迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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競馬を愛する語り部達…vol.24:劣等感からの精密機械(プリサイズマシーン)・樋口忠正

このシリーズオリジナル第5弾は、RFラジオ日本において、“伝説の精密機械”と評される樋口アナに纏わる話…これで2年前の福島で行われた競馬実況マスターズ参加者で、高橋雄一アナ以外全員を紹介した事になる。とはいえ、オイラ的には、完全に“資料不足”な状況で紹介するから中途半端な格好になるが、そこはそこ…って事でw
そもそも、樋口アナが競馬実況の職人として、RFでも注目される様になったのは、残念ながらつい最近…と言っても、6年程経過する訳だが、それもそのハズ。現在のRFは、完全にNTV日本テレビ放送網の子会社扱いであり、在籍するアナウンサーも、その殆どがNTVからの出向か、フリーでの契約ばっかで、いわゆる“生え抜き”社員のアナウンサーを探す方が難しいぐらいである。ま、ラジオ単営局の“悲しき性”とも言えるトコではあるが…
ともかく、そんな“生え抜き”局アナとしてRFに在籍してたんだが、最初の頃は、どっちかと言えばプロ野球の実況で注目を浴びていた。というのも、局アナデビュー2年目から実況に携わり、当時、史上最年少のプロ野球実況アナとして脚光を浴びたのだそうな。しかし…声質やテンポが、どうしてもスポーツ実況に向いてないと自分で思う様になり、たった3年で自分から実況席を離れた。もちろん、スポーツ実況を諦めた訳でない…しかし、最大の原因は、東京の放送局であるが故のジレンマで、ジャイアンツのホームゲームが中心の中継である事が、一番の憤懣だった。というのも、実は樋口アナ自身、長岡アナに負けず劣らずな“トラキチ”でありまして、伝統の一戦と言われるG-T戦の実況をなかなか担当させてもらえなかった事も、ひとつの要因と考えていいかと思うw だけど、本気でスポーツの実況を諦めていたのであれば、競馬実況の名手として、その名を残す事はなかっただろう。
競馬実況を始めたのは、70年代前半。それ以前は、番組進行やパドック等の聞き手として、競馬場に出入りしていた。しかし、すぐに壁にぶつかった…通常のスポーツ実況と違って、僅か1〜2分のレースの為に、1時間以上掛けて馬名と枠順を覚え、勝負服の図柄と枠帽、そして馬のゼッケンを双眼鏡で確認しながら実況するのは、とてもじゃないが至難の業である。他の実況アナは、プロ野球の実況も兼任してたんだが、樋口アナには、そのスキルがなかった。でも、それが却って競馬実況アナとして生き残るきっかけとなる。他のアナ達を紹介した際に、何度も解説したかと思うが、異業種のスポーツ実況を兼任するには、競馬実況のスキルは邪魔になる。それが仇になって、競馬実況を諦める人が多いのだが、樋口アナの場合、その全く逆だった事が、ここにきて威力を発揮する事になる。そう、他の実況を諦め、競馬のみに特化した事により、詳細な描写を胆とする実況に徹する事ができた訳である。これが、後に“RFの精密機械”という二つ名がつく由来なのである。
樋口アナにとって、競馬実況で悔しい思いをしたのは、76年のダービーと77年の有馬記念で、キメ台詞を用意した上で臨んだが、ついにはそれを使わずに終わってしまった…世間では“天馬”と称されたトウショウボーイに対し、樋口アナ自身は、一回たりともその言葉を使う事はなかった。ダービーにおいてクライムカイザーに敗れた時、丁度、今年のダービーの様に、トウショウボーイの勝利を信じた上での実況だった事もあり、実況の中で落胆した。引退レースとなった有馬記念でも、たった一度だけ“天馬”というフレーズを使って勝利を祝おうと思ってたのに、テンポイントに負けた…このふたつのレースで、使いたいフレーズが使えずに終わった事が、一番悔しかったという。と、同時に、クライムカイザーの勝った(=トウショウボーイが負けた)ダービーは、そんな悔しさと、思い通りにならない事が、当たり前なのだという事に気付かされた事案として、今でも思い出のレースとして語っている。(実際に、2年前の福島でのイベントでも、その話をされていました…)
引退を意識したのは65歳を過ぎてから…馬名を覚えるのは全然苦にならないのに、実況のスピードがどうしても遅れがちになり、実況に使う双眼鏡も、今までなら7〜8倍のモノで全場対応できたのに、府中で10倍以上の双眼鏡を使わないと、馬影が小さ過ぎて判別できなくなってきた事がきっかけだった。これは蜂谷アナもそうだったんだが、老眼が進行し過ぎて、手元の塗り絵(勝負服と枠帽を塗り分けてある、実況の為のカンニングペーパー)と、双眼鏡を覗く為の反復運動が億劫になってきた訳である。もちろん、モニターテレビやターフビジョンを駆使すれば、そこまで気にならない訳だが、ラジオの競馬実況アナとしてのプライドが、それを許さなかった。特にマイル(1600m)未満の短距離戦では、余裕がない分バタバタした感じになる事が、どうしても許せなかった…だからこそ、自分自身にけじめをつける為に、6年前のダービーを最後に、双眼鏡を置いた。でも、2年前の福島で、たった一回限り、しかも福島競馬場限定で、その実況を復活させた。

実況後のトークショーでは、「こんなおじいちゃんでも、まだ実況ができる事を証明できた事が嬉しかった」と述べている。確かに、年齢を感じさせない声量と、若干、危なっかしい状況だったとは言え、キチンとレース実況として成り立ってる点を踏まえれば、まだまだ頑張れるのでは…と考える次第である。

さて…番外編をやるとすれば、京急利用者であればお気付きかと思うが、横浜駅の1番線ホームのアナウンスは、実は樋口アナの声である。関東の鉄道会社では、競馬実況アナが場内の自動アナウンスに使われるケースが多々あるのだが、関西では、かつては生田博巳アナがやってたのだが、彼の死後、芸能プロダクションに所属する人達がやってる事が多く、少々寂しい。ま、樋口アナ自身、結構な鉄だったりするモンだから、こういう仕事を引き受けたと考えてもおかしくない訳で…w