迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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競馬を愛する語り部達…vol.2:マスメディアの申し子・杉本清

さて、今週は杉本アナ本人にまつわる話の中でも、何故、フジテレビが“競馬実況の神様”として担いだかという部分について…ま、主犯格は当然、所属局であったKTV関西テレビ放送なんだが、しかしそれは、あくまで競馬中継そのものが、かつてはKTVだけが“西日本担当”という役割があったからという裏事情を知った上での話であり、むしろそれが、あらゆる影響を及ぼした事を示す事になる訳で…ま、もっともその影響を受けて、本当にKTVの競馬実況アナになったのは、いうまでもなく馬場鉄志アナ自身なんだが…w

閑話休題、実は、馬場アナ以外にも杉本アナの影響を受けたアナウンサーがいる…と言えば、ちょっと首を傾げる人も多いだろう。しかし、フジ系列のアナウンサー以外でその影響を多大に受けたのが、“H.B.K”…もとい、草野仁アナである。この話をすると意外性を感じる人も多いかと思うが、NHK入局時、どうしてもやりたい仕事として競馬実況を自ら申し出た程であり、そこで困り果てた本局の人事は、大阪放送局に無理を言って預けた挙げ句、KTVに指導を受ける様に指示を出した訳である。ま、この先は草野アナ本人のエピソードとして取っておくが、NHK大阪放送局から事情を聞いた松本暢章アナは、ならばその指導役は…という訳で、杉本アナに草野アナの“教育係”を押し付けちゃった訳であるw だからこそ、杉本アナが定年フリー化するまでは、その“代役”的な仕事を引き受ける事もしばしばあった訳で…
さて…馬場アナや杉本アナの話をする際には、必然的に松本アナの名前が出てくる訳だが、本人のエピソードは、これも後日公開する事にして、実のトコを言えば、杉本アナがKTVのアナウンサーとしてデビューするきっかけにもなっている訳で、そもそも杉本アナにとって松本アナは、大学の先輩でもある…そう、松本アナがいなければ、杉本アナが“競馬実況の神様”にもなれなかったどころか、運が悪ければ、大和高田市の片隅でプー太郎になってた可能性もある…って事は触れておかなければならない話である。ちなみに、大和高田市は杉本アナの故郷であると同時に、現在もそこに住んでいる。(彼は長男であり家督を継いでいるから、必然的にフリー後も関西での仕事を中心に据えたいという意向を、定年時にのちの所属事務所に伝えたのは、結構有名な話。)元々、関西学院大学にある放送研究会に入った理由に、スポーツ実況をやりたかった事があるんだが、それにはある事情があった。杉本アナは元々、プロ野球の選手になりたいという夢があった。しかし、中学生の頃、体格が小さく、しかも過酷な練習が祟って急性腎不全を患って以降、運動すること自体に制限が掛かってしまい、その夢が断たれてしまったのである。でも、どうしてもスポーツに係りたかった事もあり、それなら…という事で、アナウンサーという道を選んだのである。そして、就職活動でMBS毎日放送の入社試験を受けたんだが、いわゆる“奈良弁”アクセントが当時のMBSではネックになり、内定を受ける事すらできなかった…そして、他の就職先すら決まらぬまま、悶々としてた時に、“バイトの枠なら…”って事でKTVにいた知り合いから口利きをしてもらった訳である。そこで2年程、それこそアナウンスとは関係無い職種(確か編成部)とは言え、下積みを経験したのちに、アナウンサーの採用試験が巡ってきて、尚かつ、編成の上司が人事に何度も頭を下げた事で、ようやく正社員…しかもアナウンサーとして“昇格”する事になる訳です。そして、社員研修の一環として、初めて阪神競馬場へ足を踏み入れて…実は、関学の本校キャンパス(甲東園)と阪神競馬場(仁川)は、阪急今津線で僅か一駅。しかし、週末の混雑の理由が、学生時代の杉本アナには、全然理解できなかった訳で、ここでやっと、その“位置関係”を知る事になる訳ですw
そこで、引率役だった松本アナの提案で馬券を購入すると…コレが運の尽きで、競馬実況アナとして、生涯の付き合いをする事になる訳です。ちなみに、松本アナが買ってくれた“初めての馬券”は大本命グリグリの復勝だったんだが、コレが見事にコケて、最終レースでとりあえず見様見真似で買ってみた単勝馬券が見事的中し、この時に競馬の“ギャンブル”としての魅力に取り憑かれる訳です。しかし、当時は(今でもかw)競馬実況なんてのは、それこそ“茨の道”であり、しかし業務に関係無く競馬場に入り浸るのは、流石にヤバいと感じたからこそ、松本アナは杉本アナを“一人前の実況アナ”として鍛え上げる事にした訳です。でも、当時の競馬中継は、それこそ関西の放送局が“総当たり”で週代わりに放送の担当をやってたモンだから、他の放送局が競馬中継から撤退していく中で、それこそ斜陽族状態だった訳です。しかし、後々テレビのカラー放送コンテンツの充実を図る上で、どうしてもフルカラーに適した映像が必要になる訳で、そこで、競馬中継を毎週の放送に組み込み、しかも放送枠を1時間以上…という大胆な発想が局内で起こり、そしてそれがそのまま採用される事になる訳です。そう、フジ系列が競馬中継に肩入れする理由は、このフルカラーでの放送コンテンツの一環だった事が起源ともいえる訳です。(もちろん、JRAもこれに関しては“全面協力”なのは、いうまでのない訳でw)余談だが、KTV阪急電鉄(現在でいうトコのH2Oホールディング…阪神阪急東宝グループ)の子会社である事を知っているならわかると思うが、宝塚歌劇の劇場中継もその一環であった訳で、昔の関西エリアでは、毎週土曜夕方は、KTVを見る以上、阪急ブレーブスアワー(現在の檻牛…もとい、オリックスバファローズのファン番組w)からアニメを経てタカラヅカを見る女子が多かったのはいうまでもないw
閑話休題、こうして、1969年の春改編以降、KTVはフルカラーによる競馬中継を毎週放送する事になり、そしてメイン実況は、MC役に下がる事になった松本アナから引き継ぐカタチで杉本アナが担当する様になり、定年後もレース数を絞り2005年ぐらいまで実況をし、そして番組MC(てか、ご意見番)として2009年の有馬記念まで、KTVの競馬中継に携わってきた…言ってみれば、存在そのものがKTVにおける“競馬中継の歴史”にもなっている訳である。だからこそ、KTVのホムペには今でも、杉本アナのコラムの枠がある。(https://www.ktv.jp/keiba/column/)

ま、ざっくりと、少々荒めに紹介してきたが、これ以上やっちゃうと、他のアナウンサー…特に馬場アナや松本アナに関する部分で話がリンクするため、ここで一旦止めておくが、本当の意味で注目されたのは先述の通りテンポイントに対する贔屓実況であり、また、テレビに特化した実況の先駆者としてのきっかけがあってこそである。次回は、そこの部分に注目しながら、話を進めよう。

オマケ:手元の資料…てか、今回の記事の参考資料として、この二冊を使ってます。ちなみにサイン入りの方は、杉本アナがフリー後にやってたラジオ番組からのプレゼント。貴重な直筆サインですw