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迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

本気で世間を変革したいなら…

単刀直入に言えば、自分自身が“変わる”ことに尽きる。特に、固定概念を捨てる事と、自分自身の責任を自覚した上で、行動を起こす事である。言い方変えれば、他人のせいにしたり、他人の意見に何も考えずにホイホイとついて行かない様にすれば、自ずとその“答え”が見えてくる。但し、あくまで“個人的観点”での話であって、全体を変えようと思うなら、それこそ、上質な酒を作るように、じっくりと時間をかける必要がある。

もうすぐ始まる衆院選に関して言えば、この2年で、何ができて、何ができなかったかを考えた時、5年前の衆院選での結果が、何を意味していたかがわかる。急激な変化を求め過ぎて、その反動でgdgdな政治になったのはいうまでもなく、更に、貧富の差が激しくなったと感じたかと思う。けど、要は富裕層が気持ち良く、金銭を使ってくれないからこうなるのであって、貧困層が騒げば騒ぐほど、富裕層は逃げていく…自分の財産を奪われたくないあまりにねw 自分でも考えたらわかるけど、不特定多数のヤンキーに囲まれて、“カネカネサイフw”と恫喝されて、誰が手持ちの財布を緩めるよ?まして、そういう被害に遭いたくないから、その場に近付かなくなるだけで、いつまでも富裕層に対して負担をかけてたら、そら逃げられるわ。で、そういった大口の顧客がいないのに商売しようと考える方がおかしい訳だし、貧困を招いているのは、実は貧困層の富裕層に対する僻みが全てと言っていい。貧しいことを“言い訳”に、自分の責任を放り出している時点で、余計に社会が困窮するだけで、何にもならない。だから、変革に必要なのは、いろんな意味での“貧者の一灯”なのである。

仏法の概念上での“貧者の一灯”とは、貧しくて灯油(この場合はランプや提灯に使う蝋燭)すら買えないほどの貧民が、有り金叩いて僅かな灯油を買い求め、それを仏に供養した真心を意味する。富裕層の信徒があぶく銭で灯油を大量に買い漁って供養しても、ある意味事務的な行動であり、ゆえに、すぐ燃え尽きたり、風に煽られて消えてしまいがちになる。でも、自分自身の意志で、自分が出来る精一杯の事をやった上で灯した炎は、最後まで残った…という故事。言い方変えれば、資産持ちはそれゆえに散財するけど、得られる充足感は一瞬。貧困でも、社会に貢献したいという思いを込めた行動は、どんなにささやかな事であっても、その充足感は無尽蔵。

しかし…昨今の若年層は、富裕層の“偽りの幸福”に惑わされた上に、それを憧れているからどうしようもないw まして、自分たちが貧困なのは、すべて“上の世代”のせいにし過ぎてるからタチが悪い。自分たちが“報われない”のは、先人たちも全く一緒。どんな施しを行っても、それに見合う対価をもらえてないと勘違いしてるから、いつまでたっても報われないのであり、苦しいのである。だから、開き直って、余分な欲望を捨てることも必要であり、小欲知足を学ぶべきなのである。

まぁ…若いうちは、戦隊ヒーロー等に憧れ、いわゆる“正義の味方”がカッコイイと思うから、拙き“正義”を振りかざす訳で、それがいつまで通用するかって言えば、小学校を卒業するまでである。本当の“正義”ってのは、実はとんでもなく“カッコ悪い”モンである事に気づくのは、自分が思う“ヒーロー”という存在が、実は単なる“幻影”だと悟った瞬間である。もっと言えば、自分のクチで“正義”を唱える人ほど、本物の“正義”になる事はない。本物の“正義”ってのは、救済を受けた者だけが、自分に対して施した人に感じるモノであって、万人に受ける存在ではない。どんな“悪人”でも、その意見や行動を支持する人がいる限り、“完全悪”とは言い切れない。しかし…その一方で被害を受けた者は、例え当事者でなくても、当事者が所属する組織の者である事を理由に、あるいは、全く関係のない事案で問題を起こした事を理由に、フルボッコにしたくなるぐらいに“極悪な存在”として見做すのである。同じイスラム教徒でありながら、過激派組織を支持する宣教師と、そんな彼らを“異端”とする宣教師がいるから対立する訳であり、それを利用して“代理戦争”をやっているのが、アメリカやロシアといった先進国…否、白人迎合主義の人々である。ぶっちゃけ、バカバカしい話ではないか。

だからこそ、相手を真正面から見て、受け止められる英知を学ぶべきであり、それに対して老若男女の隔たりを設けてはいけない。当然だが、民族や宗教の違いでバカにするのはもってのほか。自分が本当に世界平和を唱えるにふさわしい人物になりたいのであれば、民衆から嫌われ、罵られる事を恐れない人にならなければいけない。そして、いかなる災いの元凶となったとしても、目の前の人を救済するために命を賭して戦う人でなければならない。だけど勘違いしてはいけないのは、だからと言って、無抵抗な相手をフルボッコしたり、過去の因縁を理由にしたり、とにかく他人から“いい人”として崇め奉られようとカッコつける事である。相手からいらん恨みを買ったとしても、それをも“許せる”人になりなさい…人はどこまでも人であって、神様でも、空想上の魔物でも、妖怪でもない。