迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

日本の馬事文化・その2…絵馬に込められた思い。

社殿仏閣の片隅に、いろんな願いを込めて絵馬を奉納する場所がある訳だが、そもそも“絵馬”とは何か?それは、日本の馬事文化において重要な話で、特に神社に奉納する生きた馬の代わりに、木の板に馬を描いて納めた事が始まりとなる。では、何でそんな事になったか?
農耕民族にとって、畜力…馬や牛は重要な“農工具”であり、荷役を行う“動力”であり、そして貴重な動物性たんぱく質であった。ま、食肉に関しては、仏教が大陸から伝来する以前と、明治以降の話になるが、一般的には、山間部において木材の運搬や集落間の貨物輸送の為に、馬を利用する事が多かった。(ちなみに、都市部ではむしろ、牛による運搬が一般的で、平安貴族が牛車を用いたのも、馬だといろんな事情があって“使えない”からである…在来馬の体格が小さ過ぎる事も、その一因。)
また、日本において、馬は“神が宿るモノ”のひとつとして考えられていた事もあり、故に馬を奉納する習慣がある。けど…昔の神社でも境内やそこに付随する敷地には限度があり、また、馬が飼えるだけのエサや馬小屋を用意できる訳ではない。当然だが、氏子の中には馬を飼う余裕がない貧困層もいる訳で、奉納したくてもできない。そこで、場所をとらずに、貧困層でも容易に奉納できる術として、絵馬を作ったと考えられる。ちなみに、そのルーツは奈良県吉野郡下市町にある丹生川上神社下社(にうかわかみじんしゃしもしゃ)で、天平時代から白馬と黒馬が奉納され、それが後に雨乞いと晴天を願う度に、馬を用意するのが困難な為に、平安時代以降は絵馬へと変わっていったとの事です。(ちなみにこの神社、2年前から白いポニーと黒い木曽馬が“神馬”として繋養されてますw)
元々は“原寸大”の馬を描いたモノが“絵馬”として用いられたのだが、現在の様にコンパクトサイズになったのは、実は江戸時代から。そして、バリエーションが豊かになっていったのは、実は室町以降の話。それ以前は、馬以外の生物が描かれたり、余計なオプションが付いたりとはしなかった。むしろ、江戸以降は一般庶民にも、絵馬の存在が広まり、いつしか様々な願い事に合わせた絵馬が登場する様になっていった訳である。だから、平安時代の人が見れば、馬以外のモノが描かれているのは、ある意味“痛絵馬”なのであり、今でいうトコの“痛絵馬”は、むしろその進化の果てにある存在と言って良いだろうw

余談だが、日本の在来馬が小さいのは、山岳地帯に適応した進化であって、大半のポニー種は、その原産地が島国で急峻な山地を有してるトコなのは、同じ理屈。ま、あの馬体でなきゃ、平家物語に書かれている有名な、“鵯(ひよどり)越一の谷の奇襲”を馬でやる事は不可能になる。この件については、また次回にでも…