迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

オリンピックは“無血戦争”の別称…

平和の祭典と称されてる割に、結果に関して国家間の諍いの火種になりやすいオリンピック…そもそも、古代ローマ時代の“オリンピック”とは、都市間の“軍事演習”の場であり、その会場として、オリンピアという都市の競技場で行われた事が転じて、様々なスポーツの総合的な国際競技の場に変化した歴史がある。故に初期の頃は、軍事訓練絡みの種目が登場してる訳であり、第二次世界大戦直前に開催されたベルリンオリンピックから採用された聖火リレーも、その裏事情は、ナチス軍が侵略を行うルートを作成する為に行った…という“云く”がある。(実際はどうだかわからんがw) しかし、重要なのは、世界規模の戦争…というより、欧米諸国の大半が戦渦に巻き込まれる危険がある時は、オリンピックは開催されない訳であり、今すぐに欧州連合とロシアが、あるいは、日本と東アジア諸国がドンパチをやり始めたら、次回開催予定のオリンピックは、即刻“開催中止”になる。なんでそうなるのか?

それは、オリンピックが“国際大戦”の代理であり、本当の戦争が起きれば、むしろそっちの方が白黒をはっきりさせる事ができる…という概念がある。しかし、戦争とは誰しもが保有する、様々な“才能”を無視する事ができる行為であり、どんなに芸術的な才能があっても、それが結果に関係無く、単純に生きるか死ぬかだけの価値観のみで決着が付くからである。だから、戦争において、事前の破壊工作が重要になる…何も建物や機械を潰す事が全てではない、破壊するのは歴史的遺構であったり、指導者と庶民にある信頼関係であったり、文化や風習等、戦争において“人間性”そのものの破壊こそが主眼に置かれるから、まさに多種多様である。

だから、戦争の“きっかけ”として、オリンピックの結果を“理由”にする事もある。特に内紛の多くは、それこそ“オラが村の代表”が評価されなかったからという、何とも子供染みた事がきっかけで、大事になるのは、世界では日常茶飯事。ウクライナのとある選手が途中棄権をした“理由”も、国内の内紛を“理由”に、“国の代表”として競技に参加したくないというヤツであり、また、かつて共産圏での開催について“西側(アメリカを中心とした民主主義国家)”諸国が、アメリカでの開催を理由にソ連(現在のロシア)を中心とした“東側”(社会共産主義)諸国が、それぞれのオリンピックへの参加を拒んだ。こういう経緯を考えると、とてもじゃないが“平和の祭典”とはいえない。

本当の意味で“平和の祭典”を謳うのであれば、どの競技であっても、参加する選手に所属する国旗を掲げる事はやってはいけない…選手同士はあくまで、国際的な競技大会として、純粋に競技に参加して、その勝敗を“楽しんで”いるのに、そこに国家思想が加わった状態で挑んでると、勝ったら勝ったで今まで無関心だったのに、急に英雄扱いしてチヤホヤするクセに、負けたらそれこそ“国賊”の様に批判し見下す…こんなんで、競技人口が増える訳がないし、次の試合でもやる気が削がれて結果が出なくて当然である。ぶっちゃけた話、結果ばかりを求めて、その経過や努力をバカにして支援しないのであれば、当然ながら参加者がシラケる訳であり、自国の選手やチームを勝たせる為に、審判に八百長を助長させる様な行為をするのは、全ての競技者を侮辱する行為である。当然だが、主催国有利の条件を開催組織に要求した時点で、それは開催候補地から除外されるのがスジであり、仮に、それがまかり通って、しかも主催国以外は初戦敗退といった展開になる様に仕組まれた大会なら、国際大会としてやる意味がないし、ついでに言えば、自国の競技者をバカにする様な行為でしかない。

純粋な気持ちで競技に臨んでる人達を、一番侮辱してる人とは、実はこういう時にしか観戦しない一般庶民であり、関心がある競技以外報じないマスメディアである。森喜朗元首相がフィギュアスケートに関してバカな発言をしたと、一部マスコミが嬉々として報じてる様だが、本質をいえば、この発言の“裏”を読み取る事ができない人は、真剣に競技を見てるとは思えない。国際大会でも、オリンピックは他とは異質の雰囲気であり、しかも、その双肩に“日の丸”を掲げている緊迫感は半端ではない。そして、その雰囲気に“負けた”からこその苦言であって、当事者自身はわかってる事…それを単なる“観客”がギャーギャー言うモンではない。まして、フィギュア競技のひとつである“アイスダンス”があまりにも注目されていない事自体が問題であり、そこに目を向けさせる為の“苦言”であって、それができる競技者が、日本のフィギュア競技者にどれだけいるか…そこを踏まえた上で、そこを育成していこうと酔狂な事を言ってくれるスポンサーを募ってるだけの話だ。そこまで深く考える事こそ、今の日本の競技環境には必要な部分である。オリンピック競技の人材の育成には、それ相応の競技に対する技能的、あるいは客観的な理解と援助が必要であり、それをせずに精神論のみで“メダル奪取”を期待する方がバカである。

ほれ、2008年の北京オリンピックにおいて、それまでフェンシング競技に対して、殆ど無関心だったクセに、銀メダルを取った途端に注目したけど、そこに至るまでに、誰が支援したと思う?国や大手企業がやっていないからと、福岡の明太子業者が個人的に支援して、環境を整えた事を忘れてはいけない。そして、そうやってメダリストになった者を“企業イメージキャラ”として雇ったのって、どこでした?ここんトコを忘れて論じないでもらいたい。

話が脱線したが、オリンピックの“本質”を考えると、勝手に期待しない方が選手に取ってもリラックスするし、むしろ“こっち見ろや!!”とムキになる方が、結果を残しやすいのだから、無神経に応援する方がバカバカしい。逆に、メダル無しで惨敗という結果を予測して、それが良い方向に裏切られる方が、どれだけ良いか…物事の本質を見抜き、結果に関しては何も問わず、ただ単純に“お疲れさん”と声を掛ける方が、正しいスポーツ観戦のあり方だと思う。ま、ギャンブルでコレだと、ちっとアレだが…w