迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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競馬を愛する語り部達…vol.19:甲子園球児から競馬博士へ・松本暢章

前回更新でKBS京都の話をしておきながら、今回はKTVのアナの話ってどうよって思うかもしれないが、この人自身は、もっと大変な目に遭った、黎明期の民放のドタバタを語る上で、重要な人なのです。特にKTVの開局だけでなく、実はCRKの開局にも立ち会い、そして、KTVに在籍する競馬実況アナの“開祖”と言える存在…松本アナの話。本家のネタでは、2005年の3月に、かつてCRKの“帝王”として君臨した、奥田博之アナの特集の“オマケ”としてやった(http://d.hatena.ne.jp/strayhorse/20050317/1111068648)んだが、ちょっと腰を据えてやっておこうかと思う。
今でこそ、大阪府天王寺高校は、進学に特化した様な公立高校なんだが、かつて…60年以上も前、旧制の中学から高校へ変更となった頃、甲子園に出場した経験があると言えば、ちょっと驚くかもしれない。しかし、1948年(昭和23年)の夏の甲子園に、大阪代表で出場してるのである。その地区予選で、天王寺高校を甲子園へ導いた立役者が、当時レフトにいた強打者こそ、松本アナ本人である。しかし…甲子園では緊張のあまりにチャンスに打てず、初戦敗退となった。(当時の優勝校は、旧制時代からの連覇となった福岡・小倉高校。のちに、駒大苫小牧が2005年に連覇達成するまで、50年以上、夏の連覇はなかった。)しかし、その功績から、関西学院大学へ進学後およそ2年間、学生しながら、母校の野球部監督をやっていたという。
その関学在学時代、創設したての放送研究会に籍を置き、大学野球での実況や様々なナレーションをやっているところを、開局準備中だったラジオ神戸…現在のCRKラジオ関西のフタッフにスカウトされ、そして1952年(昭和27年)まだ大学に在籍したまま、ラジオ神戸のアナウンサーとしてデビューする事になる。
その後、ラジオ神戸はテレビ放送の免許取得の為に躍起になるのだが、当時の郵政省と、周波数変更の件で喧嘩した事が響き、門前払いを喰らうハメになる…この話自体は、本家のバックナンバー(“我等ラジ関ジェネレーション”アーカイブから読めますw)を読んでもらう事にして、ラジオ神戸単独での取得だダメならと、KBS京都合弁会社“近畿テレビ放送”を創設し、そこに資金協力としてメディア戦略でテレビにいち早く目をつけていた阪急電鉄と、読売新聞社の独走をなんとしてでも阻止したかった産經新聞社が加わり、大阪で2番目となるテレビ単営局としてKTVが開局する事となる。この時、ラジオ神戸に対して、開局後、吸収合併する事を条件に、スターティングスタッフとして多くの人材の出向を要請した訳で、そのスタッフの一人として、そして、KTVのアナウンサー育成の講師として、ラジオ神戸から出向してくる訳である。しかし、のちにラジオ神戸が読売新聞社の“罠”に引っ掛かり、ラジオ神戸とKTVの合併は“御破算”となる。それ以降、名実共にKTVのスポーツアナとして認知される様になる。(ちなみに、CRKの正式名称が“ラジオ関西”なのは、その名残である。)
そんな黎明期、KTVはスポーツコンテンツのひとつとして競馬を取扱っていた訳だが、当時から専門家がいる訳でもなく(当たり前だがw)、そんな中で菊花賞の実況担当がめぐって来た事で、双眼鏡を握ったんだが、それがシンザンの三冠制覇が掛かった大事な一戦だとは、当時、競馬に疎かった松本アナにはわからなかった。そんな状況で実況に臨んでるモンだから終始バタバタな状態で、最後の直線、残り1ハロンから怒濤の追い込みで先行馬を一気に差し切った瞬間、そのあまりにも衝撃的な光景に興奮を覚え、声がひっくり返ったという。けど、この経験が、のちにKTVにおける“競馬博士”という地位を確立させるきっかけとなる。あ、そういえば、数ある実況の“失敗談”のうちに、こんな話がある…それは、出走取消になった馬と同じ馬主が所有する馬がレースで勝った為、チグハグな実況になってしまったんだが、その原因が、JRAの手違いで、事前の報告を怠った為に、誰一人として出走取消を把握できてなかったという、笑うに笑えない失態があったそうで、それ以来、出走取消や発走除外などのアナウンスを行う様になったんだとか。
開局当時から不定期で競馬中継をやっていたが、いつ“消滅”するかわからない、不安定な時代が続いてた。しかし、1959年(昭和44年…ん?確か、武豊騎手が生まれた年だよなw)の春改編時に、当時のKTVの専務が英断を下した事によって、毎週日曜のメインレースの時間帯を中継する事が決まった。その理由は、カラー映像コンテンツの充実を図る上で、一番適したスポーツコンテンツが、競馬だった事にある。というのも、ご存知の通り、馬そのものは地味でも、鞍上の勝負服はとてもカラフルで、しかも枠帽(日本の競馬は枠順によって帽子の色が違うが、海外では勝負服に合わせたデザインになる)の色と相まって、カラー動画のチェックにうってつけだという理由が、そのまま採用されたのである。その時、競馬中継のスタッフ刷新が条件となり、その桜花賞の実況を杉本アナに託した。それ以来、番組内ではレースの解説と予想を行う“競馬博士”という名のご意見番として、後輩達の育成に取り組んだのである。
杉本アナの話が出て来たんで、ここでちょっと、杉本アナの件で補足しておくと、関学の先輩として、ちょっと気になる存在として見てたらしく、また、中学の時に“夢”を断たれた事からアナウンサーになりたいと願っていた事を知って、それなら…と、人事に口利きをしたらしく、就職浪人中も、結構面倒を見ていたそうで、その縁で、競馬実況を引き継いだ訳である。もしもその“出逢い”がなければ、杉本アナが今の地位にいなかった訳であり、ひいては馬場アナや石巻アナ、岡安アナなどの後進達が、その背中に憧れを描く事もなかっただろう。しかし、若かりし頃の無茶が、晩年に祟ってしまい、60歳になる前後ぐらいから体調を崩す様になる…そして、杉本アナが定年になるのを見届けるかの様に、1998年3月、65歳でこの世を去った。

どこまでもスポーツをこよなく愛し、生涯現役のスポーツアナとして貫かんとしたその思いは、杉本アナの今の生き様に引き継がれた部分であり、また、馬場アナが見習った部分でもある。そして、かつてのCRKでの競馬中継が、現在の形式(MBSからのサイマル)ではなく、単独で中継を入れていた頃には、そこに在籍していた山田健人アナに、競馬実況に関するアドバイスを行ったという。KTVだけじゃなく、CRKにとっても、その礎を作った偉大なる先人である事には変わりない。