迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

臨時投稿:女性アナに求められる“品格”とは何か?

一昨日のニコニコニュースで、日テレが、銀座で水商売(今回はクラブホステスのバイト)をしてることを理由に、女子大生に対して内定取り消しをやった件について裁判沙汰になってるという話題があった。ま、学生バイトの遍歴を“理由”にそういう事をやってるような放送局ですから、さぞかし、セクハラやマタハラといった、女性軽視も甚だしい行為を、社内ではやってないですよね?(過去の因習、忘れたとは言わさねぇよw) 経緯と今後の展開に関しては他のメディアに任せるとして、オイラ的に、放送局が“アナウンサー”希望の女子大生に対して、一つだけアドバイスしておこうかと思う。それは…所詮マスメディアは“男尊女卑”の世界のままで止まってる、旧態依然の職場だって事を頭に入れた上で選んでほしいという事だ。
ここからが本題…つまり、同じ職場で働く男性から見て、女性を軽視する最もの“理由”が、子育てを含めた家事全般をやるには、仕事を辞めて、嫁ぎ先の家庭に籠もってるのが“普通”だろ…という概念が抜けないことにある。今現在、結婚後も最前線で仕事をしてる女性アナは増えたが、30年以上前だと、結婚を“諦めた”者だけが社内での現役を続行し、結婚を機にマイクの前を去る…ぶっちゃけタカラジェンヌの様な形態の女性アナが一般的だった。しかも結婚→出産後に再登場するケースであっても、もともと、タレント事務所からの“派遣社員”として放送局に出入りしてた上での話で、正社員じゃなかった人の方が多い。関西で有名なトコを言えば、佐々木美絵アナがそれに該当する…彼女も元々、とあるタレント事務所からの派遣契約でMBSに出入りしてて、“ヤングタウン”や“アップダウンクイズ”などに出演してた。結婚後、MBSとの契約が切れたが、担当の番組を降板しなかったのは、その際に“タレント”として取り扱われたからである。(ちなみに旦那は努兄w)
では、なんで女性アナが“派遣社員”だったのか?その最たる答えは、先ほども書いた通りであり、そして、入社して3〜5年で“寿退社”されるぐらいなら、派遣で賄った方が、人員を確保しやすい…という事もあった訳である。これは今でも、関西の独立系テレビ局ではよくある話で、社員としてアナウンサーを抱えるよりも、タレント事務所からの派遣で賄った方が安上がりだからである。しかも、社員ではないからこそ、セクハラまがいな業務を強要しても、元請けのタレント事務所が許諾してる以上、文句が言えないという状況がある。つまり、裁判沙汰になる前にクビを切れる条件が整ってるから…と推測される。とはいえ、あくまで30年以上前の話であって、現在、こんなことが表沙汰になれば、“地域に根ざした放送局”という謳い文句を返上せざる得ない事態に陥る。(ただでさえ、セクハラは世間から叩かれるからねw)
とはいえ、女性アナに対して、雇用先である放送局が求める事は何か?もちろん、放送局の体質にもよるが、基本的に、人間としての品格を重んじる点は男性アナも同じ。違いがあるなら、それは“女性らしさ”である。特にテレビ局の場合、見た目の美しさはもとより、立ち振る舞いや発声の良さ、そして、放送局の“イメージ”を体現する為の態度が問われる事になる。ラジオ局やラ・テ兼営局の場合、ビジュアル面でダメポな女性でも、言葉の表現や話し方が上手いと、すぐにエース級の扱いになる。それどころか、中にはデスク職として後輩の男性アナをこき使う…もとい、指導する“スゴ腕お局”がいたりするw 故に、ベテランの女性アナが、世間的に言う“女子アナ”という表現を嫌うのは、男性目線で自分たちの事をバカにしてほしくないからこそであり、また、同じ女性でありながら、自分の職務に対してチャランポランな態度を取られる事が許せないからである。しかし…なんで女性アナを“女子アナ”と表現したがるのか?その“元凶”と言える話をすれば、なぜかラジニケにたどり着くw ま、その人に関しては来月に取り上げようかと思うが…
閑話休題、バイトで何をやっていようが、どんな学問をやっていようが、放送局が新卒を社員として雇うからには、そんな事は不問でなければならない。まして、アナウンスの業務を任せるのであれば、日本語の“正しい使い手”としての教養がある者の方が、即戦力として使える可能性がある。むしろ、いわゆる“おバカキャラ”であってはいけない。敢えて言っておくが、本来の芸妓・舞妓は、高学歴で教養豊かな女性でなければ、武士や富裕層の殿方と対等には張り合うことなど不可能と言っていい存在だった。そこから転じて水商売の女性を、本当にバカにしてはいけない理由はそこにある。様々な事情があって、夜伽を生業とする様になっただけであって、本当にそういった“特殊な接客業”をバカにするのであれば、それこそ愚かな話である…何故なら、“利用してる人間”が、自分の職業をまるで“聖域”の様に扱っている時点で、自分の職務や使命を見下してる様なモンである。だからこそ、こんな“つまらない理由”で内定取り消しする様な企業は、自分の方から願い下げすればいい…職種・職業に貴賎なし、就活者に品格を問うのであれば、企業こそ自らの襟を糺すべし。

自分の耳でも潰したら?

最近、幼稚園・保育所をめぐるトラブルが絶えない。少子高齢化が叫ばれてる反面、子育てが“やり辛い”環境へ追いやってどうすんだという事案が度々報じられてるが、その殆どが“ガキうるせぇ”という、完全に理不尽な言い分である。確かに乳幼児の泣き叫ぶ声は、騒音として訴えても仕方ないトコはあるが、さりとて、それを親の責任にしたり、幼稚園・保育所を運営する学校法人や自治体に訴えを起こしてる時点で、すでに間違っている。なぜなら、乳幼児〜小学校低学年が撒き散らす“騒音”なんぞ、エエ歳こいたジジババのシュプレキコールや、若気の至りでブイブイ言わすバイクの爆音に比べりゃ、よっぽど“健全”であり、まともな事であり、そして“子供”だからこそ許される“特権”である。それを“煩い”だの“迷惑”だのと言ってる時点で、お察しである…以前、本館の方でも書いた事だが、宗教の“おつとめ”ひとつでもクレーム言ってる人ほど、実は単なる“かまってちゃん”であり、また、宗教に懐疑的な人ほど、実は宗教の“役割”そのものを誤解してる、トンでもない大馬鹿者である。なぜなら、宗教の“本文”は、人間らしく生きるための哲学であり、そして、それゆえの“理不尽”な事に対して寛容になれる様訓練する場だからであり、宗教団体が運営する学校法人の幼稚園・保育所では、入所園児に対して、様々なしきたりや礼節、マナーを教える場である。(その一環として、体験型の学習で茶道や習字をやるわけだが…)そういう“基礎中の基礎”も知らずに宗教団体や幼稚園・保育所を批判するのは、お門違いも甚だしいトコであり、そういう文句があるなら、限界集落に住むか、聴覚を失った方がマシである。(いや、マジで…)

ここからが本題。では、なんで待機児童問題があるのか?その最大の原因は、共働きが増えた事による、職場環境がそれに準じていない事と、もう一つ…そもそも“子育て”は家族間でやるもんだろ…という概念が、未だに日本人は抜けていないって事である。ひっくり返った言い方をすれば、親子3代以上同居状態の家庭で、しかも女性が常に家にいる事を条件とし、それができない家族のみが、行政が運営する幼稚園や保育所に子育てを手伝ってもらうのが、今でも“理想”なのである。これがそもそもの間違い。男女雇用機会均等法という法律をもって、職場におけるジェンダーフリー(性差撤廃)が行われていても、そのための準備として、子育て世代の家庭に対し、一時保育を請け負う施設(託児所など)が整備されてナンボのハズが、コスト削減だの余剰施設の撤廃だのという名目で、何一つ実装されていない。それどころか、独女に対していわゆる“寿退社”を強要したり、既婚者に対して妊娠や出産を機に降格人事やセクハラ・マタハラまがいな行為が頻発すれば、誰が子育てするとでも?実はここが重要…未だに世の中の男性が“ガキ”すぎるから、こうなるんです!! もう一度言います…世の男衆の“精神年齢”が幼すぎんじゃい!!

閑話休題…つまり、ハナっから“女性が邪魔”と言わんばかりな職場環境で、それでも働かないと、家族を養えない家庭が増えているにも関わらず、そこんトコを見ずに行政がドタバタしたって意味がない。当然、すべての職種で子育てのための養育施設を設ける事は不可能だが、それを“理由”に女性を軽視しておきながら、専業主婦になれと言われても、世の女性がそれで納得する訳ですか?(ま、オイラの場合は、嫁いだ先が交通の便が悪い農家なんで、仕方なく“寿退社”しましたけどねw)更に、高齢者介護をせんにゃならん家族もいるのに、それすら“邪魔”というなら、高価でもいいから今すぐ、全自動ロボットを大量に導入して、人件費をカットすりゃいいでしょう…でもそれって、逆を言えば、収入源がない人達ができるだけであって、せっかく作った製品を“お金がない”事を理由に、誰も買ってくれなくなる事を意味するのに、誰も気づいていないから可笑しい訳であり、んでもって、男性のみで社会が本当に回るのであれば、この世の中に生殖における“メス”の存在も不要になることを意味する。まぁ…それはそれで非常にキモいし、その憂さを晴らすのにカチムチの変態と戯れる事を受け入れないとマズい事になるw(ホレ、アニメの“アクエリオンEVOL”で、生まれくる者が全部男性ばっかで、女性がいない世界ってのが、自分たちの世界が滅亡するかもしれないって事で、女性をさらっていくネタがあったが、ああいう状態、何かに似てると思いませんか?)

少子高齢化でもまた然り…子供を大事にせんと、自分の我儘ばっか言ってる中高年や老人どもを見てると、この“結果”も必然の理じゃないか?そう、確かに、自分の“若かりし頃”も、世の老人どもの“理不尽”な政策によって振り回された挙句、大乱闘をやった訳だが、それによって勝ち得た権限を、今でも振りかざすのであれば、その“同じ過ち”を繰り返す事になる。違いがあるのであれば、それは、今の若年層の方が知恵が回るという事…即ち、自分たちを支える屋台骨がいなくなれば、必然的に、その御鉢は“言い出しっぺ”に帰ってくる事を、みんな知ってるから、ワザと子育てをしなくなったとすれば、これほど怖い話はない。なぜなら、自分たちが“育児放棄”をした事によって、誰も“子育て”のノウハウがないから、結局“子供を作らない方がラク”という概念に至り、余計に少子化に歯止めがかからなくなるどころか、自ら“祖国の滅亡”を望む様になる。もっと言えば、今、自分が住んでる国そのものがイヤになり、富裕層や有能な学者は海外へ逃げ、貧困層は自暴自棄で、いつでもテロを起こしかねない状況になる。日本の場合、“迷惑かけたくない”一心で、一家心中か個別での自死を選ぶ訳で、そこには苦しみしかない。自分自身の“責任”でそうなってしまった以上、滅亡は“待ったなし”である。

ここで最初の話に戻せば、ガキの声が煩いとダダこねる成人の方が、どんだけ“稚児こい”よ?そんなに煩いなら、昼間、図書館に籠もれば?あの、異様なまでの静けさが好みなら、そこにいたらいいだけの話。年がら年中騒々しいのが嫌なら、それこそ限界集落といわれる地域に引っ越した方がいい。都会のような利便性はないが、まず、ガキの声はしないし、煩いと思っても、それは自然が発する音であって、文句を言う相手としては人間の様にはいかないw それも嫌なら、耳鼻咽喉科に行って、こう告げればいい…“聴覚を潰す方法はないか?”と。聴覚障害の人たちは、音が“聞こえない”からこそ、上手く言葉を発しないだけで、実際は手話やジェスチャーで会話をする事ができるし、必要に応じて、筆談をする知恵がある。しかし、突発的に(あるいは、加齢によって)聴覚を失った場合、自分が“聞こえない”という自覚がないから、どうしていいのかわからない…けど、ガキの喚く声を無視する事ができるw “都合よく”難聴になれるならともかく、他の人の声すら聞こえなくなれば、どれだけ寂しく、そして、どれだけ危険な事か、すこし想像してほしい…自分の我儘によって生じた“結果”が、どれほど他者を傷つけ、恨みを買ってるか。そこに気付かない様では、何をやっても、誰一人報われない…

 

競馬を愛する語り部たち…vol.28:小さなダンディズム・木和田篤

正直、このシリーズに関して、ネタ不足気味なのは仕方ないのだが、やらない訳にもいかないので、今月は木和田アナの話。実は、彼は一度、競馬の世界から離れた時期がありまして、ある意味“出戻り”なんですよねぇ…一部競馬ファンから“菫色のダンディー”と言われる所以を、オイラの独断と偏見でまとめてみようと思う。
普通にナレーションなどの仕事をしてる時は、かなり“おっとり”した口調で話すのに、競馬実況になると、レースの流れに則した、結構キレのある口調に変貌する。しかし、決して過度な絶叫をせず、淡々としたリズムで実況する様子は、些か物足りなさを感じる人も多いだろう。だが、GⅠレースでヒートアップした状態ならともかく、平場の新馬戦など、目の前の事実に対して明確な展開を伝える…という使命において、彼の実況は聴きやすい部類に入る。その丁寧な仕事ぶりは、広瀬アナの背中を憧れた彼だからこそできることであり、大阪支社時代、一緒に仕事しながら、その技術を磨いたからこそできる技術である。とはいえ、最近はBS11の競馬中継でのスタジオトーク担当になる事が多く、実況を聴く機会が減ったのは寂しいばかりである。ちなみに、BS11に登場するラジニケの競馬実況アナの中では、実は彼が最年長で、直也アナや檜川アナとは同い年(1963年生まれ)ですw
女性に対して“優しい”という印象があるが、一説には、幼少期に母子家庭だったことが影響してるとされているが、どっちかといえば、それは違うような気がする…ま、私生活上では結構な“キャバ嬢キラー”という噂(?)があるが、おそらく、競馬中継の仕事に対する心情…仕事上では性別や出身、年齢などは一切関係なく、同じ職務の仲間として付き合う上での礼儀として、相手を立てる様に自分を抑えているのではなかろうか。だからこそ、単に女性相手に優しさを示すだけでなく、同業者として厳しい目をして指導する事もある。それを単に“女性贔屓”と批判するのであれば、それはとんでもない勘違いである。逆に、男性…特に後輩に対して、同じように甘いトコを見せる方が、よっぽど変態かと…ゲフンガフン
閑話休題、丁寧な仕事をモットーとしてる木和田アナだが、それが故に悩み、苦しんだ時期があった。それは、大阪支社から本社に戻ってすぐの頃…それまで、競馬三昧な生活だったのが一変し、業務のシフト上、競馬実況できる機会が減った事と、後輩に自分よりも実況センスがある者が入社し、最前線で活躍してる事、なおかつ、本社の競馬実況アナは、大阪支社と違って、当時は“供給過多”な状態だった事もあって、自然に軸足を株式市況やナレーションの方に向け、一時は双眼鏡を置いた。しかし2003年以降、その状況は、彼に再び双眼鏡を持たせる事になる。もちろん、そのきっかけは、いわゆる“エミネム事件”以降の大阪支社のドタバタな訳だが、2003年以降の異変がすべてとなる…広瀬アナが本社への帰還を拒んだ末に退社・フリーとなった事、宇野和男アナのある意味我侭過ぎる退社…様々な要因が重なり、本社でも深刻な“実況アナ不足”に陥った。もともと近眼で、しかも他のアナに比べて口調がゆっくり過ぎる事が仇となり、自分の中で“実況アナ失格”とレッテルを貼って塞ぎ込んでいた彼に、思いがけないカタチでの“現役復帰”の機会が巡ってきたのである。木和田アナが人一倍努力してる事を、一番わかっていて、背中を押したのは、言うまでもなく白川アナや広瀬アナである。だからこそ、その思いに応えたい一心で、再びターフに戻ってきたのである。

さて…ラジニケの競馬実況アナは、どういう訳か“トラキチ”が多いw 以前紹介したコバマサや長岡アナもそうだが、実は彼もご多分に漏れず。毎年、球春が近づくとソワソワし、調子がいい時は機嫌がいいが、成績不振になると、他のトラキチ同様に“もうファン辞める…“とボヤく。今年、セ・リーグのレギュラー戦ではグダグダな状態だったのに、クライマックスシリーズで、まさかの“下克上”を果たし、日本シリーズでは“11年前の激闘”再び…となった訳だが、この原稿を書いてる時点では、どうなってるかわからんが、もしも日本一になってたら、おそらく他のトラキチな連中と狂喜乱舞になるでしょうw

害獣駆除と自然保護

昨日の記事、最後の一言で誤解を受ける人がいると思うので、その補足を兼ねて…

“害獣駆除”とは、何を基準に語られるべきか?その根幹は、自然界での資源保護…即ち、適正な狩猟と養生が肝であり、安定供給の観点からも、ここを失念して、一方的な保護や駆除は、かえって自然界の食物連射や資源再生の阻害を意味する事になる。言い方を変えれば、過剰な動物愛護や自然保護活動は、却って自然破壊でしかない。

海洋民族にとって、多少の違いはあれど、海獣類(アザラシやクジラ、ラッコなど)は、食糧である以前に、海産物を食い荒らす“害獣”であり、漁場にいたら厄介な存在でしかない。また、甲殻類(特にカニ)は、その爪(ハサミ)で仕掛け網をちぎってしまう“害獣”である。だけど、それを理由に命を奪った挙句“廃棄処分”ではもったいなかったからこそ、肉は食用に、殻や骨は釣具の一部に、毛皮は防寒着や敷布に、油脂はランプやストーブの燃料に、それぞれ活用する事で、無駄なく利用してきた歴史がある。それは、アイヌ民族イヌイットの民族衣装や装飾品などを見れば、すぐに理解できる。彼らの食文化でも、単に狩猟するだけでなく、その後の保全…特に山菜に関して言えば、必要以上の狩りを行わず、採取した山や沢では、翌年は入らない事が暗黙の了解とされた。つまり、欲張って獲ったところで、食べきれずに腐らせたり、天候不順などで収穫量が減った場合などの危機管理ができてない様では、集落を守れないことを意味してた。だから、収穫時期や収穫場所に関して、厳しい管理が行われた上で、できるだけ集落内での不平が無い様、集落総出での狩猟が行われた。これに対してイチャモン付けたのは、集落の外にいた者…即ち、外来の商人たちである。

海洋民族にとって、ある意味“普通”の食材や装飾品は、その内輪にいない者から見れば、奇妙奇天烈なモノであり、また、自分達と“違う世界”であるがゆえに、珍しい“宝物”のようにも見えた訳である。だから彼らは、交渉の際に、相手が本気で欲しがる様な品物との“等価交換”を呼びかけ、それに似合うだけの品々と交易していった訳である。が、物々交換の時ならともかく、貨幣によると取引へ移行していくと、いわゆる勝手な“為替レート”による取引になるため、何も知らない者が取引に応じると、それゆえに不当な価格での取引が行われる様になり、それ故にしばしば、貿易商が生産者と消費者双方から槍玉に上がって叩かれる事になる。この法則、実は今現在でも頻発してる事であり、決して過去の話ではない。それが、宝飾用サンゴやクロマグロ等の密漁や、そこから派生する領海侵犯や、海難事故につながっている訳である。

同じ事は農業や林業でも言えてて、単にイノシシやシカ、クマやオオカミ、サルを狩ってるのではない。草食獣は植物を餌にして生息してる関係上、植林地に入って若木の芽や樹皮を喰われると、当然ながら樹木が育たなくなる。また、雑食なイノシシやサルが、山で食料となるドングリや虫が足りなくなると、必然的に食糧求めて里山を下り、田畑の農作物を喰い荒らす事になる。(オイラの近隣でも、今年、どんだけイノシシが田畑を荒らしたのやら…)牧畜をやってるトコだと、オオカミやキツネの襲撃は、家畜衛生の観点からも好ましくない事であり、また、せっかく肥育した家畜(特に羊や鶏)を喰われる事ほど、腹立たしい話はない。だから、どんなに個体数が減った絶滅危惧種であっても、駆逐する方が好ましくなる。フランス南部で今、イタリアから越境してきたオオカミによる羊が襲撃されて死ぬケースが、畜羊農家の頭を抱える問題になっている。一時、フランスではオオカミが絶滅して、畜羊の数が安定してたのに、ここに来てオオカミの目撃情報が相次ぎ、その原因を突き止めると、そういうことだった事が判明した訳である。しかし、壊滅作戦をやろうと農夫が立ち上がると、それを阻害する存在が現れて、エラい事になっている…そう、件の自然保護団体である。彼らの言い分としては、“自然保護”の観点から、オオカミを増やす事で、他の害獣(特にシカ)の駆除に役立つという事である。しかし、思惑が外れているのに、それを主張し、何も知らない都市部の人々から支持されている事がネックになっていて、殆ど“打つ手ナシ”状態だという。

 

それだけ、人間の人口が増え、自然界のバランスが崩れている以上、どこかでなんらかの弊害が出るのは、ある意味仕方ない部分であり、理不尽でも受け入れなければならない部分である。しかし、様々な“関係性”を知らずに、一方的な感情論のみで批判すれば、そのことが“原因”で、さらに状況が悪化する事になる。自己中心的な考えで開発や保護を言ったトコで、それが本当に“正しい”かどうかなど、わかったモノではない。むしろ、現状維持を訴えるのであれば、それに似合うだけの“代償”を、どこかで払わなければいけない。それを前倒しにするか、後回しにするかで、その“結果”は変わる…さて、本気で人類の“持続可能な繁栄”を維持するには、あと、どれくらいの“犠牲”を払わなければならないのだろうか?

 

密漁(猟)と需要。

中国漁船が小笠原諸島などの太平洋上で、宝飾用サンゴの密漁をやっているというニュースを目にして思うのは、そもそも、日本だけでなく海外からも需要があって、それを低価格で安定供給しようと思えば、こういう“裏”があって当たり前だという事。例えば、冬場の鍋に欠かせないカニ肉…通販で低価格で販売されているものは、ほぼ、なんらかの“裏”があると考えていいと思う。特にタラバガニの場合、漁獲量もさることながら、漁場がロシアとアメリカの北極圏近海であることを踏まえれば、日本の漁船が乗り込んで獲ってる訳じゃないから、学術上“タラバガニ”ではないカニが混じってる可能性がある。もちろん、北海道の根室や釧路、網走等で水揚げされたタラバガニ…実際は同型異種の“アブラガニ”が混じってる訳で、地元では濃厚で食べ応えのあるアブラガニの方が珍重される訳であり、タラバは敬遠されることもあるのだそうな。しかし、本土の人間に、その区別、剥き身になった場合の見た目だけでつくと思う?

では、なんで密漁が後を絶たないのか?さっきも書いたと思うが、全ては“需要”があって、“安定供給”が約束されている事に、顧客自身が何も知らずに了承してる事に問題がある。つまり、水産資源保護を訴えたトコで、価格を釣り上げると、誰も“買わなくなる”という、変な危機感が現場の漁師にあって、その“足元”を見て仲買人や通販バイヤーが煽る訳である。本気で水産資源に関する危機感がある漁業関係者であれば、こんな事をしてたら、将来的に水産資源全般が枯渇する事ぐらい推測が付いている訳だが、貧困層にそれを訴えても、聞く耳持たない…なぜなら、そんな“余裕”がないほど、設備投資や燃料費といったコストが悪すぎるからである。農業でもまた然りで、いくら酒米用の“山田錦”を作ってくれと酒造メーカーが頭下げたトコで、管理に手間がかかる上に“工業用”という理由で買い取り価格が安くなる品種を、わざわざ“無農薬・有機栽培”で育てようと考える農家はいない。

つまり、モノにかかる“適正価値”を、誰も知らないから、こういうことが頻発する訳であって、まして、河川や海は“誰の所有物でもない”という概念がある以上、密漁が減る事はない。ぶっちゃけ、国交相でも“河川の管理”といっても、やってるのは堤防や護岸の整備ぐらいで、水産資源の保全などは“農水省の管轄”ということで無視される。その農水省でも、福島の原発事故での農地の再整備(除染含む)に関しては、国交相経産省に、ある意味丸投げである。となると、現場の人間は、ドコに何を申請すればいいのか“もう訳わかんないよ…”ってなるのは当然であり、したがって、漁協や農協が河川や山林を管理してても、いわゆる“アウトドア好き”に“荒らされる”事になる訳である。遊漁船を運営してる漁師が、漁協や海上保安庁に対して、営業の許諾を得て運営してるとは限らないし、観光農園といっても、農協から支援を受けてやってるとは限らない。当然だけど、所有者不明の山林で、キノコ狩りや山菜採りをする行為も、本来はこれも“密猟”になる訳であって、単に“黙認”されてるだけに過ぎない。

 つまり、全ては“生活のため”という“根元悪”がある以上、どんなに制限をかけたとしても、減らないどころか、さらに悪質になるだけ。もっと言えば、みんなが希少なモノでも“価値ナシ”と無視すれば、必然的に需要が見込めない分、誰もやらなくなる。根元的な事を言えば、伊豆諸島産の宝飾用サンゴは、福島の原発事故の影響が出てるかもしれないのに、それを欲してるバカがいる以上、どんどん密漁される。しかし、さっきも書いたが、福島の原発から漏れた放射性物質が海底にある以上、宝飾用サンゴでも、海流に乗って流れたストロンチウム同位体などの“核の塵”を吸着してる可能性がある訳であり、それを身に付ければ…想像するだけでもおぞましい事です。たとえ福島の原発は関係ないとしても、それならそれで、ビキニ環礁での核実験の影響があるかもしれないのにね。(こういう時こそ、脱原発派は声を荒げて言わないと…太平洋で獲れる海産物は食うなってw)

あんまし言いたかないけど、密漁(猟)を防ぐためには、むしろ、密漁(猟)をやってるモン自身が、なんらかの健康被害や災難に遭わないと減らない。そのための方便として、原発事故や核実験の影響、さらには水質汚濁などを“利用”して、密猟(漁)者に危険を察知させる様に仕向けないといけない。(シーチワワも、ここまで知恵回れば、太地町の漁業関係者を納得させられるんだけどなぁ…w)そして、そんなことをしなくても、生活に必要な収益を生み出せる産業を与えないと、必ず大量の密漁(猟)が行われかねない。単に呼びかけるだけでなく、悪行に陥らない“救済案”を示さなければ、必ず犯罪は繰り返される。だから、やるべきことは一つ…“害獣駆除”の名の下に行われる殺生は、目を瞑れ。

報われないのは誰のせい?

とあるアンケートで、若年層の3割が、今の自分は、どんなに努力を重ねても“報われない”と感じるという答えが返ってきた。ま、無理ないねw なにせ、今の高齢者の殆どが、今の若年層だった時代に、同じ様な事を考え、愚痴って、その挙句、国益や将来を無視して大暴れしたからね。そうやって勝ち得た“自分の利権”を、そうやすやすと自分より若い世代に譲るとでも思うか?そんな事する訳ねぇじゃんw せっかく、長い時間掛かって“勝ち得た”自分たちが“主役となる時代”だから、自分以外の存在なんぞ、奴隷…否、都合のいい“妖精”みたいに感じる訳よ。だから、自分の我儘が通じない事が、一番嫌なのよね。でも…ちょっと考え方を変えれば気づくと思うが、同じ過ちを繰り返さないようにしようと思ったら、まず、自分たちがやってる行為が、いかに“稚児こい”事かに気付かなきゃならんのだわ。要するに、自分の思い通りにならない事に憤懣を覚えたとしても、それを甘んじて受け入れなければならない時もあるってことに気付かないと、それ故の恨みを、自分より若い世代や目上の世代から買っちまう事になる。いつの世でもそうだが、しょうもない理由で衝突が起きると、それが連鎖して世界規模の大騒動になる。本当に、最初は単に自分と他人の小競り合いなのに…

根本的な話、本当の“幸福”とは、自分自身の心に充足感を感じるか否かである。どんなに大金が手元にあったとしても、どんなに身体能力が他人よりも優れていたそしても、 自分自身の心…精神状態が“虚しい”と感じている以上、何の意味もなさない。どんなに他人が羨む様な地位であっても、どんなに人徳に恵まれていても、自分の心が孤立してると、すべて無駄になる。その逆を言えば、金欠でホームレスでも、自分の居場所がある限り、その状況でも満足するし、他人から“変態”と罵られていても、かまってくれる人がいる間は、決して孤独ではない。さらに、なんの取り柄もない人であっても、楽しみにしてる事へ参加する事が生き甲斐になってる人は、それだけで充分な才能を養うことができる…自分の心に素直になれる人は、他人から見て、どう頑張っても波乱万丈にしか見えない人生でも、その中で懸命に“生きる”事で幸福を勝ち得ているから笑えるのであり、そして、おおらかになれる。平凡で退屈な事が“幸福”とは限らないし、人それぞれの生涯であるから、様々なケースがあって当然。それを認めるかどうかは、自分次第なトコと、相手次第なトコと、常に二面性がある。

“報われない”と感じる最大の理由は、自分があれこれ“良かれ”と思ってやった事が、なぜか“否定”されていると感じるからである。でも、それはとんでもない勘違い…努兄曰く“最後は“情”だけが残る”…即ち、どんな施しも、それが“当たり前”になると、感謝の気持ちすら薄れるからである。ぶっちゃけ、毎回毎回“ありがとう”と言い続けることが、“マンドクエ&照れ臭い”になる訳である。言う方はともかく、受け手側が自分にとって“当たり前”な事に対して、感謝を述べられると、すごく恥ずかしく感じるからである。さらに、同じ事が繰り返されると、ある種、機械的な流れになる。こうなると、感謝を述べることを省略しがちになり、ある時、その“当たり前”が途絶えると、急に不安になったり、今までの事を棚に上げて、ついつい相手に攻撃的な態度を取ってしまう訳である。その“当たり前”を取り戻そうとして…ここが問題。当たり前な事が、実は“特別な事”だと気づかないうちは、この“勘違い”を治す事はできない。それどころか、余計に事を拗らせる事になりかねない。しかし、様々な変化に対応できる人は、故に寛容になれる。仏教が説く“諸行無常”とは、単に儚い事を指してるのではなく、一瞬一瞬、変化に富んでいる事を自覚させるための方便。何をやっても“報われない”と感じるのは、今という時間も所詮は“過去”と“未来”を結ぶ一端でしかない…それがわからないから、眼前の“結果”のみに捉われ、未来への展望を捨ててしまう事になる。今の国会審議でもそうだが、眼前の選挙の結果や大臣ポスト等を気にし過ぎて、本来やらねばならぬ課題をやろうとしない時点で、誰が選挙に行って、まともに一票を投じると思うか?コレと全く同じ。自分たち自身がやるべき事が、キチンと自分で理解できず、そして目の前の結果に捉われ過ぎて自分を見失えば、当然だけど、過去の因習が基で起きた出来事に対応もできなくなる。

常に“自分”を見失わない人は、どんなに報われない事をやり続けてたとしても、それがどこでどうなるか、ある程度の予測がつく。その予測が、全く見当違いであっても、最終的には“バッドエンド”になることはない。どんなに他人が“幸福”そうに見えても、その“裏側”を知れば、それが本当に“自分が目指す幸福”なのか、すぐに気付く事ができる。どんなに才能がなく、バカにされ続けても、それが本当に評価されるのは、自分が最後まで集中してやり続ける事ができた時である。俗に“継続は力なり”という言葉があるが、バカげた事でも、持続して集中できること、そして、どんな意見でも、その取捨選択を誤らない限り、やがて世間の方から自分という“存在”の大きさに気付いて、本当の意味で“報われる”時が来る。そのタイミングが、他人より早いか遅いかだけであり、誰でも等しく、その“因果応報”の理を受ける事ができる。それでも、自分が納得できずにウダウダ言ってるから、自分勝手に閉塞感に苛まれるのである。その結果、本質的な救済の手を払いのけるわ、自分の意に沿わないものを排除しようとするわ、自分の価値観以外を認めないから他人の評価を批判するわ…とにかく“破壊衝動”に“負ける”わけである。こうなると、誰も報われないから、次第に魂と身体、そして様々な繋がりがバラバラになって、最後は自分が抱え持つ闇に飲み込まれ、満たされないまま朽ちていく事になる。その“自分勝手な閉塞感”を打ち破るのに、どれだけの勇気、度胸が必要か?

抱え込んだ“モヤモヤ”は、よっぽどでない限り、他者がどうにかできるモノではない。だけど、自分自身が自分を見失わない限りは、必ずそれは取り払う事ができる。もしも、自分という“存在”を見失った時は、過去の自分に問い質せばいい…どうにもならない時に、誰がそこにいたか、それを思い出した時、もう一度、自分を取り戻せる“きっかけ”が生まれる。例えそこに戻れなくても、同じ場所で“待っている”人達がいる…手を差し伸べるのか、傷つけるかは自分次第なら、その選択肢を間違えるな。たとえそれが原因で禍根を残したとしても、それは後で必ず帳消しになる。全てが丸く収まる理がある限り、どんな事でも無駄にはならない。どっかで役に立つ以上は、無駄なものなど何一つないのだから。

 

実況アナ達の“苦手意識”

競馬実況をやる上で、馬名の言い間違いは、競馬ファンから叩かれる要因のひとつ…とはいえ、認識間違いやきわどいレースでの見極めで失敗した等、レースの結果と直結してるからこその批判であって、そもそも、馬名がヘンチクリンだと、それ故に批判するクレーマーそのものもバカだとしか言い様がないw(実際にいるんですよ、競馬実況アナが戸惑う事を前提に、馬名で遊ぶ馬主が!!)しかし、それを“理由”に泣き言いってたら仕事にならないのが、競馬実況アナ達の宿命であり、本文である。とはいえ、日本語を正しく喋れてナンボなのは、日本のアナウンサーとして最低限度の“技能”なのに、それ故の苦労が…
昔の実況アナ達にとって、いわゆる“カタカナ”が苦手…ってのがある。要するに、外来語をカタカナで表記してても、その通りに“読めない”って人が多かった。難読な馬名を挙げろと言われて、ベテラン勢が真っ先に思いつくのが、シンボリルドルフ。カタカナ表記では確かに“カッコ良い”馬名だが、いざコレを噛まずに読んでみろと言われ、スムーズな発音ができたとしても、ある程度ゆっくりと話す分には良いですが、競馬実況でコレを連呼してみろとなると、大概の人が噛む事になる…わかってても、ラ行とダ行の発音切り替えが非常に難しいからこそ、大概の実況で“噛む”事になる。(マシンガン実況を肝とする蜂谷アナでも、手こずってましたからねぇ…うまく発音できないって。)更に苦労するのが“ヴ”が付く馬名。これは、英数表記でやればよくわかるが、要するに“V”が付く言葉は、日本人が最も苦手とする…というより、そもそもの日本語には存在しない発音形態であるが故に、実際の発音がおかしくなる訳で、ビリーヴとかエアグルーヴの様に、最後に“V”の発音が来る場合は誤摩化せても、レッドリヴェールとかヴィクワールピサ等の様に、途中や最初に“V”発音が来ると、なぜかバ行発音(B発音)になる事がある。(ウォッカは別だが…)これ自体はある意味、日本語であるが故の弊害としか言い様がないが…
ここから先は、以前、方言に関するネタとしてやった部分の補足になるが、馬名によっては、馬主の“出身”が反映される言葉が使われるケースが多々あり、それ故にパニックになる事がある。そう、いわゆる“方言馬名”ってヤツだ。テイエムボッケモン(テイエムは冠名だが、“ボッケモン”は鹿児島弁で“大胆な人”とか“乱暴者”という意味)とか、ナンデヤネン(ご存知“オダギラー”馬名w 関西弁のツッコミ言葉“なんでだよ”)は、その方言の意味が通じる出身者ならともかく、様々な地方からアナウンサーとしてやってきた者にとっては、時と場合によっては“難読言葉”になるw ぶっちゃけ、関西方言を東北人や関東人がやると違和感がある(その逆もまた然り…)様に、発音ひとつで“大爆笑”となる実況にもなりかねない訳で、単に“珍名”だからと言って、ヘタレな実況になるとは限らない。寧ろ、方言が入った馬名の方が、実はアナウンサー達にとっては“最大の敵”だったりする。言い方を変えると、東北出身の小塚アナや佐藤アナが無理矢理関西弁で喋るのと、関西出身の檜川アナや直也アナが普通に関西弁で喋るのとでは、聞こえ方や雰囲気が全然違う。コレがモロに実況に出た途端、同じ馬名を連呼してても、違和感が出る訳である。(但しコバマサの場合、ナンデヤネンに関してはある意味完璧w)
つまり、せっかく“カッコいい馬名”を付けて、登録も通ったのは良いが、実況するアナ達にとっては、毎年の新馬(デビュー)戦程、戦々恐々な状態であり、故に、毎度ながら馬主に“ヘンチクリン馬名はやめてくれ”と願う訳であるが、毎年の如く願いは裏切られ、そしてレースの準備中に頭を抱えながら本番に臨む訳なんです…いやはや、ご苦労様です。