迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

知る権利と黙る“義務”

さて…一部の弁護士やマスメディアの記者にとって“都合が悪い”法律(特定秘密保護法)が施行された訳だが、ぶっちゃけて言えば、一般庶民にとっては“どうでもいい”話でしかない。なぜなら、知る権利というのは、単に情報を共有することではなく、情報の“性質”によっては、無闇矢鱈に開示してはいけない部分…つまり、秘密にしておく事で、事の混乱を抑えなければならないことだってあるという事。そこを含めた意味で振りかざす分には良いのだが、何でもかんでも“開示すべき”というのは、むしろ本当の意味で相手を信用してない証拠であり、情報の正確さを有耶無耶にしかねない話である。つまり、真贋を見極められない人に、特定の情報を喋ったとして、その“事の重大さ”がわからない以上、不特定多数の相手に開示することが、いかに“危険な行為”であるか…それを踏まえた上で批判すべきであって、情報をすべて開示すべきであるなら、プライバシー(個人情報)の保護なんぞ、クソくらえな話になりかねない。

つまり、国家の重大な危機を招きかねない様な事案があったとして、それを一般庶民に喋るのはいいが、もしもその中に他国の諜報部員がいて、それを聞いたとしたらどうなる?更に、自分自身が調べた情報の内容に、誤りがあった場合、それによる混乱は、誰の責任となるか?ここの部分を踏まえた上で、“知る権利”というものを考えるべきである。つまり、誰にも言えない様な“秘密”を、第三者に打ち明ける事ができるのは、あくまで相手が守秘義務を守れることを約束してるからこそであって、口の軽い人に相談事をやって、回り回って自分の下に、自分の“情報”が外部に漏れた事を知れば、感情的に激怒するのは目に見えた話。つまり、そこんトコの概念をすっぽかして、“知る権利の侵害”を叫んだとしても、誰がその意見に賛同するか?ここが一番重要なことである。

況や、チェック機関が身内の者であったとしても、秘密にしたい“情報”は、必ずどっかで“漏洩”するモノであり、それゆえの“犯人探し”をやったとしても、それで不利を受けるのは、不特定多数の民ではなく、情報を漏らした張本人であり、情報の発信源となった機関自体です。ぶっちゃけ論で言えば、自分自身に不都合な事があっても、それを外部に漏らさない“約束”が守れない状況であれば、故に黙秘するのは当たり前なことです。つまり、“知る権利”というのは、“黙る義務”を守れてナンボな訳であり、それが守れない様な状況では、却って情報に惑わされた挙句、情報を仕入れた当事者がパニックを起こしかねないのです。もちろん、それを“目的”としてる不逞の輩がいる訳だが…その“理由”だって、ある意味感情的なトコがあって、単に相手を、あるいは不特定多数の民衆を蔑むための行為でしかありません。

“誰か”に“何か”を話す時、本当に気をつけなければならない事は、その“話”をして、どんな影響が出るかを考えずに喋る事です。例えば、医師に身体検査を依頼し、その結果を聞く時、その“判断”を信じられるかどうかは、一種の信頼関係に基づいた判断が試されます。仮に、胃カメラの検査で異常があって、組織生検を行うために、粘膜の一部を切り取って検査した旨を伝えられた時、何もわからないままでやれば、それはそれで一瞬パニックになるでしょう…しかし、正確な診断を下すために行った事を、浅はかな情報のみで勘違いすれば、さらに混乱するだけです。だから、検査の結果に対してさらに正確さを求めるためのセカンドオピニオン(他の医師による再検査)が認められている訳であり、総合判断から結論を出しても遅くない訳です。(胃にポリープがあったとしても、それがガン細胞なのか、あるいは単なる炎症なのかは、生検での組織解析を行った上で判断される事であって、素人の考えてパニってたら、助かる命も無駄になる。)だから、開示できる情報に制限をかけている訳でもないのに、まして国防の観点からの“情報規制”であって、それをさも“知る権利の侵害”と騒ぐ方が、他国から見れば異常なのです。企業でもまた然りで、特許製法の類は、業種ごとの“最重要機密”な訳であり、そこを明け透けで公表すれば、製品の価値が下がるだけでなく、粗悪な模造品が大量に、市場に流れることになり、利益を損ねる事になりかねません。だから、下請け企業であっても、受注先からの要望で部品製造を行う際、自作を含めて他に転用しないことを条件にライセンス(製造許可)を取る訳です。そこをバラすべきだと言ってる時点で、お察しですw

だからこそ、秘密を作るべきでないという人は、今一度、考えた方が良いでしょう…自分の秘密を他人にベラベラ喋る事の怖さと、それが拡散した時に、謂われなき侮蔑を受ける事が、どれだけ腹立たしいか。

競馬を愛する語り部達・番外編その3:競馬実況に憧れたアイドル・大橋照子

本来であれば、競馬実況アナ、および経験者のみで構成されるこのシリーズ。あえて今回は変化球を使いましょうw 女性アナウンサーが、俗にいう“アイドル”化したその先駆けは、何と言っても彼女でしょう。かつて、アメリカ大使館前にあった日本自転車会館に、多くの若者が集い、バカ騒ぎを繰り返したという伝説は、ラジニケの歴史において燦然と輝く(?)名物w その話題に欠かせなかった存在こそ、今も長岡アナと一緒に“私の書いたポエム”に出演している“チェリーちゃん”こと大橋照子アナである。でも…彼女が本当に目指したのは、以前紹介した井口アナのような競馬実況アナだったことは、意外と知られていない。
山口県周南市で生を受け、東京で育った彼女。大学在学中にFM東京(現:TOKYO FM)で洋楽の番組を担当した経験があり、この事が、ラジオたんぱ…現在のラジニケに入社する決め手となった。その当時から、このラジオ局は“美女”が多い放送局として、関東ではメジャーだった…が、ぶっちゃけ、短波ラジオ局故の、そして当時ラジオ局のアナウンサー達が画像付きで紹介される機会がなかった事もあって、噂通りの“美女局”というのは、ごく一部の関係者以外、知る由もなかった。でも、彼女がラジニケに入社して、やってみたかった事は、実はスポーツ実況であり、特に競馬実況は、井口アナの存在が影響して、どうしてもやってみたかった…しかし、JRAの公式実況も請け負う事情を知らなかった事や、女性にとって、競馬の世界は放送業界以上に“男尊女卑”な環境である事を理由に、競馬班の上司達は、首を縦に振る事はなかった。もしも、先見の目がある幹部がいたなら、もっと早い段階で、中央競馬にも女性の“公式実況アナ”が誕生していたかもしれないが、当時の女性に対する認識が、鉄火場には分不相応と判断された事が大きい。まぁ…当時から可愛らしい風貌で、しかも、愛くるしい声の持ち主であるが故に、これがいざ、競馬実況に耐え得る声かと言われれば、些か考えさせられる部分がある。
そんな、ある意味打ちひしがれた彼女を、一番不憫に思ったのが、長岡アナである。せっかく、ルックスが良くで特徴がある声の持ち主を、なんとか別の方法で活かせないか…そこで、彼女の“我侭”に対して、ある程度までは許してやろうと考えた訳である。その一環として、あの伝説の番組“ヤロウどもメロウどもOh!”の中で繰り広げたラジオドラマ“アチャラカ王国物語”を作った訳である。(ちなみに、この一部が書籍化されたんだが、現在、とあるオークションサイトでは、様々なプレミアがついた影響で、滅茶苦茶高騰してるのよね…マジで。)今でも、当時のヤロメロリスナーが集う機会があり、交流が深い。でも、そのきっかけは、非常に思いがけないトコから始まるのであった。それは、他の番組中に彼女は、自分が週末にスタジオ勤務する事を告知し、その時に、一部のリスナーをスタジオに招いたのである。この時に、あのボロいビル…もとい、日本自転車会館に中高生のリスナーが集う様になり、中には、学校の長期休暇を利用して、遠路はるばる訪ねる猛者もいた。その影響力を見て、彼女を中心とした女性アナたちで構成する、若者向けの番組を作る事になる。そして、今では考えられない話だが、夕方の17時台に、中高生向けの番組として、ヤロメロが設定された訳である。そこで、現在でも使われている愛称“チェリーちゃん”が使われる様になる訳である。
そんな人気絶頂期に、彼女は商社マンの男性と結婚し、相手の都合でアメリカ・サンフランシスコへ5年ほど渡る事になる。結婚後、フリーになって、様々な場面で活躍するようになった矢先の話である。しかし…“私の書いたポエム”だけは、降板しなかった。他の番組に関しては、他の人に全て譲ったのに対し、この番組だけは、ラジニケとの繋がりを断ちたく無かったのか、月イチでテープに録音した声を送り、リスナーにエールを送り続けた。その時、彼女は、もっと“美しい日本語”を、アメリカ在住の邦人に教えるべきだと考え、行動を起こす。それは帰国後、現在のNPO法人「日本スピーチ・話し方協会」の活動に繋がるのです。

さて、ここから話は脱線するが、会員制ポッドキャスト番組である“ドキドキラジオ”でタマに共演してる直也アナは、実はT.Oプランニング所属…即ち、“チェリーちゃんの下僕”ですw ぶっちゃけ、番組内での無茶振りに、苦笑しながら付き合えるのは、直也アナから見て、相手が大先輩だからこその話。ま、その更に上の先輩が“アレ”ですから、断ろうとすれば何やらされるか堪ったモンじゃない事だけは察しが付くかと…w それと、泉タソがタマに、“ミュージックライフサンデー”で常連リスナーを、大阪支社スタジオに連れ込む(?!)のも、ある意味“前例”があるからこその話。そういえば、旧本社にあった“フリースタジオ”というエリアが設けられたのも、実は大橋アナのせい…いろんな意味で、ラジニケの“女王様”なのですw

本気で世間を変革したいなら…

単刀直入に言えば、自分自身が“変わる”ことに尽きる。特に、固定概念を捨てる事と、自分自身の責任を自覚した上で、行動を起こす事である。言い方変えれば、他人のせいにしたり、他人の意見に何も考えずにホイホイとついて行かない様にすれば、自ずとその“答え”が見えてくる。但し、あくまで“個人的観点”での話であって、全体を変えようと思うなら、それこそ、上質な酒を作るように、じっくりと時間をかける必要がある。

もうすぐ始まる衆院選に関して言えば、この2年で、何ができて、何ができなかったかを考えた時、5年前の衆院選での結果が、何を意味していたかがわかる。急激な変化を求め過ぎて、その反動でgdgdな政治になったのはいうまでもなく、更に、貧富の差が激しくなったと感じたかと思う。けど、要は富裕層が気持ち良く、金銭を使ってくれないからこうなるのであって、貧困層が騒げば騒ぐほど、富裕層は逃げていく…自分の財産を奪われたくないあまりにねw 自分でも考えたらわかるけど、不特定多数のヤンキーに囲まれて、“カネカネサイフw”と恫喝されて、誰が手持ちの財布を緩めるよ?まして、そういう被害に遭いたくないから、その場に近付かなくなるだけで、いつまでも富裕層に対して負担をかけてたら、そら逃げられるわ。で、そういった大口の顧客がいないのに商売しようと考える方がおかしい訳だし、貧困を招いているのは、実は貧困層の富裕層に対する僻みが全てと言っていい。貧しいことを“言い訳”に、自分の責任を放り出している時点で、余計に社会が困窮するだけで、何にもならない。だから、変革に必要なのは、いろんな意味での“貧者の一灯”なのである。

仏法の概念上での“貧者の一灯”とは、貧しくて灯油(この場合はランプや提灯に使う蝋燭)すら買えないほどの貧民が、有り金叩いて僅かな灯油を買い求め、それを仏に供養した真心を意味する。富裕層の信徒があぶく銭で灯油を大量に買い漁って供養しても、ある意味事務的な行動であり、ゆえに、すぐ燃え尽きたり、風に煽られて消えてしまいがちになる。でも、自分自身の意志で、自分が出来る精一杯の事をやった上で灯した炎は、最後まで残った…という故事。言い方変えれば、資産持ちはそれゆえに散財するけど、得られる充足感は一瞬。貧困でも、社会に貢献したいという思いを込めた行動は、どんなにささやかな事であっても、その充足感は無尽蔵。

しかし…昨今の若年層は、富裕層の“偽りの幸福”に惑わされた上に、それを憧れているからどうしようもないw まして、自分たちが貧困なのは、すべて“上の世代”のせいにし過ぎてるからタチが悪い。自分たちが“報われない”のは、先人たちも全く一緒。どんな施しを行っても、それに見合う対価をもらえてないと勘違いしてるから、いつまでたっても報われないのであり、苦しいのである。だから、開き直って、余分な欲望を捨てることも必要であり、小欲知足を学ぶべきなのである。

まぁ…若いうちは、戦隊ヒーロー等に憧れ、いわゆる“正義の味方”がカッコイイと思うから、拙き“正義”を振りかざす訳で、それがいつまで通用するかって言えば、小学校を卒業するまでである。本当の“正義”ってのは、実はとんでもなく“カッコ悪い”モンである事に気づくのは、自分が思う“ヒーロー”という存在が、実は単なる“幻影”だと悟った瞬間である。もっと言えば、自分のクチで“正義”を唱える人ほど、本物の“正義”になる事はない。本物の“正義”ってのは、救済を受けた者だけが、自分に対して施した人に感じるモノであって、万人に受ける存在ではない。どんな“悪人”でも、その意見や行動を支持する人がいる限り、“完全悪”とは言い切れない。しかし…その一方で被害を受けた者は、例え当事者でなくても、当事者が所属する組織の者である事を理由に、あるいは、全く関係のない事案で問題を起こした事を理由に、フルボッコにしたくなるぐらいに“極悪な存在”として見做すのである。同じイスラム教徒でありながら、過激派組織を支持する宣教師と、そんな彼らを“異端”とする宣教師がいるから対立する訳であり、それを利用して“代理戦争”をやっているのが、アメリカやロシアといった先進国…否、白人迎合主義の人々である。ぶっちゃけ、バカバカしい話ではないか。

だからこそ、相手を真正面から見て、受け止められる英知を学ぶべきであり、それに対して老若男女の隔たりを設けてはいけない。当然だが、民族や宗教の違いでバカにするのはもってのほか。自分が本当に世界平和を唱えるにふさわしい人物になりたいのであれば、民衆から嫌われ、罵られる事を恐れない人にならなければいけない。そして、いかなる災いの元凶となったとしても、目の前の人を救済するために命を賭して戦う人でなければならない。だけど勘違いしてはいけないのは、だからと言って、無抵抗な相手をフルボッコしたり、過去の因縁を理由にしたり、とにかく他人から“いい人”として崇め奉られようとカッコつける事である。相手からいらん恨みを買ったとしても、それをも“許せる”人になりなさい…人はどこまでも人であって、神様でも、空想上の魔物でも、妖怪でもない。

いじめは必ず、己の命を傷つける…

今日のTwitterでのやりとりについて…事の発端は、一部の学会員が公職選挙法に抵触する様な行為を行ったというつぶやきに対して、オイラが余計なツッコミをやったために、プチ炎上になった訳である。ま、“学会員あるなる”な話だが、公職選挙法で規制される行為は、あくまで選挙期間中…つまりは、告示(国政なら公示)日以降投票日までの行動が規制されるのであって、それ以前であれば、選管の“預かり知らず”な範囲であり、また、候補者、あるいは議員本人が、選挙区内での金銭授受に関して、たとえ親族の冠婚葬祭であっても、それを一切禁じてる訳である。そして、取沙汰されている政務活動費に関して言えば、公的イベントへの参加や、事業内容の視察等といった部分での必要経費で、かつ、私財では補えない部分を請求するのが本筋であって、私的なボランティア活動は、当然ながら、主催者の手弁当でやってる訳である。マスメディアが報じてる殆どの事案も、おそらく、役所的には“無問題”な事でも、情弱な一般人からすれば“けしからん事”にしか見えない…ま、無理ないねw 今までの政治家自身、生活費の殆どを、政務活動費として計上してるからね。でないと、確定申告での申請が大変だからねw(実体はともかく…)

閑話休題。で、他の学会員がやってる事を見ずに、選挙の話になると湧いて出る公選法的にグレーゾーンな話を、さも“学会員は汚い連中”というレッテル貼りをやりたい連中が、それを解説してるモンを“説教するキモいヤツw”とSNSで罵り、それを拡散して、賛同するモンを巻き込んで大騒ぎする訳である。でもさぁ…SNSも含めたインターネットって、結構“世界中”に自分の“恥部”を晒す行為なんだけど、その感覚が鈍化してると、最後、自分ではどうすることもできない状況になるのは、ニュースで何度も報じてるのに、まるで“自分は無関係”とでも言わんがばかりに、学会員を“公開処刑”してる姿、正直、滑稽ですよw むしろ、学会員を“叩くこと”しかできない自分を、世界中に晒してどうするよw もちろん、この点ではオイラも“同類”だし、他人の事は言えた義理ではない。だけど、自分自身を正当化するつもりも、ひねくれるつもりもない。ありのままの自分自身で勝負する上では、対等なる存在として相手を扱う事が肝心であって、ウエメセでも遜るも、関係ないこった。

第一、学会員の“HENTAI活動”を嬉々として取り上げ、罵詈雑言するのは別段、普段通りの話だから、別に気にする様な事でもないのに、それを取り上げている以上、それは学会に関して興味があったり、入信(入会)したいという深層心理の表れだと、学会員に“勘違い”されてもおかしくない行為である。もっと言えば、罵れば罵るほど、本当はこんな“バカな連中”が羨ましいから、だけど、仲間入りして他人から叩かれるのがイヤだから、どうしていいのかわからないという“心の迷い”に囚われているのである。オイラから言わせれば、そっちの方が“キモい”訳で、自分が見て“キモい”からといってバカにするのは、自分自身の“醜態”を見てるからこその話。この裏別館でも書き綴ったが、自分の視覚に映ってる“姿見”は、鏡を使わない限り、自分自身を見る事はできない。当然だが、その“深層心理”も、物理的に見る事はできない。しかし、自分自身の意識の中で、自分が見てる“姿見”を疑って見れば、自ずと己の“醜い心”を映し出す事になる。そのための“訓練”として、多くの仏教系僧侶は、本尊とされる曼陀羅や仏像に手を合わせ、声明(唱題)をあげ、何度もその身を投げ出す“おつとめ”をやる訳である。正直、他宗派の人間が見れば、この“修行”そのものが“HENTAI行為”に見える訳で、自分自身の行動を正当化しようとバカにする訳である。それ、目クソ鼻クそですわw

人を敬う…という行為は、正直、何を持って“敬意”とするかは、相手次第なトコがあるから難しい。まして、自分では気を利かせてやった行為が、相手が誤解して批判すれば、バカバカしくなるのは当たり前。そして、自分の思い通りにならない事を他人の所為にしてる人ほど、自分の“善意”が否定された事に関してムカつく訳である。説教されるのがイヤなら、自分が“完璧な人徳者”になることである。でもそれって、究極の“嫌われ者”になる覚悟がないとできない事であって、批判や中傷に対して、それを笑い飛ばせる程の懐の深さがないとできない事であり、また、それを恐れずに相手に話せる度胸がないとできない。当然だが、失敗も成功も、その結果を全て素直に受け止められる人でないと、どんなに自分で“完璧”だと思っても、他人から批判されるだけである。

むしろ、完璧な存在がいたら、多分、他の存在は“不要”でしょうから、自ずと“消滅”してるでしょうw なぜって?比較する必要もなければ、競い合う相手もいりませんし、それどころか、その存在を示す必然性もありませんからw だからこそ、他人の才能や意見に対して、ボロカスに言いまくる暇人が必要なのですw その僻み根性がある人と、正反対に存在する者が“セット”で、個性や才能などの部分は光が当たるのです。光があれば影があり、影が濃ければ光がまばゆい…この理がある以上、バカにする人も消えないでしょうし、それでムカつく人もいなくならないでしょうw 全ては自分が自分である以上は…

関西の芸人と競馬の話・その2

今回は旭堂南鷹(なんおう)にまつわる話…ま、デビュー時は“南太平洋”だった訳で、こっちの芸名で覚えてる人の方が多いんじゃないかと思うw オイラと年齢的に変わんないんだが、なんで“講釈師”という古典芸能の道へ進んだのか。その原点は、意外なトコにありました…と言っても、ここら辺はあまりに有名なので省略するがw
先に、講釈という芸に関して解説すると、そもそもは中国や日本の史実を基に、識字率が低かった時代において、その歴史小説や情報を、時に詳しく、時に誇張して、大衆の前で語ることを指す。一見すると落語や漫談に近い様に思えるが、中身はかなり硬派、且つ、テンポが早い。だから聞き手側も、ある程度知識や想像力が試されるトコがあり、また、やってる中身が殆どの場合、大河ドラマ級の戦国絵巻であるため、笑いを取る事よりも、克明な描写が肝となる。ゆえに、語り部である講釈師自身の“国語力”が、作品の良し悪しに響く。古典芸能の中でも、ある意味特殊な部類と言っていいだろう。また、落語との大きな違いは、“打ち扇子”という小道具を使うこと…リズムを刻んだり、話の場面転換を行ったりする際に、小気味よく机を叩くのに用いる道具で、どっちかといえば、扇子の形をしたハンマーみたいなモノと言った方が早いw
旭堂南陵の下へ弟子入りした時、当の本人は、歴史が大の苦手だったw さっきも説明したが、講釈師は歴史小説や史実を取り扱う芸人であり、そこの部分が苦手だと、大概は挫折して辞めるのがオチである。しかし、ある事をきっかけに、そこの部分をクリアできることに気づく…そう、戦国絵巻の物語には、必ず、合戦描写が出てくる訳であり、そこには必ず、馬も登場する。この“馬の描写”に着目し、競馬に結びつけた訳である。そこで、創作講釈として、競馬を題材にした物語を作る様になる訳である。この時から、自分自身を“競馬講釈師”と銘打って、活動するようになる訳である。折しも、バブル崩壊初期の競馬ブーム…競馬に関する芸事に関して、黎明期と言っていい時代に、大好きな競馬をモチーフにした物語を作っては、舞台で披露する事を繰り返した。とはいえ、最初の頃は、マイナーな古典芸であるがゆえに、一部の競馬ファンからは嫌われていた訳で…w
しかし、“継続は力なり”な訳でして、グリーンチャンネルKBS京都NHKが取り上げる様になると、次第に話題を呼び、仕事が増えた訳である。だが…それがゆえに師匠との軋轢が決定的となり、袂を分かち、“太平洋”という名で活動する様になる。何度も説明したが、講釈師はあくまで、歴史小説や史実を語るのを芸とした者であって、現在進行形の話を創作し、語る事は何事だという部分で、師弟が対立してしまった訳である。もちろん、双方の言い分には、それぞれにおいて正しいのだが、それ故の僻みや妬みを抱え込む様になる訳である。この事から、競馬関係者やファンは彼を支持する者が多いのに対し、古典芸能に親しみがある者や他の講釈師から、いろんな意味で“総スカン”を喰らう事になる。さらに、贔屓にしてくれていた放送局からも、芸能界特有の圧力に屈し、次々と番組打ち切りや終了に追い込まれたのである。ぶっちゃけ、競馬ファンはあくまでニッチでヲタクな層であって、芸能全般で言えば“少数派”である。それ故の弊害と言っていいだろう。
されど、本当に“競馬講釈”だけでイケるとは、当の本人も思ってないからこそ、干され気味になり始めた頃から、近代史の講釈を創作する様になる。この努力をいち早く認めたのが、先輩格の講釈師たちであり、もう一度、舞台に上がって活動できるようになる為に、現在の芸名に改めた訳である。再び“旭堂”の名を使う事に関して、当の本人はある種の屈辱を感じてるトコがあるが、これも自分自身が“講釈師”という芸人として生きるための、選択肢だったからこその話である。

この話をやると、前回の山田雅人とダダ被りな部分が多い様に思えるが、前者は俳優業の一環として、競走馬の物語を語るのであり、後者…即ち南鷹がやる競馬講釈とは、競馬そのものの“講釈”である。つまり、ファンの視点からなのか、関係者へ取材を行うかの差がある。そう、彼の芸は、トレセンでの関係者への取材が肝になってるのであり、現場の“生の声”を作品にしてるのである。ここの違いを認識した上で聞き比べると、結構面白いですよw

一切の事柄は、すべて“自分”に“原因”がある!!

アメリカ・ミズーリ州で起きた、黒人少年を射殺した白人警官に対して、不起訴処分という陪審結果に対する抗議。当事者遺族が不服をいうのはともかく、その周囲が騒ぐ“理由”はどこにある?事件の発端は、窃盗容疑で職質されるのを嫌った当事者が黒人であったこと、そしてその“行動”が過剰防衛を招いた可能性があること…ってことだが、アメリカに限らず、多民族国家であるが故の“民族差別”が根強く、特に白人迎合主義を“正義”とする概念がある以上、こういう問題は頻発するのが当たり前。同じことは、日本の嫌韓・嫌中思考にも繋がる部分であり、中国や韓国の抗日反日感情にもある部分。しかし、根幹的なことを除けば、その“理由”があんまりにも稚児こい訳であり、実態を考えた時、目の前の人間を信じられずに、上辺の情報に惑わされた心理故に、誤解や偏見を招く。この法則、西アフリカの“エボラパニック”と同じ理屈であり、実体験が乏しいが故に、パニックに陥る。

では、どうして“民族差別”がなくならないのか?その最大の理由が“変化”を嫌うあまりの“引きこもり”である。要するに、ニートと一緒で、現状維持を望むあまりに現実を見ず、実情に合わせた行動や提案があっても、自分の“幸福”に固執するあまりに、他者を邪険に思うようになる訳である。様々な風習、文化、生活様式が存在するのは、その地域に根ざした“進化の過程”という変遷がある。しかし、そこを無視して現状維持を訴えたトコで、何の意味もないのは言うまでもない。なぜなら、他者との交流があってこそ“歴史”は正しく刻まれていく訳であり、関係者“だけ”で技術開発ができるというモノではないし、様々な刺激があってこそ、芸術の幅は広がる訳であり、様々な意見や思考が寄り集まってこそ、社会全体が成り立っている。そこを無視して…否、排除して“純粋なモノ”など存在しない。競馬の話をするのはなんだが、競走馬としてメジャーなサラブレッドは、イギリス在来種の牝馬と純血アラブの三頭の牡馬(ダーレーアラビアンゴドルフィンアラビアンバイアリーターク)から成り立つ交雑品種であり、しかも近年はダーレー系の品種が一般的である。言い方を変えれば、より速く走ることを目的とした家畜馬として登場したのがサラブレッドであって、その基礎がタマタマ純血アラブだっただけの話であって、アラブよりも速い脚と耐久性がある品種の馬がいたら、それが今日の“サラブレッド”になっていたかもしれないってこと。ちなみに、“サラブレッド”とは、直訳すると“純血種”という意味になるが、実際は先ほど解説した通り。本当の意味での“純血”を求めるのであれば、それこそ、日本の場合だと野間馬やトカラ馬、木曽馬などの在来種を指すべきであって、もっと突き詰めれば、モンゴリアンポニー(蒙古馬)こそ、アジアの“純血種”とすべきである…もちろんこれは、あくまで極論だがw

人種差別で一番問題なのは、“古い因縁”を理由に罵る事が、いかに自分を“バカにしてる”行為なのかに気付かない事が、人種差別根絶を阻む最大要因であり、特に窃盗や傷害といった、実害を伴う犯罪は、どの人種、民族であっても、共通の“悪事”であるという認識が欠けてはいけないって事だ。ここを無視して“これだから黒人は…“とか、“だから黄色種は…“とか、“日本という国は…“とか、“大陸人の民度が…“とか言う筋合いはない。もっと言えば、自分自身が“その現場”にいた訳でもないのに、歴史上の話を持ち出して騒いだところで、目の前の人を傷つけたり、所有物を壊したりする権利はない。もしも、それを“理由”に襲撃していいというのであれば、必ずその“禍根”は、自分に降り掛からなくても、その周囲で影響を及ぼすことになる。これ、仏法における“四つの罰”の法則で、自分“だけでなら“別罰”で、自分がいる“組織全体”に及べば“総罰”となり、表面上に現れたら“顕罰”となり、後々に影響が及ぶのは“冥罰”となる。以前に解説した“One for all,All for one(一は全、全は一)”と同意の話で、たとえ自分とは“無関係”だと思われる事柄でも、それが総じて自分が所属する組織や故郷の“評価”につながる事がある。この自覚が欠如してる以上、必ず、歴史上における“同じ過ち”を繰り返す…それこそ、過去の出来事を先祖代々、後生大事に訴え続けること程バカバカしい話はない。今を生きる者たちを苦しめてる禍根を断ち切るためには、民族(組織)としての概念と、眼前の諸犯罪は“別問題”として片付けるべきであり、そのためにも、同じ場所の“住人”として、叱る事も、励ます事も、そして、支え合うことが肝となる。習慣や民族性の違いを認め合った上で、共通する事柄に関して、一切の贔屓や差別を許さない…それが、本来あるべき社会の姿なのです。肝心なのは、目の前の“相手”を侮蔑する権利は、何人たりとも有してはならない。そして、何人たりとも、いつ、自分が“原因”で他の誰かが傷つくかもしれないという“現実”から目を逸らしてはいけない。“他人”のせいにしていいのは、過去の歴史における粗相だけ。もしもそこで“因縁”をつけられたとしても、“当事者”でない者を責める筋合いはどこにもない。それでも他人をバカにするなら、それゆえに苦労するのは“誰”なのか…今一度、よく考えた方が良いでしょう。

 

さて、衆議院解散となったわけだが…2014

毎度ながら、不正な選挙だ国民無視だと騒いでるバカがウヨウヨ湧いてる様だが、今の政治がグダグダになったのは、言うまでもなく、国民全員の責任である。選挙に“行かない”事を“正義”とするなら、それは、自らの手で国を潰す事と同義である…言い方変えれば、政治を無視する“無血テロ”と一緒。しかし…いくらこれをやったトコで、当の政治家が公職選挙法を利用して、この“国民の行動”を“無視”してる以上、何の意味もない。政治家を懲らしめたいのであれば、選挙に“行かない”のではなく、選挙結果で“大波乱”を導く事にこそ意味がある。

今回の“突発的解散”は、表向きは“安定政権化のため”ではあるが、裏を返せば、連立相手の“公明党潰し”がチラ付いている…そう、維新の党が気付かないといけない事は、自分達自身の立場を、自民党が“利用”する可能性があるって事だ。小泉内閣以降、自民党公明党選挙協力を要請してる訳だが、本音を言えば、一刻も早く公明党…否、その支持母体である創価学会との縁を切り、昔の“一党独裁”の状態に戻したい議員が多い。ぶっちゃけ、昔の自民党に戻したいからこそ、こういう事をやってると、オイラは読んでいる訳である。投票率が低いのは、今の政治…というより、すべての政党や政治団体に、民衆のほとんどが“何も期待していない”からこその話。むしろ、選挙の度に“政権奪取”に燃えるのは、共産党ぐらいであるw なんでそうなるか?だって、共産主義こそ“正義”ですから…彼らにすればw

資本主義や拝金主義の限界は、資産を持つ人自身がその資金を“運用”することにばかり気を取られ、その“見返り”を求めすぎて、貧困層や僻み体質の他者に対する不信感から来る。貧困層もまた、自分の資産の無さを嘆くばかりで、必要以上に対価を求めすぎている事に気付いていない。どんなにお金があったとしても、物質的なモノ以外信用できない様では、誰も救われないし、どんなに大金が手に入っても、心が満たされる事はない。共産主義は、そこんトコの“解決策”の一つでしかない。みんな“平等・均一”という価値観を、物質的、あるいは具現的に限って実行しようとするから間違えるのであって、個々のレベルや事情に合わせた“解決策”を模索しない限り、必ず失敗する。中国の共産主義はある意味、少数民族を強引に抑え込む事で、主体となる民衆の不満を遠ざけ、“偽りの結束”によって、成り立っている部分が大きい。故に、かつて周恩来は、やがて来る“崩壊の時”を予見し、強引な政治手法に警鐘を鳴らした。しかし…かつての人民大革命による教育の歪みは、誰一人として修正されることなく今日まで及んでしまった。これが、日本近海での密漁尖閣諸島問題、さらにはベトナムフィリッピンでの領海問題などの“根元悪”である。ただし、だからと言って中国政府そのものが悪いというには、若干問題が違う。そう、中枢部と地方末端の組織で感覚がズレているからこそ起きる問題なのであり、中枢の幹部がどんなに部下の指導を行っても、喉元過ぎれば…ってヤツである。それだけ、民衆は自分“以外”の存在を見るコトができないくらいに疲弊してる事に気付かないほど、政治と民衆がかけ離れてしまっているのである。日本もまた然り。

閑話休題。要するに、選挙をせんでもいいのにやるのは、その裏にある“個人的危機感”がそうさせるのであり、また、マスメディアは、民衆が混乱する様をスクープせんがために、こういう事を風潮するトコがある。情報公開といっても、肝心なトコを公開しないのは、勘違いするバカが多いからこそであり、過度な不安を煽ってパニックになる事を防ぐためであり、また、しょうもない理由で振り回されている“真実”に、自分自身がやり場のない怒りで狂うのを避けるための“方便”である。時として、嘘を吐く事も必要である。だけど、それに対していちいち目くじら立てて怒鳴る様では大人気ない。維新の党の共同代表が、いわゆる“公明党憎し”で衆院選に出る様な事を言ってるが、府政・市政を投げ出して、国政選挙に出る様なエエ加減な人物が、今まで地方行政の長だった事の方が、大阪府民や大阪市民に対して失礼千万。それでも憎むなら憎めばいい…自分の責任でスクラムが崩れたのを、他人の所為にしてる様では、どんな最強のラグビークラブのトップスター選手であっても、故に新設の弱小チームにボロ負けする事になる…“One For All All For One(一つは全てに通じ、全ては一つのため)”とは、まさに、自分自身の愚かさが、せっかくの構想実現の“邪魔”になる事を意味するw 個別的な恨み言を政界に持ち込んでいる時点で、お察しである。だからこそ、敢えて言おう…代議士の名を騙るなら、万民の“奴隷”であれ。万民の“生贄”であれ。自分の使命に忠実になれない者は、“国首”の本意を知らずに玉座に座る“愚か者”である。さて、これから選挙活動のための準備をしますかw