迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

一切の事柄は、すべて“自分”に“原因”がある!!

アメリカ・ミズーリ州で起きた、黒人少年を射殺した白人警官に対して、不起訴処分という陪審結果に対する抗議。当事者遺族が不服をいうのはともかく、その周囲が騒ぐ“理由”はどこにある?事件の発端は、窃盗容疑で職質されるのを嫌った当事者が黒人であったこと、そしてその“行動”が過剰防衛を招いた可能性があること…ってことだが、アメリカに限らず、多民族国家であるが故の“民族差別”が根強く、特に白人迎合主義を“正義”とする概念がある以上、こういう問題は頻発するのが当たり前。同じことは、日本の嫌韓・嫌中思考にも繋がる部分であり、中国や韓国の抗日反日感情にもある部分。しかし、根幹的なことを除けば、その“理由”があんまりにも稚児こい訳であり、実態を考えた時、目の前の人間を信じられずに、上辺の情報に惑わされた心理故に、誤解や偏見を招く。この法則、西アフリカの“エボラパニック”と同じ理屈であり、実体験が乏しいが故に、パニックに陥る。

では、どうして“民族差別”がなくならないのか?その最大の理由が“変化”を嫌うあまりの“引きこもり”である。要するに、ニートと一緒で、現状維持を望むあまりに現実を見ず、実情に合わせた行動や提案があっても、自分の“幸福”に固執するあまりに、他者を邪険に思うようになる訳である。様々な風習、文化、生活様式が存在するのは、その地域に根ざした“進化の過程”という変遷がある。しかし、そこを無視して現状維持を訴えたトコで、何の意味もないのは言うまでもない。なぜなら、他者との交流があってこそ“歴史”は正しく刻まれていく訳であり、関係者“だけ”で技術開発ができるというモノではないし、様々な刺激があってこそ、芸術の幅は広がる訳であり、様々な意見や思考が寄り集まってこそ、社会全体が成り立っている。そこを無視して…否、排除して“純粋なモノ”など存在しない。競馬の話をするのはなんだが、競走馬としてメジャーなサラブレッドは、イギリス在来種の牝馬と純血アラブの三頭の牡馬(ダーレーアラビアンゴドルフィンアラビアンバイアリーターク)から成り立つ交雑品種であり、しかも近年はダーレー系の品種が一般的である。言い方を変えれば、より速く走ることを目的とした家畜馬として登場したのがサラブレッドであって、その基礎がタマタマ純血アラブだっただけの話であって、アラブよりも速い脚と耐久性がある品種の馬がいたら、それが今日の“サラブレッド”になっていたかもしれないってこと。ちなみに、“サラブレッド”とは、直訳すると“純血種”という意味になるが、実際は先ほど解説した通り。本当の意味での“純血”を求めるのであれば、それこそ、日本の場合だと野間馬やトカラ馬、木曽馬などの在来種を指すべきであって、もっと突き詰めれば、モンゴリアンポニー(蒙古馬)こそ、アジアの“純血種”とすべきである…もちろんこれは、あくまで極論だがw

人種差別で一番問題なのは、“古い因縁”を理由に罵る事が、いかに自分を“バカにしてる”行為なのかに気付かない事が、人種差別根絶を阻む最大要因であり、特に窃盗や傷害といった、実害を伴う犯罪は、どの人種、民族であっても、共通の“悪事”であるという認識が欠けてはいけないって事だ。ここを無視して“これだから黒人は…“とか、“だから黄色種は…“とか、“日本という国は…“とか、“大陸人の民度が…“とか言う筋合いはない。もっと言えば、自分自身が“その現場”にいた訳でもないのに、歴史上の話を持ち出して騒いだところで、目の前の人を傷つけたり、所有物を壊したりする権利はない。もしも、それを“理由”に襲撃していいというのであれば、必ずその“禍根”は、自分に降り掛からなくても、その周囲で影響を及ぼすことになる。これ、仏法における“四つの罰”の法則で、自分“だけでなら“別罰”で、自分がいる“組織全体”に及べば“総罰”となり、表面上に現れたら“顕罰”となり、後々に影響が及ぶのは“冥罰”となる。以前に解説した“One for all,All for one(一は全、全は一)”と同意の話で、たとえ自分とは“無関係”だと思われる事柄でも、それが総じて自分が所属する組織や故郷の“評価”につながる事がある。この自覚が欠如してる以上、必ず、歴史上における“同じ過ち”を繰り返す…それこそ、過去の出来事を先祖代々、後生大事に訴え続けること程バカバカしい話はない。今を生きる者たちを苦しめてる禍根を断ち切るためには、民族(組織)としての概念と、眼前の諸犯罪は“別問題”として片付けるべきであり、そのためにも、同じ場所の“住人”として、叱る事も、励ます事も、そして、支え合うことが肝となる。習慣や民族性の違いを認め合った上で、共通する事柄に関して、一切の贔屓や差別を許さない…それが、本来あるべき社会の姿なのです。肝心なのは、目の前の“相手”を侮蔑する権利は、何人たりとも有してはならない。そして、何人たりとも、いつ、自分が“原因”で他の誰かが傷つくかもしれないという“現実”から目を逸らしてはいけない。“他人”のせいにしていいのは、過去の歴史における粗相だけ。もしもそこで“因縁”をつけられたとしても、“当事者”でない者を責める筋合いはどこにもない。それでも他人をバカにするなら、それゆえに苦労するのは“誰”なのか…今一度、よく考えた方が良いでしょう。