迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

ガキだな…

ここんトコ、世界のあっちゃこっちゃでイスラム原理主義を唱えるバカが、学校を襲撃したり、カフェに立て籠ったりしてる様だが、イスラム教の理念を利用して、やってる中身が盗人猛々しいのはこれいかに?ぶっちゃけ、どこまで“宗教”の理念や教義をバカにしてるよ?言っちゃなんだが、宗教そのものは、あくまで共栄共存の哲学であり、宗派や地域による概念の違いはあれど、共通認識に“未来を見据えた”概念の下に、信徒の研鑽と修行がある。それを無視して、単にマスメディアの報じる“理想像”にダマされ、暴力を振るう様では、真面目な信徒や宣教師に失礼なこと。では、なんでこんなことが繰り返されるのか?

およそ20年前に起きた、いわゆる“オウム事件”関連の騒動…その発端は、実は、一部のマスメディアが彼らを取り上げ、担ぎ上げた事から始まる。それは、どうしても創価学会を潰したいという、他の宗教団体や政治家の意図が見え隠れしてて、創価学会と同じように、異端なる存在として叩くための下準備をして取り上げた…と考えていい。しかし、創価学会と違って、オウムには、基礎となる宗派・戒律が曖昧過ぎた事と、教祖自体が社会に対して強い恨みを持っていた事が、事態が明後日の方角へ向いてしまうことになる。つまり、当時の創価学会は、あくまで日蓮正宗の在家信徒の集団であり、また、宗教法人上は東京都に本拠地を構える宗教団体として認められた存在である。(学会恨むなら、当時の鈴木東京都知事を罵りな…彼が下した判断だからなw)逆にオウムは、そういう経緯もないまま宗教団体として設立したトコがあり、しかも、詐欺紛いに近いような勧誘を行っていた。(空中座禅とか、ハルマゲドンとか…あ、ちなみにオイラも、空中座禅はできる…胡座かいたまま腰を勢いよく上に振れば、簡単に飛べたりするw)だけど、その頃から優秀な頭脳や技能を持つ若年層は、この“イカサマ奇術師”の行動に興味を持ち、やがて賛同し、そして…あの事件へと走る様になる。あの当時から…否、その前の“あさま山荘事件”よりも前から、一部の大学生には“世間知らずな正義”を振りかざすバカがいた訳で、それを諌める術を、大人たちも持っていなかった事が、悲劇を繰り返す一因になってると考えられる。要するに、以前から散々やってるように、若者が社会の中で何か行動を起こしても、それを真っ当に評価してもらえないと勘違いしてるからこそ、それに対する逆恨みが、テロやバスジャック等の重大事件に発展する訳である。要するに、自分の“思い通り”にならないのを、自分ではなく“他人”…言い換えれば、社会そのものが“悪い”と断罪する訳で、その“拠り所”として、宗教哲学を悪用する訳である。言っとくが、宗教が教えるのは、人間らしさの追求であって、他者の排除や撲滅を求めるような概念は、むしろ“後付け”解釈でしかない。違いを認め合い、互いを支え合う為に、信頼関係を築くための教義であって、そこを履き違えて侮蔑するような態度をとってはならない…と、どこの宗派でも最初に教える事である。が、ここを勘違いしてる以上、どんなに教義が素晴らしい宗教団体であっても、理解されないどころか、むしろ、色眼鏡で侮蔑する人たちの思惑通りな集団になり得る訳である。つまり、オウム系宗教団体が、今でもテロ組織として公安委員会から監視され続けるのは、この“カルト異端”と見做す連中の手中で踊らされた結果であり、もしも、毒ガステロや信徒撲殺などの重篤な犯罪行為をやっていなかったら、他の宗教団体同様に、周囲から“キモい”と罵られても、存続できた可能性がある。あ、ちなみに言っとくけど、宗教団体は大なり小なり、公安委員会からなんらかの監視を受ける対象であって、いわゆる右翼団体や零細政治結社指定暴力団同様に、警察や自治体の行政指導を受ける事は、日常茶飯事ですよ、単にマスメディアが報じないだけで…w

つまり、クリスマスの時期にイスラム教徒を名乗るテロリストが暴れるのは、単に“リア充爆発しろ”である。要するに、自分が不幸なのは不公平だというガキっぽい理由で、女性や子供、さらには身障者や高齢者を襲う訳である。“Do they know it's Christmas?”の歌詞ではないが、自分さえ幸せなら、なんでもいいというなら、なんで他の人を襲って、その幸せを奪う権利がある?(歌詞の一部を和訳すると、「君がその犠牲者の中に入ってなくってよかった」と叫ぶ部分がある。が、これは、単に“綺麗事”だけを歌詞にするよりも、“冷酷な真実”を突きつけることで、本当の慈善とは何かを考えて欲しかった…いう意図があった。)自分が幸せになるために、他人の幸せを奪ったり、将来を否定する権利は、誰にもない。だが、テロをやってる連中は、自分たちの幸福を“否定された”という勘違いから、なりふり構わず暴力を振るうのである。だからこそ、躊躇してはいけない…同じ宗派の者だからとか、同じ民族だからとか、同じ国民だからとかではない。同じ仲間であると認めてるなら、だからこそ、自らが襟を正して叱らなければならない。貴様らがやった行為によって不幸に見舞われたヤツの方が、もっと気の毒だと…特に、将来を嘱望された子供たちを殺す行為は、たとえ信仰上の理由があったとしても、一番許されない行為であると同時に、自分自身が、“ガキ”だと言ってるのと変わりない。そんなに時代の“主役”になりたいのであれば、勝手にどうぞ…世間が誰一人、自分を支持しないのは、あまりにもその世界観が、他者から見れば小さ過ぎる事に気付いていないからである。バカにされるのは別にいいんだよ…その瞬間は悔しいかもしれんけど、後々、そのちっぽけな概念が、自分を苦しめる枷だったんだと気づく時が来るから。罵られたって、自分が思う正義を、きちんと示し続けるために、社会と向き合い続ける根性さえあれば、必ず陽の目を見る時がくる…御金言“法華経は冬の如し、冬は必ず春となる”どんなに凍てつく寒さが続いても、そんなに長くは続かない。巡るべき時か来れば、それを逃さない限り、それに応じた功徳を得られる。自らがそれを嫌った時点で、それは巡ってこないだけ。だからこそ、自分が汚れること、傷つくことを嫌ってる以上は、誰からも罵られないどころか、本当に“いらないヤツ”呼ばわりされるだけ。何度も傷つき、汚れても、立ち上がれる人が一番強い。そして、歴史上の偉人たちは、その多くは当時の世間から“奇人・変人”呼ばわりされた。だけど、本当に“変態”であるなら、歴史の汚点として消されるのがオチである。ガギにはそれがわからんのだよ…自分がどれだけ成長を拒んだかを。