迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

競馬は文化?それとも…

公営ギャンブルの存廃問題を取り上げると、必ず、“古い慣習は滅びるべきだ”という旨の意見を出す人が散見されるが、競馬に関して言えば、世界規模で見ても、その意見がまかり通るほど簡単な話ではない。なぜなら、家畜として馬を利用する文化がある国や地域では、それぞれの民族性や風習に即したカタチの競馬が存在し、ギャンブルとしての一面は、あくまで表面上の話でしかない。むしろ、ギャンブル…博打としての競馬は、ファンや主催者、参加者の勝手でやってる訳であって、スポーツとしての競馬は、どこまでいっても乗馬の馬場馬術エンデュランス競技の延長線上にある種目でしかない。では、なんでこうも目の敵にされがちなのか?
日本の場合は、近代競馬…すなわち、西洋文化の一つとしての競馬は、明治以降になってからの話であり、それ以前は、神社での神事として執り行われるモノを指していた。この件に関しては以前、このブロマガでも解説したと思うが、いわゆる“競馬神事(くえべうましんじ)”とは、一種の占いであり、また、五穀豊穣と国土の繁栄、地鎮の意味合いが強かった。ゆえに、レースとしての競技というより、例祭の為の行事として行われる訳であって、どこぞかの峠のカーチェイスみたいなモノではなかった。また、地域によっては、無理矢理崖を登らせたり、相馬野馬追の様に、神が宿るとされるモノを取り合うための“乗り物”として馬を使うなど、様々な形式の“競馬”が行われていた訳である。これを戦後復興の財政確保に利用しようと考えた自治体が、中央が再開されるよりも先に、興行としての競馬を執り行った事から、現在の地方競馬に至る訳である。まして、ばんえい競馬の場合、東北や北海道での開拓史に欠かせない話があって、ぶっちゃけ、村(集落)の祝い事や収穫祭の余興として、自分が飼っている馬の“力自慢”をやるために始めたのが、通年でも楽しめるようにと発展したのが今日の姿であると言って良い訳で、そこんトコの話を抜きに、単純に“ばんえい競馬を廃止しろ”と叫ぶのは、かなり乱暴、かつ、開拓に勤しんだ先人達に失礼な話である。
同じ話は、海外の競馬…特に欧州の競馬にもあって、トロッターレースや氷上競馬などの、超が付くほどのローカルな競馬も(馬券の発売がないレースもあるが…)存在する。ちなみに、トロッターレースとは、日本では“竸駕(けいが)徒競走"という名で、今から50年以上前に存在してたが、ぶっちゃけると、古代ローマの戦車…ほれ、馬がリヤカーを引っ張り回してると想像したらわかりやすいかと思うが、アレをレースにしたヤツである。ただ…現在ではイタリアやフランスのごく一部で開催があるだけで、馬術競技としての“バレルレース”に取って代わられているトコも多い。(こっちの解説は、緑茶でやってる“ハートランド物語”を見た人ならご存知かと…w)その理由にあるのは、過剰な“動物愛護”の概念である。宗教批判はお門違いだが、いわゆる“キリスト教保守派”といわれる市民団体に多い概念で、深く物事を考えない人に、よくある“落とし穴”的な思想と言っていい。なぜなら、家畜の殆どは、狩猟に行く手間を省くためと、食糧の安定供給を担う為に肥育してるのであって、また、人間以上に牽引力や耐荷重に優れているから、大量輸送を担う為に大型の家畜馬が必要だった事は、言うまでもない農耕の歴史である。当然、乗馬用の家畜馬…軽種馬が繁殖してる理由も、長距離移動と高速移動の概念から存在する訳であり、舗装されていない、いわゆるオフロードでの移動手段としての役割が大きかったからこそ、それに適合した品種改良や調教が行われた訳である。これを“邪悪”と切り捨てるのであれば、当然ながら、畜産業を営む農家に対して侮辱してるのと同意である。
つまり、農耕をやってる以上、しかも馬を利用してる以上は、競馬を単にギャンブルとして切り捨てるのは、他の農家に対して、開拓や耕作を放棄しろと言ってる様なモンであり、また、収穫祭などの余興として、あるいは、祭礼の一つとしてやっている事を“中止しろ”と声高に叫ぶ行為は、農業をバカにして見下してるのと同じであり、食糧の供給源に唾を吐く様な行為でしかない。もっと言えば、古来からの娯楽を破壊しておきながら、他の娯楽を推奨したトコで、それが根付くまでにどれだけの時間がかかるか…文化を否定するのは、結局、自分自身が“興味ない”事を理由にしてる我儘でしかない。そして、今までに至るまでの歴史を直視せずに、“正しい歴史認識を”と叫んでも、それは、単なる感情論でしかない。すなわち、いわゆる“黒歴史”を含めた部分も、文化として築き上げてきた経歴であり、また、それによって賑わいを保ってきた側面がある以上、無碍に扱ってはいけない。そういう部分を無視して、それでも競馬を“社会悪”呼ばわりするのであれば、自分が今打ち込んでいる趣味や、今まで集めたコレクションを、見ず知らずの他人から…ではなく、自分の親友や家族に否定された挙句、勝手に廃棄処分されても、絶対に文句を言うな。なぜなら、競馬ファンや関係者を罵った上で、競馬を廃止に追い込む行為は、まさに、自分自身に置き換えた時、どれだけ屈辱的、かつ、理不尽な事をやってるかに気付いていないからだ。