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迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

他人の事は、笑えませんw

ここんトコ、東京都議会での独身女性議員に対する野次が問題視されている訳だが、これ、考えようによっては、イスラム過激派組織の連中と考え方が変わらん事を意味してる。つまり、女性は下賎で卑猥なる存在だから、社会から排除すべきだと…野次った者は、そこまで考えた上で言ったのであれば、相当な時代遅れであり、もっと言えば、こんなバカに一票を投じた有権者は、次から選挙に行かなくなる事になる…責任を感じてるなら、なおさらな話だ。自分が選んだ候補者が選挙に当選した途端に、自分達を見下す様な態度を取れば、その時点で“議会政治なんて糞だ!!”って思える様になる。自分の“肩書き”があまりにも分相応でないなら、傲慢な態度を取った時点で叩かれるのは当然。まして、選挙の度に有権者に頭下げているのであれば、当選後、ふんぞり返るのは、有権者に対して詐欺を働くのと一緒である。それが行くとこまで行けば、必ず暴力による反乱を引き起こす事になる。これは、どんな時代でも“同じ過ち”であり、その行き過ぎた姿こそ、隣国相手にドンパチやる“戦争”という事になる。

ドイツが第二次世界大戦を引き起こした最大の原因は、何もナチスだけの責任ではない。当時のドイツ国民は、第一次世界大戦の際の賠償で、周辺国から突かれていた。この事に対して堪忍袋の緒が切れたのがそもそもであり、その“きっかけ”となったのが、ヒトラー率いるナチスの政策に対して、ドイツ国民が支持した事である。その事を“利用”しようとしたのが、当時のソ連であり、故に敗戦後、ドイツの“暴走”を止める為の対策として、東西に国を分割した…という歴史を踏まえると、同じ理屈で日本を分割して、ソ連はアメリカへ進撃する礎を、北海道に作ろうとした訳であり、だからこそ北方4島を無理矢理“自分トコ”として開発をやってる訳であり、また、中国の傲慢稚気な態度も、そもそもは現在の台湾がやったことを自分の手柄にして、国民に対して反日教育を行った弊害であり、本来、中国共産党がやった事は、全て戦後の話である。まして韓国の場合、太平洋戦争(日中戦争)では、むしろ日本に協力的だったのに、朝鮮戦争をきっかけに、反日に転じていった訳である。そこにある背景は、全て“日本に対する憧れ”が非ぬ方へと向いた結果であり、それを子々孫々まで語り続けてるモンだから、真実がぼやけてしまった訳である。“正しき歴史認識”というが、一方的な感情で自身を“正義”と叫ぶ事程、愚かな事はない。あくまで、歴史認識を持つという事は、双方向の関係性を、第三者の立場で検証する事が胆であって、片方だけの記録のみを信用する事自体、真実を歪める危険性を孕む。故に、同じ歴史であっても、自分の立場と相手・第三者の立場の、それぞれの資料を精査し、纏めて初めて意味を成す。たとえ、自分が悪くなくても、相手に対して頭を下げ続けなければならない“理由”を、双方がキチンと踏まえてこそ、初めて“謝罪と賠償”の意味が通じる。全てが“解決済み”なのに、未だにそれを求めるのであれば、必ずどこかでそれ故の“代償”を、何らかのカタチで負わなければならなくなる。

創価学会を変態呼ばわりする人程、他宗派の本山とかに行った試しがないのだと思う。ってのは、こないだ、オイラの知り合いと一緒に、天理に住んでる伯父んトコの店(寿司屋)に行ったんだが、土地柄上、天理駅周辺の鄙びた風景に、不気味さを感じたようである。オイラは子共の時から行き慣れた場所なんで何ともないのだが、商店街の寂れっぷりと、“詰所”と呼ばれる、天理教信徒の寄宿舎群を見て、相当“異様”に見えたようである。ま、その話をすれば、他人から見た時の信濃町駅周辺のアレも大概だと思うんだが…他の宗派であっても、こういう“違和感”は存在する。同じ行政区画内といえど、宗派の違いで、その周辺地域の雰囲気は一変する。それを醸し出してるのは、宗教が生活の一部になってるか否かである。観光都市とされる日本の社殿仏閣がある地域でも、繁栄してるトコは景観保持にしろ、インフラ整備にしろ、住民と地元企業、そして行政がタッグを組んで取り組んでるからサクサク進むんだが、寂れてるトコは大概、地元住民が“現状維持”を求め過ぎて、何もかもがグダグダである。つまり、遠方から来訪する信徒に対して、その受け入れをどうしてるかが地域の活気に現れる訳であり、例大祭等のイベントがある時とない時でギャップがあるのは、ある意味仕方ないトコでもある。だから、常に活気ある地域にする為には、その社殿仏閣を有する宗教団体が、如何に周辺地域と“共生”していくかを模索していかなければならない…それを存外に扱う宗門なんぞ、むしろ周囲から嫌われて当然。門前が寂れた社殿仏閣は、どんなに広大な寺院や境内でも、ただ単に不気味なだけで、活気がない分余計に哀れだ。逆に、ひっきりなしに信徒が集うトコは、普段が見窄らしくても、周辺の活気がそれらを全て払拭する。だからこそ、賑わいを嫌うのであれば、それ故の不便は承知の上で生活せねばならない。利便性ある都市部にいると、生活音が気になり鬱陶しいと思ってはいけない。生活環境の違いが耐えられないのであれば、他人の生活様式を憧れる必要はない…そんな事を知らずに、自分の価値観のみを他人に強要する様な態度は、幼いとしか言い様がない。