迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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もしも阪神競馬場が、鳴尾浜のままだったなら?

桜(ソメイヨシノ)の時期も過ぎて、そろそろ大阪では、造幣局桜の通り抜けが行われる時期になろうかとしてるが、今回は阪急と競馬の話。タイトルと、さっきの言葉で“はぁ?”と、思われた方も多いだろうが、これは、阪神競馬場そのものの数奇な運命と、阪急の一般的な“ブランドイメージ”とは無縁の様に思えるかもしれない、ギャンブルに纏わる話である。先に、ざっくりと阪神競馬場が、現在の仁川にできた経緯から…
阪神競馬場そのものの歴史を繙くと、その昔、今の鳴尾浜に競馬場が二つあり、通常の競馬と、トロッターレース(競駕競走…ま、ぶっちゃけると、馬車のレースw)専用のコースがあり、それらを総じて“鳴尾競馬場”として、運営したのが始まりである。途中で、所有者であった阪神電鉄甲子園球場を作る以前に、ここの内馬場に球場を作り、現在の高校野球を開催した訳である。で、戦時下に旧日本海軍が軍用機のテスト飛行用の飛行場として接収し、その移転先として、逆瀬川周辺のゴルフ用地を候補に挙げた…が、終戦後に米軍(GHQ進駐軍)がこの土地を、兵士達の慰安用のゴルフ場として接収されてしまい、更に、元々の地権者がゴルフ場として再開させる計画が立ち上がった為に結局頓挫し、その代替地として選ばれたのが、現在の地…という訳である。更に面白い話をすると、その土地というのが川西航空機…現在の新明和工業の工場跡地で、現在拡張された部分も、実はこの会社の工場跡地。ぶっちゃけ、飛行機とは無縁とは言えない競馬場だったりする訳であるw
さて、なんで鳴尾浜から仁川に移ったかは、ざっくりと説明した訳だが、何で元の場所での再開を断念したかと言えば、ひとつはGHQからの指示で接収された(軍用地扱いだった)為であり、もうひとつ…これはオイラの推測なんだが、阪神電鉄が競馬を嫌った可能性がある。つまり、競馬に関して企業的な“マイナスイメージ”しか思い浮かばなかった可能性があるって事だ。その証拠に、GHQから用地が返還された後、鳴尾浜周辺の再開発の折に、今のダメ虎二軍球場…もとい、阪神タイガースの二軍が使用する球場と、武庫川女子大、および付属中・高の施設に生まれ変わった事を考えると、大凡の見当が付く。まして昔、西宮市には西宮北口(西宮スタジアム…現在の阪急西宮ガーデンズ)と甲子園球場の近隣(現在のららぽーと甲子園)に競輪場があったのに、真っ先に廃止になったのは阪神沿線の甲子園競輪場だった。相対して阪急は、なにげに“ギャンブル好き”なトコがあり、神戸線今津北線沿線に競馬場が二つある…そう、阪神競馬場と、園田競馬場である。いずれのスタンドも、実は阪急電鉄の子会社が施行・管理を行っていて、そもそも、阪神競馬場自体も、JARが土地の所有権を有してても、中のテナント(売店)は、殆どが阪急の子会社が入っている。まして、かつては馬場内に会員制ゴルフクラブのコースを設置してたんだが、この運営も阪急の子会社がやっていた。(ま、昔から阪急は、宝塚市周辺の開発に躍起になっていたトコがあるのと、阪神と違って、本当は“庶民派”を目指してたのに、宝塚歌劇の影響で、どうしてもイメージが…w)

仮に、もしも鳴尾浜に競馬場が戻っていたなら、阪急杯ではなく、“阪神杯”になっていたとは思うけど、そうなると、現在の阪神カップと紛らわしい話になりかねないw まして、近鉄と相互乗り入れをやってる加減で、ひょっとすると“近鉄杯”なるレースも設定されていたかも…ただ、近鉄の場合、実は京都競馬場に関する“因縁話”的なネタがあるのだが、そこ件については、また今度w