迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

興行と八百長

今回は、公営ギャンブルに限らず、興行競技には、どうしても付いて回る“八百長”に関する話。頭の悪いマスメディアは、兎にも角にも“八百長イカサマ”といった感じでギャンブルを叩く事が多いが、そもそも現在のスポーツは、諸般の事情によるルールが変更された上で今日に至る訳であって、本来であれば、競技者の“生命を絶つ”まで行う事こそが“正式”なルールである。特に格闘技や剣術は、闘技場において血みどろの戦いを行う事がスジであり、競技中に死者が出ても、本来のルール上“問題ナシ”な話である。故に、闘技場は重罪を犯した者に対する“処刑場”でもあり、勝ち進まない以上、生き残ることはできないとされていた。しかし…興行の度に死者が続出するのは、競技レベルの低下や競技者人口が不足する事を意味する為、それを防ぐ為の規定として、時間制限や防具着用、更には審判による判定で勝負を付ける形式等が取り入れられ、それが定着した事によって、競技者人口や技能向上へと繋がっている訳である。つまり、そもそもの“八百長”とは、ガチンコの死闘を避けて、永続的に興行として確立させる為に必要な“お約束事”だった訳である。
では、なんで“八百長”が“けしからん”という風潮になったのか?一番の理由は、観客側から見た時の“公平さ”が欠如してるというヤツである。言い方を変えれば、“正義は勝つ”というオーソリティーな概念が、実はそうさせていると言っていいだろう。しかし、真の意味での“正義”とはいったい何か?その“答え”は、自分、あるいは、自分が応援しているモノが勝つ事を意味し、相手や他の存在は、全て“敵”と見做す為である。つまるところ、正義の旗を掲げて戦う者の“敵”とは、同じ様に“己の正義”の旗を立てて立ち向かう相手であり、それを倒さない限り、自分が“正義だ”と叫ぶ権利すら得られない事を意味してる訳である。だから、自分達の間では“正義”の存在であっても、相手側から見れば憎たらしい“怨敵”となる訳であり、それ故に命懸けの戦いに発展する訳である。だが、これが第三者から見れば、戦いの勝敗は、ある意味“どうでもいい”訳で、ただ、血で血を洗う様な戦いは“愉しい”訳である。だから、興行的に見て、どっちの陣営にも勝負に関する機会を平等に与える事が好ましい訳だが、そこの部分で、問題となってくる訳である。
大相撲も、元々は勧進相撲(社寺建立や修繕の為に行うチャリティーイベントとしての相撲)がベースにあり、それを永続的な興行として発展させたのが、現在の日本相撲協会が主催する年6回の場所である。しかし、それ以前の相撲は、まさに命の取り合いであり、喧嘩により近い形式だった。そもそも、桜井市にある相撲神社で行われた古の天覧相撲は、野見宿爾(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)がガチでやり合い、野見宿爾が勝利し、當麻蹶速に止めを刺した(肋骨と腰椎を踏み砕いた)のである。(詳しい解説はこちら…http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/sumo_jinja.htm)真剣勝負だからこその残忍さであり、また、そうしなければ自分が遣られる危険もあった訳である。
つまり、八百長そのものには、卑怯な部分と仕方がない部分があり、そのやり方や有り様が時として問題となる訳である。今年からのF-1開催ルールに、最終節のポイントが倍増になる規定が盛り込まれた事により、一部のファンからブーイングは出た様に、主催者自身がエエ加減だと、八百長そのものが“けしからん”となる訳であり、逆に、ファン投票で上位になっても、体調不良を理由に出走辞退を余儀なくしたキズナジェンティルドンナの陣営に対して“八百長”を疑わない方が、どうかしてるとも言える訳である。もちろん、レース中の故障…特に骨折や心不全発症による予後不良を避けたいと思う気持ちがあって、出走回避の“理由”をファンや関係者にキチンと説明したとしても、その“理由”が“八百長”だと言われれば、どんな競技に対しても、同じ条件…すなわち、参加表明を行った時点で、如何なる理由があっても“辞退不可”としなくてはならなくなる。それによって、選手や競走馬が競技中に死んだとしても、ファンや主催者は文句を言ってはいけない…つまり、“仕方がない八百長”とは、永続的に競技に参加する以上、参加者の健康管理や事故防止の対策を、主催者が請け負えない場合は、参加者自身の判断で行うべきであり、それを見越した上でのマッチメイクを行う事が、主催者の義務となる。逆に、贔屓のチームや参加者を勝たせたいが為の優遇措置をやるのは、“やってはいけない八百長”であり、事情を知らない第三者にとってはともかく、参加者自身がやる気を削がれた試合なんて、誰得な話なんでしょうか?
ともかく、単に“イカサマ”が許せないのであれば、結果を素直に受け止める方が賢明であり、逆に“ウリジナル”みたいな方法で“勝てば良い”のであれば、そのイカサマに対する“代償”を、
どこかで払わなければならない。それは、何を意味するかは、当事者以外わからない…が、確実に言えるのは、“虚しい勝利”が良いのか、“納得の敗北”が良いのか、それによって答えは変わるという事である。