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迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

アメリカが原爆を日本に落とした理由…

この別館では、本館(ダイアリー)とは別に、かなり硬派な“妄想”を展開する。だから、こっちでは炎上覚悟な内容が多いかと思うが、それはそれという事で…

史実では、日本に原爆投下を行った理由が、ドイツが早めに投降した事によるとなってる訳だが、考え方を変えれば、如何にアメリカが日本を恐れていたかを窺い知れると言えるだろう。つまり、戦力では圧倒的に優位だったハズのアメリカが、強引なまでに原爆を使いたかった本意は、今の韓国政府と一緒で、威厳を誇示する為のモノでしかないという事である。いじめと一緒で、自分が“被害者”にならない為に、自分よりも弱い相手を、さも“悪者”として見下して、その挙げ句、叩きまくる訳である。この構造は、人間である以上、避けては通れない。

しかし、考えようによっては、それこそ、自分自身の弱さを露呈してる様なモンであって、それを使わない限り“勝てない”と勝手に思っている訳である。強大な力に縋るあまりに、周りが見えなくなる人の典型的な姿だ。本当に“強き者”とは、周りを見る事ができる事と、それ故に“棄てる覚悟”を持つ者を意味する。言い換えれば、自分の責任の重さを知った上で、批判を恐れない事である。日本は、戦前から欧米諸国に叩かれていた。しかし、“アジア辺境の黄色い猿”は、その柔軟さと器用さ、そして忍耐強さを武器に、あっという間に白人社会の先進国と対等に…否、欧米諸国よりも進んだ社会制度を確立し、もっとも“豊かな国”へと成長した。(日本人には、その自覚はないが…w)だからこそ、白人共が考える“有色人種=家畜以下”という概念に捉われた考えから、あらゆる“国際規則改定”をやる事で、“自分優位”の社会にしようと必死になった訳であり、それ故の“焦り”が、広島と長崎に放射性物質をバラ撒くという愚行に走った…と考えると、どっちが本当に哀れだったのか、感覚的にわかるのではなかろうか。

敗戦国だからという遠慮で、日本はアメリカに対して、原爆の被害を訴えなかった。だけど、世界中の人々は…少なからずとも、アメリカのやった行為に対して疑問を持った人々は、日本の被曝者以上に大騒ぎをした。その時点で、戦争の勝敗なんてのは無意味な事となる。どんなに戦勝国だと言っても、反則行為をやっての勝利であれば、その最前線にいた兵士達は、その罪の重さを抱えたまま、真実を闇に葬らざる得なくなる。何故なら、自分の“正義”によって、無関係な人々を巻き込んだ真実を語れば、その“正義”は“悪”に変わるからである。真の意味での悪人とは、己の正義の為に犠牲になった者に対し、その屍をも破壊し、完全消去を目論む者である。つまり、都合の悪い歴史を否定する事は、どんな正義であっても無意味である。どんな“黒歴史”も、それは必要な“影”であって、光だけでも、闇だけでも、真実を映し出す事はできない。相手側の言い分と、自分の言い分を合わせたトコに“真実”はある。従軍慰安婦の存在も、戦争がある以上は、どこの国の軍隊であってもその存在はある訳で、それによって潤った事業者もあった事を意味する。その逆として、強制連行(軍部徴用)という事実があったとしても、それに対して国から何らかの保障を受けた時点で、その責任を追及する必要はない。何故なら、自分の“祖国”を守る為に命を賭す事を選んだ末の話であって、また、それに似合うだけの保障を受けていないのであれば、それをキチンと言うべきであって、そういった行為をやっていない時点で、それは責任の放棄ともいえる行為である。

つまり、自分自身が他人から“無責任”と罵られるのが嫌だからこそ、虚勢を張って、他者に好かれようと、いらない努力をする訳であって、そこに縋る者も、自分自身の責任を、全部相手に擦り付けられる事を良い事に暴言を吐くのである。本当の親友とは、相手を想い、傷付く事を恐れない拳を持っている者であり、そして、自分が傷付いたとしても、決して相手を恨まない…自分の咎を正面から受け止められる人こそ、相手を諭す事ができる事を知っている。

結局は、己の心に宿る虚栄心と、傷付く事を恐れるあまりに、実は自分自身の“正義”が傷付いている事に気付けずに、結果、多くの人々が傷付き、倒れる様を見て、自分もそうなる事を予期し、勝手に怖くなる…だから、その恐怖から逃れる為に、必要以上の暴力を振るう訳であり、それを喰らった者は、誰一人として“何も残らない”と思うから、どうにかしようと足掻く。それを無駄と切り捨てるか、それとも成果として残すかは、その“生き様”を見ていた子供の感情次第である。この時に、キチンと態度を示せるかどうかで勝負は決まる。他者の意見を聞かずに進む者は、故に他者が歪んで見える。元からフラフラしてる者は、故に他者の覚悟が羨ましく思える。どっちの意見であっても、自分が幸せになれると信じた以上は、他人に批判されたとしても、自分が相手を批判しない以上は、無視する事ができる。本当は、誰であっても褒めて欲しいと思う気持ちはある。でも、褒めてくれる人の思惑は、それこそ、己心の欲なのか、賞賛なのかはわからない…だけど、それでも自分の想いと相手の想いが重なり合い、信じ合える相手であれば、それが“答え”となる。さて、では“誰”がこんなバカバカしい事を繰り返す様に仕込んだのか?自分の胸に手を当て深く考えてみてはどうだろう。