迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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なぜMBSは関東のGⅠレースを自社スタッフで中継するのか?

去年の凱旋門賞実況中継や、年末に放送された“新アナライズド”を聴いてたリスナーとTwitterでやり取りしてた話で、MBSは関西の放送局なのに、なんで中継スタッフを派遣するのかという話が出てきた。無理もない…関西広域のラ・テ兼営局というイメージしか、今の若いリスナーにはないが、古くは、西日本エリアを広くカバーする程のラジオ局であって、現在の様に日本中に民放ラジオ・テレビ局がなかった頃において、MBSの役割は、結構広範囲のリスナーの為に、様々な情報を発信する報道機関だった訳である。そして、今でこそラジニケにその座を譲ったとはいえ、元々はJRAから西日本における公式場内実況を任された経緯がある。
以前にも説明したが、MBSの競馬中継の歴史は、その前身であるNJB新日本放送が開局した翌年…1952年(昭和27年)の日本ダービーの実況中継まで遡る事ができる。当時は競馬法独占禁止法の加減で、国営競馬の名の下で中央競馬が行われていた時代であり、あくまで関西の競馬ファンにダービーのレース実況を…という観点での話である。(というか、スポーツ中継のコンテンツ不足による、一種の“実験放送”的な部分もあるんだけど…)この当時の実況担当は梅沢二三男アナで、恐らく草創期の頃ですから、NHKからの移籍か、元々京都か鳴尾(現在の阪神競馬場に移設される以前にあった競馬場)で、実況していた経験があって採用されたと推測されます。(この件に関しての詳しい経緯は、後日調査しておきます…)そして、その実況から11年後の1963年(昭和38年)、待望のレギュラー放送として、競馬中継を行う様になったのですが、その期間はたった2年2ヶ月…要するに、世間から競馬が“社会悪”の様に罵られる様になった事から、一時は完全撤退を視野に入れた、単発での放送へ逆戻りします。しかし、1970年(昭和45年)に、当時土曜日に放送されていたワイド番組のコーナーとしてメインレースの中継を行う様になり、そして翌年の秋改編で、日曜日のレギュラー放送が再開される様になります。そして、1975年(昭和50年)には、件のワイド番組が放送終了したのを受けて、その放送枠を競馬中継に切り換え、80年代においてMBSの週末のラジオ編成は、ある意味“競馬中心”といった様相になります。
実は、この頃までJRAからの依頼で、午後からの場内実況を請け負っていた訳であり、同時に、MBSの競馬実況アナは、徐々に数を減らす事になり、美藤啓文アナが入社する1980年(昭和55年)には、実質、蜂谷アナとその師匠である高木良三アナだけになってしまいます。(その最たる原因が、平松アナの“有馬での失態”なんだが…)その事から、公式実況をラジニケの大阪支社スタッフに移管し、MBSのアナウンサーが場内での実況をやらなくなった訳ですが、それでもMBSに頼るトコがありました…そうです、競馬ブック(松井総業)です。
というのも、競馬ブックでは競馬新聞や週刊誌だけでなく、関西の競馬ファンに対して、いわゆる音声ムック(カセットブックとかCDブックという類の音声ファイル集)を毎年、作ってました。この実況音声を、MBSに依頼してた訳です。現在でも、週刊競馬ブックMBSの競馬中継スタッフによる取材コラムが掲載されているのは、統一される以前からの名残で、元々は西日本エリアで発刊されるバージョンにのみ掲載されていました。(その代わり、東日本版では掲載されていた長岡アナのコラムとかは、割愛されていたw)この時、現在程重賞競走もなかった事もあり、また、GⅠレースも八大競走と中距離線だけだったんで、それを纏めるにも西日本のレースだけでは足りない事もあって、関東のGⅠレースも加えていた訳です。言ってみれば、MBSの代わりに音声ファイルのムックの製造・販売を、競馬ブックが引き受けていた訳です。
言ってみれば、MBSの競馬中継の歴史において、関東のGⅠレースを自社スタッフで行う事は、結構古くからやっていた事であり、また、今でもそれが継続されている背景には、その伝統を守る事と、ラジニケ以外での音声ファイルを保存する意義があって、こういう事を行っている訳です。とはいえ、FNS系列の競馬実況アナの様に海外競馬にホイホイ行ける程人員がいる訳ではないですし、現在、競馬専門で動けるのは来栖アナだけですから、海外遠征が増えれば増える程、単独でのスタッフ派遣は難しくなるとは思いますが…