える様々な職人や仲介業者、さらには農家や漁業関係者、林業関係者の“生活の糧”がある。そこに従事することによって、巡り巡って自分の生活にリンクしてる訳であり、そこを無視して批判してる輩が多いこと…競馬において“馬を持つ”というのはステータスシンボルであると同時に、その“裏方”を支える大事な経済活動であり、それは失敗を恐れずに挑戦し続ける意思を示す行為である。でなかったら、誰が当歳馬に6億なんて金額を注ぎ込む訳ですか?たとえデビュー前に故障して損益しか生み出さなかったとしても、他のトコでリカバリーできるという余裕や、他の馬で稼げるという自信がなければできないことです。それこそガチの“勝負師”だからこそ、平気で勝負に出れるのです。臆病者は、まず、高額取引での勝負すら戸惑って手が出ない…その時点で、あらゆる勝負事に対して“敗北宣言”してるようなモノなのです。