迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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馬頭観音に対する思い…日本の馬事文化 その3

競馬関係者のみならず、農業…特に畜産業を営む人や、今でも畜力(牛や馬、象などの大型草食獣や犬など)を利用する日本人ならお馴染みの馬頭観音…仏教における菩薩の中でも、なんだかんだとレパートリーが豊富な観世音菩薩だが、もともと菩薩行として様々な世間の意見を見聞きすることが使命になってるのが観音菩薩の本分であり、人間でいえばコールセンターのオペレーターのような存在であるw そもそも、なんで日本の仏教では無闇矢鱈と“観音様”信仰が一般的かといえば、日本での仏教伝来に伴う“取り扱い”が、ある意味土着(=地域内限定の)信仰とミックスされてるトコがあって、それゆえに、ただでさえ様々な仏菩薩(如来や天部といった存在も含めた総称)がいるにも関わらず、さっきも言った“仏教におけるコールセンター”である観音菩薩が、様々なカタチでカスタマイズされ、今日に至る訳である。だから、千手観音や十一面観音等といった、ある意味妖怪(?)じみた観音像も存在する訳である。
本題から外れるが、日本の仏教は奈良時代〜平安中期と鎌倉時代初期では、若干意味が違ってくる訳で、そもそもは貴族階級の教養の基盤として、その配下の民衆に対して、仏教による礼節や社会的役割を示してくのが是であった。そのため、広く貴族達が仏教への帰依を推し進めるために天皇が“国教”として仏教を自らが実践したのが天平時代の話であり、のちに地方へ赴任する貴族や、実権を握ってた地方豪族に対しても、仏教への帰依させるために、至る所に国直轄の寺院…国分寺を寄進しまくった訳である。で、多くの貴族が旅先での無事を願い、用いたのが薬師如来である。実は薬師如来は日本では“使い捨て”であり、道中での役目が終わればその場に置き捨てして、次の場所へと移動するのが一般的だった訳である。これが、平安中期ぐらいまでは“普通”であり、この概念が一変したのが源平合戦が起こり始める頃…所謂“仏法における終末思想”である末法に、平安後期から突入する訳である。そして鎌倉幕府が本格的始動となる頃に、念仏や禅といった“鎌倉仏教”が流布し、戦国時代のすったもんだや明治〜戦前の“神仏合祀”を経て、今日に至る訳である。つまり、貴族達の“御守り”だった薬師如来から、江戸時代までには仏教そのものが一般庶民にも普及したことから、いつしか観音菩薩に有り難みを感じ、それを本尊とする風潮が一般的になった訳である。それに、自分たちの愚痴を聞いてくれる存在として認知してたトコもあるからこそ、仏教における“救いの手”として、広く持て囃されたと言っていいだろう。
ここからが本題、馬頭観音とは、数ある観音菩薩の中でもどのようなポジショニングであるか?その名の通り、頭の上に馬の首が乗ってるが故に、“馬の神様”っぽく思われるが、実のトコを言えば、平安期までの薬師如来とほぼ同じで、旅の安全を祈願する存在であることが殆どである。つまり、交通手段として馬を利用してるトコでは、愛馬の交通安全祈願として、あるいは、そこで使役に従事してた馬や牛を“処分”する際の供養として、道端や牧場の片隅に建立した訳である。その“伝統”は現在でも続いてて、競馬場には必ず安置されていて、開催前日にはその石碑の前で安全祈願をやる訳である。また、畜産業を営む農家は、厩舎の神棚に祀ってることがあって、基本的には繋養してる家畜の健康と、経営の安定を願うために手を合わす訳である。そこから転じて、実は物流業でも馬頭観音を祀ってる場合がある。会社経営においては稲荷信仰が一般的でも、物流…主に運送会社の場合は、荷役を馬や牛に頼ってた名残で祀る訳である。こうしてみると、馬頭観音はコールセンターにおける交通と畜産の専門オペレーターとも言える訳であり、だからこそ、畜産のみならず公共交通や物流業の“守り本尊”として、今でも信仰が厚いのです。
ちなみに、寺院に祀られている馬頭観音は、大概の場合、漫荼羅や仏像といった造形として存在してるが、競馬場などでは文字のみの石碑であることが多い。これは地域や立地条件などが関係してる部分で、農業学校(高校や大学)の場合、私学はともかく、公立校は特定の宗教に肩入れするべからずなため、敢えて“馬頭観音”としてではなく、家畜の“慰霊碑”として構内の片隅に祀ってるのである。当然だが、競馬場にある馬頭観音も磨岩仏などの形式ではなく、文字曼荼羅様石碑になってるのは、そういう都合である。