迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

テレビの中継が、どうしてグダグダになりやすいのか?

FNSの悪口ばっか言うのも芸がないのだが、それくらいSNSで叩かれるのは、それだけ視聴者がいる裏返しであり、他の地上波テレビ局がやらないから、仕方なく見てる…といったトコである。しかし、ラジオで事が足りる、あるいはグリーンチャンネルに視聴登録をしてる競馬ファンにとって、FNSの競馬中継に対する態度が、どうしても気に喰わないのは、メディアが流行を作るという意識が、結局のトコ、バカバカしい訳であり、本当に競馬ファンが見たいのは、目の前のレースであって、事前の情報や有力馬のどうでもいい話は、新聞や専門誌、インターネットで既に“お腹いっぱい”なのである。そこが理解できていない。これでは、全国の競馬ファンradiko経由でラジニケや競馬中継を行っているラジオ局にシフトするのは無理もない話だ。
さて、ここからが本題。競馬中継に限らず、昨今のスポーツのテレビ中継が、どうしてここまでグダグダな内容になってしまっているのか?その答えをオイラなりに分析すると、映像があるが故の“堕落”が、画面上に出てしまってるというトコだろう。実況アナでもそうだが、映像がある分、場面描写を省くケースが増え、更に、その余白に中継とは関係ない情報…特に、新作ドラマや、それの劇場版の公開告知、放送局主催イベントの開催までのカウントダウン等、本当にどうでもいい事を、画面の一部に割いて、あるいは実況に紛れ込ませてやってるから、単にスポーツ観戦したい視聴者が“イラッ…”とくる訳である。
かつてのプロ野球中継やその他のスポーツ中継でも、必要最低限の解説と、ゲーム進行の実況がウリであり、また、限られた中継時間ギリギリまで、状況を克明に実況し続けた。しかし、最近の実況中継は、その“極限状態”まで実況しようというスタイルがなく、ただ、時間切れを理由に実況をやめるバカが増えた。同じ絶叫系でも、試合のポイントを押えて吼えるのと、単にバカ騒ぎする様な絶叫では、そのインパクトも内容も、全く“別モノ”となる。特にラジオでのスポーツ中継を経験してる実況アナと、テレビ以外では実況経験がないのとでは、その表現力、タイミングに雲泥の差が出る。その理由は、視覚情報が遮られた状況において、明確な状況確認の術は、現場の人間が克明に、言葉のみで伝えていく描写技術が必要になる。以前、吉田アナの話でも書いたが、たとえ現場にいると言っても、全員がスタンドで見てる訳じゃないから、実況において明確な描写ができないと、来場者が状況を把握しきれない…ここの部分で、ラジオの実況はシビアな描写が胆となる。しかし…テレビの場合、その映像に合わせたスタイルで実況を進めなければならない訳で、そういう意味では、杉本アナが作り上げた形式の実況スタイルは、理に適ってる部分もある。が、問題はそこで、カメラスタッフと実況アナの息が合ってないと、終始グダグダな中継になってしまう。杉本アナも、自書“あなたの、そして私の夢が走っています”の中で、カメラマンの撮りたい映像と、自分が視聴者に伝えたいレースの実況にズレがあると、それをどうやってお互いをフォローするかで、実況の善し悪しが決まってくるという旨が書かれてる部分がある。その為に、モニターの映像だけでなく、自分の目でレースを確認し、それを実況の中で合図を出し、カメラの補足を行う…もちろん、そもそものきっかけは、タイテエムが勝った春天での実況で、それまでは、カメラスタッフのモニター映像を信用せず、自分の目で見た事“だけ”で実況していたのだが、視聴者から指摘され、映像を見た時に愕然とし、以後、カメラスタッフが捉えた映像に合わせるスタイルへと変更した訳である。
この、基本的な部分を欠落して、カメラスタッフ…否、番組制作スタッフが勝手な思い込みと、ファンを無視した中継をしてると、当然ながら実況アナの実況そのものも、エエ加減なモノになる。まして、基本中の基本は、ありのままの状況を伝える事であって、自分達の感情なんぞ、視聴者にとっちゃ“どうでもいい”話である…トーク中心のラジオ番組ならともかく、スポーツ中継において、地元贔屓になるのはともかく、中立な立場で物事を伝える事こそ、生中継のスポーツ番組では重要な役割である。そんな事を無視して、単に視聴率ばかりに捉われたスポーツ中継をやったとしても、視聴者にとってはウザいだけである。