迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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ばんえいでの“不祥事”の話…今後の公営競技について考える。

一部の報道で、そして、公式サイトでも公表されているように、ばんえい帯広競馬場で、厩務員や現役騎手が、開催中に馬券を購入するという、競馬法違反行為(第29条-6:地方競馬に関係する調教師、騎手、および厩務員は、すべての地方競馬の馬券を購入、および、第三者からの譲渡を受けてはならない)が発覚した。現在は廃止になった福山競馬場でも、かなり昔に現役騎手が知り合いから馬券を譲り受けた件で問題になったんだが、同じ過ちをやっちまったことは、非常に残念でならない。事の経緯については報道機関と公式サイトに任せるとして、なんで競馬関係者が馬券の購入に関して規制があるのか、その解説をしておこうと思う。
あ、念のために誤解される人が多いんで、一応競馬法で規制があるのは、競馬関係者と言えど、あくまで主催者(中央だとJRA、地方の場合は都道府県及び市町村の競馬組合関係者)に在籍してる人であり、報道機関に属してるラジニケの実況アナ達は、JRAの公式実況を請け負ってても、ここでは規制の範囲外になる。つまり、主催者役員や厩舎関係者が競馬観戦する分には良いが、馬券の購入は、八百長防止の観点から禁止されている訳である。逆を言えば、中央の競馬関係者は、地方競馬で所属馬の出走や騎乗機会がない限りは馬券の購入ができる訳で、武豊騎手が園田競馬場で馬券勝負した…というネタがグリーンチャンネル(競馬場の達人)で放映できたのは、そういう事であり、的場文男騎手がたまたま東京競馬場で中央の馬券を購入しても、この場合(南関所属の馬が出走してない&中央での騎乗依頼がない)は“お咎めナシ”である。問題なのは、ばんえい競馬の騎手や厩務員が、開催中の帯広競馬場で、しかも自分達が関係するばんえいの馬券を購入してた事である。これが発覚した以上、せっかく沈静化したハズのばんえい競馬の存廃問題が再燃するのは避けられない。仮に、八百長競馬をやっていた訳ではなかったにせよ、公営競技に対して眉を顰める市民団体は、廃止以外に謝罪の術なしと猛抗議するのは明らかであり、八百長行為が頻発してた事が明るみになれば、帯広市の貴重な観光資源で収益が一番見込めるキラーコンテンツを、自らの手で終焉させなければならなくなる。
競馬に限らず、公営競技を行う選手は、従事する競技の賭博(舟券・車券)は、購入してはならない。これは先ほども触れたが、公正な競技を維持するためにある規制であり、当然ながら、主催者自身も主催する競技の賭博は、それぞれの法律(競馬法自転車競技法、モーターボート競走法など)で禁じられている。しかし、だからと言って他の競技に対する賭博には、一切関わるべからずとはなっていないため、競輪選手が中央での馬主になってたり、競輪場やボートレース場で中央の騎手がアツくなっている姿を見るなんて事は、結構頻繁だったりするw これも実は、法律上規制されているのは、あくまで自分が従事している競技に関してのみであり、そうじゃない分野までの規制はかかっていない。故に、それぞれの選手・騎手が交流する事はよくある訳であり、競技から身を引き、主催者との関係が切れた人が、自分がやってた競技に対する予想をやったり、馬主資格を取得して楽しむ…なんて事は、事案的には珍しくても、実際は可能である。当然だが、厩舎関係者の“親族”であっても、直接関与してない(=従事者ではない)限りは、実は公営競技の賭博に参加しても問題がないのであり、故に、スポーツ紙等で予想を掲載したり、競技中継番組に出演してても文句はない訳である。ただ…だからこそ、実際問題として“家族”である以上、あるいは“親類・縁者”である以上、バラしてはいけない情報を喋ったり公開しない訳で、馬券予想において、自分の親族がやってる厩舎に居る現役馬に対して、ある意味“バラしてはいけない事”を喋る人は、当たり前だが皆無である。
つまり、八百長を勘ぐられない様にするための規定があるからこそ、本音トークしたい事があっても黙らざるえない訳であり、また、勝てる自信があるレースでの勝負をやってみたくても、それ故に“八百長”をやったと周囲に言われれば、競技そのものの存続が難しくなる事も意味してる。いくら、馬券の売り上げを向上させたくて、身銭を切ってまでも参加したくても、競技関係者である以上は、堪えなければならない話である。まったく…この先、ばんえい競馬が公営競技として残ることができるかどうか、それとも、事件を理由に廃止に追い込まれるのか、すべての判断は帯広市民と、そこから選ばれた市議会議員、および市長の胸算用である。競馬ファンにできる事は、今後も北の大地で、重種馬による世界でも珍しい競馬が根絶しない事を願うだけである…馬事文化が途絶える事は、地域に根ざした娯楽の歴史の終焉を意味するだけに、この問題の闇は深い。