迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

仏法用語を身近にする豆知識・その6…グローバリズムは“随法毘尼”からw

最近、イスラム圏の人々に配慮した、いわゆる“ハラール(ハラル)フード”と言われる食品を、目にする機会が増えた。もちろん、そういう風習に従ってやってる訳だから、これは異論を唱える事自体は、宗教批判と見做される部分なので避けたいトコだが、今回は敢えて、そこの部分を破折させてもらう。(もちろん、エホバの証人の戒律にある“輸血拒否”に関する部分もねw)そもそも、世界中の宗教…特に三大宗教として名高いキリスト教イスラム教、そしてヒンズー教には、日本人には“理解不能”な、ある意味どうでもいい“戒律”が存在する。しかし、これらには一応、きちんとした“理屈”が存在し、これがぶっちゃけ、紛争の火種になってる部分である。つまり、くだらん“決まり事”の中には、中心となる地域でしか通用しない様な風習や、衛生等の事情があってそうなってる訳であり、そこを他の地域でも厳守する様に教えるモンだからおかしくなる訳である。そんな、地域や風土によって事情を鑑みずに布教する事による、宗教倫理の“歪み”を是正する考えが、仏教には存在する。それが“随法毘尼(ずいほうびに)”ってヤツである。

“随方随時毘尼(ずいほうずいじびに)”とも言われるこの教えは、仏法の根本的な法理に違わない限り、その地域の風習や時代の変化に合わせた指導を行う事を指し、様々な違いを認めた上で、それに合わせた修業のあり方を提示した考えです。つまり、様式や作法に捉われるのではなく、その地域や世代に合わせた考えで仏法に接していくきっかけを作っていく事こそが、布教における肝心な部分とされた訳である。よって、一方的な“常識”を押し付けるのではなく、“郷に入れば郷に従え”なのが“随法毘尼”の基本ともいえる訳である。逆をいえば、自分達を“正義だ”と叫ぶ人に多い、ジコチューな発想で布教活動を行えば、当然、相手にカドが立つって事w ぶっちゃけ、イスラム原理主義を唱える者も、KKK信望者も、そしてユダヤ教徒の一部でも、この概念がすっぽ抜けした“自己完結型”社会を求むるあまりに、他人をバカにしてる訳であり、その姿は、仏法の原理から言えば“ドングリの背比べ”レベルの話である。つまり、同類扱いされてもおかしくない訳である。

イスラエルでの紛争も、根本を質せば世界中からユダヤ人がバカにされた挙げ句、帰るべき場所がないから、ユダヤ教の“聖地”とされたエルサレムを占拠して、無理矢理作ったのがイスラエルの“起源”である。それを認めたのが、ユダヤ人を自分トコから追放したかった白人…というよりキリスト教徒達であり、それに対して“無責任だ”と叫んだのが、アラブの王族とイスラム教徒達である。その“ドタバタ”をイラクで繰り返そうとしてるのが、件の“イスラム国”を勝手に宣言してる連中だと言って良い。同じ理屈は日本でもあって、在日外国人…特に韓国籍中国籍の連中に対するヘイトスピーチもまた然りであり、また、“本籍”である件の国民すら、在外同朋に対して侮蔑してる訳だから、いつ、イスラエルが抱えてる問題が、日本でも発生するか解らない訳である。当然ながら、欧州…特にフランスの移民問題もまた然りで、彼等もまた、国籍はフランスであっても“侮蔑対象”となってる人も多い訳で、彼等を訳もわからずに侮蔑してる連中も、所詮はイスラエルの事や中国のやってる事が笑える立場ではない。(中国の場合は…ま、何も言わなくても察してもらえればw)

もっとも、随法毘尼の至極は、どこまでも相手の真心を“信じる”という概念あってこそであり、仏法を信じ、それを実践していく中で、周囲からの信頼を勝ち得る事にこそ、その本意はある。だから、時にはそれ故の忌憚なき批判を行う事もある。ここを、勘違いしてはいけない。自分が信仰する宗教の教義が批判されても、何故批判を受けたかを考えずに世間に訴えても、誰一人として相手にしてもらえない。だから、自分達にとって“不浄なるモノ”として排除すべきだという考えを、一方的に押し付けている様では、逆に“お前ら出てけ!!"と罵られるのは当たり前。当然ながら、昔からその地域に住んでる者がインフラ整備等を訴えるのは普通でも、外部から事情を知らずに方針変換を訴えるのは言語道断。自分が“当事者”である自覚なしにギャーギャー騒いだトコで、何の意味も成さない。他所でできる事は…と唱える前に、自分でできる事をキチンと取り組む事にこそ意味がある。その為のグローバル化であって、なんでも“単一化”すれば良いってモンじゃない。そこんトコを踏まえて考えて、宗教における“変な戒律”を律儀に守る事によって、何らかの不具合を感じたら、破ってみるのもひとつの“選択肢”と考えた方が良い…それが、仏法の懐深い部分であり、故に他宗派との不毛な諍いを嫌ってきた所以なのです。