迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

“レコード大賞”と“ハンマープライス”

さて、前回のネタの中でレコードの話が出てきたが、タイトルを見て“なんのこっちゃw”と思った方、実は杉本清アナのエピソードで、ちょっと不可解な部分を取り上げるとすれば、この話をやっておかないと、少々ややこしくなるw 特に“ハンマープライス”にまつわる話は、定年後の身の振り方を左右する、大きな転換点とも言える出来事だったからだ。

ある意味“都市伝説”的な話だが、実は杉本アナが“レコ大ホルダー”だと言えば、ちょっと驚くかもしれない。が、コレは前回のネタがヒントになる。そう、当時のポリドールレコードがやった企画(テンポイント関連)が、話題に上った事によって、その影響を讃え、受賞してる…というヤツ。但し、Wikiとかで調べたとしても、詳細は上がってこない…そりゃそうだw 当時はまだKTVの“社員”であって、他局…しかもJNN系列の放送局に、“受賞者だから…”と顔出しするのもマズかった時代である。だから、詳細が掲載されていないが、以前やってたラジオ番組(JRAサウンドコース…かつてFM大阪が放送してた番組で、何故かパーソナリティに起用した。そこんトコは、流石スポンサーw)で、折に触れて話していた。ちなみに、レコードのA面(レコード盤は、表裏に針を使って録音・再生をやってたのよ…MP3世代の方々w)は、テンポイント応援ソングを杉本アナの声で吹き込もうとしたが、あまりにも音痴だった為、B面のナレーションおよび実況部分のみになったとかw ついでに言えば、このレコードが世に発表されていなかったら、競馬関連の音源や映像資料が一般市場に出回る事もなかっただろうし、出たとしても、ラジオNIKKEIJRAのデータベースからの有料ポッドキャスト配信か、オンデマンドが関の山であろう。それくらい、当時としては、楽曲以外でのレコードが、非常に珍しい存在だった訳である。(但し、“ポリドール的裏話”をしておくと、実は“さらばハイセイコー”も、ここが出したシングルレコード…つまり、増沢末夫調教師も“レコ大ホルダー”だったりするのよねw)
で、もうひとつ…“ハンマープライス”にまつわる話だが、そもそも何で杉本アナが出演するハメになったかと言えば…これは共演者であるとんねるずの“性格”を知っていれば、そして番組制作はフジテレビとKTVの共同制作だという事に気付いたなら、合点がいくかと思う。というのも、コレの前番組である“ねるとん紅鯨団”という公開お見合い番組(この類の番組は、本当に大阪の放送局は制作好きで、かつて“ラブアタック”だの“パンチdeデート”だのといった、結構おせっかいな番組があった訳で…ま、その名残が“沼島の春”だったりするw)を終わらせて、だけど、とんねるずのキャラクターを活かした新番組を作りたくて、そこで企画として、同じ視聴者参加型でも、番組内で貴重な品々や普段じゃ味わえない様な権利を掛けた、公開オークション形式の番組制作が生まれた訳である。しかし、問題はその“配役”…そう、どっちかをオークショニア(競売人)に据え、バイヤー(仲買人)に振分けると、何方もどっちで不満タラタラになるのは目に見えてるし、だからと言って週代わりに担当を変えるのも不自然過ぎるし、ましてフジテレビのアナウンサーにやらせるとなると、全員がある意味“顔なじみ”なので、結局とんねるず…特に石橋貴明の“暴走”を止められる人がいない状況に陥りかねなかった。そこで、第三者的立場で二人を宥め、且つ、熱狂の渦に巻き込まれる事無くオークションを成立させられる人物として、杉本アナに白羽の矢が立った訳である。当然、この話を聞いた時、定年間際である事と、競馬以外の仕事はしたくなかった事もあって、丁重に“お断り”する方向で話をしてたのだが、逆に制作スタッフから競馬実況の技術を褒められた挙げ句、その“転用先”として薦められて、引き受ける事になる訳である。更に言えば、とんねるずの二人も…特に競馬好きの木梨憲武は、共演者が杉本アナである事を告げられると同時にテンションが上がったのはいうまでもなく、更に初顔合わせの際に定年後の事について、その身元を自分達の事務所で預かる事を決め、双方が納得した上で話が纏まる訳である。ま、その過程で、定年時、KTVアナウンス部にあった、杉本アナが使用してた机や備品等がオークションに掛けられ、エラい目に遭う訳なんだが…w
そして、この出来事は、定年間際のおっさんに“第二の青春”が訪れる訳でして、とんねるずと一緒に“ハンプラ”に出る様になって、一番の変化だったのは、競馬ファンよりも女子中高生に声をかけられる機会が増えた事…そう、今までだったら“あり得なかった”ファン層の開拓ができた訳である。番組そのものは開始直後に発生した阪神・淡路大震災の影響もあって、常設の“チャリテーオークション番組”として、5年近く放送された。月に二回、東京と大阪(てか、自宅がある奈良・大和高田)を往復し、時にはローカル開催の競馬場に出没し、更にはラジオパーソナリティまでやってのける、当時としては結構忙しい60代であったのは、いうまでもないw

ま、そんな生活も70歳を機に随分と縮小した訳だが、今にして思えば、競馬がここまで一般的な“プロスポーツ”として認知される様になるには、馬や騎手の活躍だけじゃなく、それをつぶさに伝える実況アナウンサーの存在も、重要なファクターなんだと考えると、やはり偉大なる“神様”として認めるのがスジであろう。