迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

害獣駆除と自然保護

昨日の記事、最後の一言で誤解を受ける人がいると思うので、その補足を兼ねて…

“害獣駆除”とは、何を基準に語られるべきか?その根幹は、自然界での資源保護…即ち、適正な狩猟と養生が肝であり、安定供給の観点からも、ここを失念して、一方的な保護や駆除は、かえって自然界の食物連射や資源再生の阻害を意味する事になる。言い方を変えれば、過剰な動物愛護や自然保護活動は、却って自然破壊でしかない。

海洋民族にとって、多少の違いはあれど、海獣類(アザラシやクジラ、ラッコなど)は、食糧である以前に、海産物を食い荒らす“害獣”であり、漁場にいたら厄介な存在でしかない。また、甲殻類(特にカニ)は、その爪(ハサミ)で仕掛け網をちぎってしまう“害獣”である。だけど、それを理由に命を奪った挙句“廃棄処分”ではもったいなかったからこそ、肉は食用に、殻や骨は釣具の一部に、毛皮は防寒着や敷布に、油脂はランプやストーブの燃料に、それぞれ活用する事で、無駄なく利用してきた歴史がある。それは、アイヌ民族イヌイットの民族衣装や装飾品などを見れば、すぐに理解できる。彼らの食文化でも、単に狩猟するだけでなく、その後の保全…特に山菜に関して言えば、必要以上の狩りを行わず、採取した山や沢では、翌年は入らない事が暗黙の了解とされた。つまり、欲張って獲ったところで、食べきれずに腐らせたり、天候不順などで収穫量が減った場合などの危機管理ができてない様では、集落を守れないことを意味してた。だから、収穫時期や収穫場所に関して、厳しい管理が行われた上で、できるだけ集落内での不平が無い様、集落総出での狩猟が行われた。これに対してイチャモン付けたのは、集落の外にいた者…即ち、外来の商人たちである。

海洋民族にとって、ある意味“普通”の食材や装飾品は、その内輪にいない者から見れば、奇妙奇天烈なモノであり、また、自分達と“違う世界”であるがゆえに、珍しい“宝物”のようにも見えた訳である。だから彼らは、交渉の際に、相手が本気で欲しがる様な品物との“等価交換”を呼びかけ、それに似合うだけの品々と交易していった訳である。が、物々交換の時ならともかく、貨幣によると取引へ移行していくと、いわゆる勝手な“為替レート”による取引になるため、何も知らない者が取引に応じると、それゆえに不当な価格での取引が行われる様になり、それ故にしばしば、貿易商が生産者と消費者双方から槍玉に上がって叩かれる事になる。この法則、実は今現在でも頻発してる事であり、決して過去の話ではない。それが、宝飾用サンゴやクロマグロ等の密漁や、そこから派生する領海侵犯や、海難事故につながっている訳である。

同じ事は農業や林業でも言えてて、単にイノシシやシカ、クマやオオカミ、サルを狩ってるのではない。草食獣は植物を餌にして生息してる関係上、植林地に入って若木の芽や樹皮を喰われると、当然ながら樹木が育たなくなる。また、雑食なイノシシやサルが、山で食料となるドングリや虫が足りなくなると、必然的に食糧求めて里山を下り、田畑の農作物を喰い荒らす事になる。(オイラの近隣でも、今年、どんだけイノシシが田畑を荒らしたのやら…)牧畜をやってるトコだと、オオカミやキツネの襲撃は、家畜衛生の観点からも好ましくない事であり、また、せっかく肥育した家畜(特に羊や鶏)を喰われる事ほど、腹立たしい話はない。だから、どんなに個体数が減った絶滅危惧種であっても、駆逐する方が好ましくなる。フランス南部で今、イタリアから越境してきたオオカミによる羊が襲撃されて死ぬケースが、畜羊農家の頭を抱える問題になっている。一時、フランスではオオカミが絶滅して、畜羊の数が安定してたのに、ここに来てオオカミの目撃情報が相次ぎ、その原因を突き止めると、そういうことだった事が判明した訳である。しかし、壊滅作戦をやろうと農夫が立ち上がると、それを阻害する存在が現れて、エラい事になっている…そう、件の自然保護団体である。彼らの言い分としては、“自然保護”の観点から、オオカミを増やす事で、他の害獣(特にシカ)の駆除に役立つという事である。しかし、思惑が外れているのに、それを主張し、何も知らない都市部の人々から支持されている事がネックになっていて、殆ど“打つ手ナシ”状態だという。

 

それだけ、人間の人口が増え、自然界のバランスが崩れている以上、どこかでなんらかの弊害が出るのは、ある意味仕方ない部分であり、理不尽でも受け入れなければならない部分である。しかし、様々な“関係性”を知らずに、一方的な感情論のみで批判すれば、そのことが“原因”で、さらに状況が悪化する事になる。自己中心的な考えで開発や保護を言ったトコで、それが本当に“正しい”かどうかなど、わかったモノではない。むしろ、現状維持を訴えるのであれば、それに似合うだけの“代償”を、どこかで払わなければいけない。それを前倒しにするか、後回しにするかで、その“結果”は変わる…さて、本気で人類の“持続可能な繁栄”を維持するには、あと、どれくらいの“犠牲”を払わなければならないのだろうか?