迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

報われないのは誰のせい?

とあるアンケートで、若年層の3割が、今の自分は、どんなに努力を重ねても“報われない”と感じるという答えが返ってきた。ま、無理ないねw なにせ、今の高齢者の殆どが、今の若年層だった時代に、同じ様な事を考え、愚痴って、その挙句、国益や将来を無視して大暴れしたからね。そうやって勝ち得た“自分の利権”を、そうやすやすと自分より若い世代に譲るとでも思うか?そんな事する訳ねぇじゃんw せっかく、長い時間掛かって“勝ち得た”自分たちが“主役となる時代”だから、自分以外の存在なんぞ、奴隷…否、都合のいい“妖精”みたいに感じる訳よ。だから、自分の我儘が通じない事が、一番嫌なのよね。でも…ちょっと考え方を変えれば気づくと思うが、同じ過ちを繰り返さないようにしようと思ったら、まず、自分たちがやってる行為が、いかに“稚児こい”事かに気付かなきゃならんのだわ。要するに、自分の思い通りにならない事に憤懣を覚えたとしても、それを甘んじて受け入れなければならない時もあるってことに気付かないと、それ故の恨みを、自分より若い世代や目上の世代から買っちまう事になる。いつの世でもそうだが、しょうもない理由で衝突が起きると、それが連鎖して世界規模の大騒動になる。本当に、最初は単に自分と他人の小競り合いなのに…

根本的な話、本当の“幸福”とは、自分自身の心に充足感を感じるか否かである。どんなに大金が手元にあったとしても、どんなに身体能力が他人よりも優れていたそしても、 自分自身の心…精神状態が“虚しい”と感じている以上、何の意味もなさない。どんなに他人が羨む様な地位であっても、どんなに人徳に恵まれていても、自分の心が孤立してると、すべて無駄になる。その逆を言えば、金欠でホームレスでも、自分の居場所がある限り、その状況でも満足するし、他人から“変態”と罵られていても、かまってくれる人がいる間は、決して孤独ではない。さらに、なんの取り柄もない人であっても、楽しみにしてる事へ参加する事が生き甲斐になってる人は、それだけで充分な才能を養うことができる…自分の心に素直になれる人は、他人から見て、どう頑張っても波乱万丈にしか見えない人生でも、その中で懸命に“生きる”事で幸福を勝ち得ているから笑えるのであり、そして、おおらかになれる。平凡で退屈な事が“幸福”とは限らないし、人それぞれの生涯であるから、様々なケースがあって当然。それを認めるかどうかは、自分次第なトコと、相手次第なトコと、常に二面性がある。

“報われない”と感じる最大の理由は、自分があれこれ“良かれ”と思ってやった事が、なぜか“否定”されていると感じるからである。でも、それはとんでもない勘違い…努兄曰く“最後は“情”だけが残る”…即ち、どんな施しも、それが“当たり前”になると、感謝の気持ちすら薄れるからである。ぶっちゃけ、毎回毎回“ありがとう”と言い続けることが、“マンドクエ&照れ臭い”になる訳である。言う方はともかく、受け手側が自分にとって“当たり前”な事に対して、感謝を述べられると、すごく恥ずかしく感じるからである。さらに、同じ事が繰り返されると、ある種、機械的な流れになる。こうなると、感謝を述べることを省略しがちになり、ある時、その“当たり前”が途絶えると、急に不安になったり、今までの事を棚に上げて、ついつい相手に攻撃的な態度を取ってしまう訳である。その“当たり前”を取り戻そうとして…ここが問題。当たり前な事が、実は“特別な事”だと気づかないうちは、この“勘違い”を治す事はできない。それどころか、余計に事を拗らせる事になりかねない。しかし、様々な変化に対応できる人は、故に寛容になれる。仏教が説く“諸行無常”とは、単に儚い事を指してるのではなく、一瞬一瞬、変化に富んでいる事を自覚させるための方便。何をやっても“報われない”と感じるのは、今という時間も所詮は“過去”と“未来”を結ぶ一端でしかない…それがわからないから、眼前の“結果”のみに捉われ、未来への展望を捨ててしまう事になる。今の国会審議でもそうだが、眼前の選挙の結果や大臣ポスト等を気にし過ぎて、本来やらねばならぬ課題をやろうとしない時点で、誰が選挙に行って、まともに一票を投じると思うか?コレと全く同じ。自分たち自身がやるべき事が、キチンと自分で理解できず、そして目の前の結果に捉われ過ぎて自分を見失えば、当然だけど、過去の因習が基で起きた出来事に対応もできなくなる。

常に“自分”を見失わない人は、どんなに報われない事をやり続けてたとしても、それがどこでどうなるか、ある程度の予測がつく。その予測が、全く見当違いであっても、最終的には“バッドエンド”になることはない。どんなに他人が“幸福”そうに見えても、その“裏側”を知れば、それが本当に“自分が目指す幸福”なのか、すぐに気付く事ができる。どんなに才能がなく、バカにされ続けても、それが本当に評価されるのは、自分が最後まで集中してやり続ける事ができた時である。俗に“継続は力なり”という言葉があるが、バカげた事でも、持続して集中できること、そして、どんな意見でも、その取捨選択を誤らない限り、やがて世間の方から自分という“存在”の大きさに気付いて、本当の意味で“報われる”時が来る。そのタイミングが、他人より早いか遅いかだけであり、誰でも等しく、その“因果応報”の理を受ける事ができる。それでも、自分が納得できずにウダウダ言ってるから、自分勝手に閉塞感に苛まれるのである。その結果、本質的な救済の手を払いのけるわ、自分の意に沿わないものを排除しようとするわ、自分の価値観以外を認めないから他人の評価を批判するわ…とにかく“破壊衝動”に“負ける”わけである。こうなると、誰も報われないから、次第に魂と身体、そして様々な繋がりがバラバラになって、最後は自分が抱え持つ闇に飲み込まれ、満たされないまま朽ちていく事になる。その“自分勝手な閉塞感”を打ち破るのに、どれだけの勇気、度胸が必要か?

抱え込んだ“モヤモヤ”は、よっぽどでない限り、他者がどうにかできるモノではない。だけど、自分自身が自分を見失わない限りは、必ずそれは取り払う事ができる。もしも、自分という“存在”を見失った時は、過去の自分に問い質せばいい…どうにもならない時に、誰がそこにいたか、それを思い出した時、もう一度、自分を取り戻せる“きっかけ”が生まれる。例えそこに戻れなくても、同じ場所で“待っている”人達がいる…手を差し伸べるのか、傷つけるかは自分次第なら、その選択肢を間違えるな。たとえそれが原因で禍根を残したとしても、それは後で必ず帳消しになる。全てが丸く収まる理がある限り、どんな事でも無駄にはならない。どっかで役に立つ以上は、無駄なものなど何一つないのだから。