迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

無用・無駄は自分次第。


この究極の“答え”は、アジアの民族性に根付くの“中華思想共産主義”である。ほれ、日本人でも、いわゆるレイシスト思想に賛同する人に共通する感覚に、“日本人”という“単一民族”という概念…これと全く同じ。在日外国人やアイヌ琉球人に対する差別も、この“単一民族”という概念こそが、諸悪の根源と言っていい。日本人も御多分に洩れず、イギリス人同様の“民族潔癖性”なトコがあり、それ故に、異国民や異種民族に対する嫌悪感が強い。もちろん、その感覚に関して若干の地域差はあるものの、総じて言えば、自分“以外”のすべての存在が“異質”に感じ、その違和感や気持ち悪さが嫌で仕方ないから、一方的な感情をむき出しにしたり、あるいは、存在そのものを否定したがる訳である。しかし…それって要は、自分の“個性”を見出すための鏡を壊したいだけの話じゃね?

宗教的な話をすれば、オイラの様な学会員は、新入会の時点で、基本的な仏教哲学を学ぶ。その一つに、自分達が掲げる本尊は、自分自身の精神状態を映し出す“鏡”だと教え込まれる…こう説明すると、かなりカルトっぽい話になるが、信仰上の“おつとめ”(学会流に言えば“勤行・唱題”)を行う上で、何に向かって行うか、その“具現化・具体化”したのが、各宗派の御本尊であり、その形式は、宗派や寺院によって様々。(大概の日蓮宗系の場合、文字曼荼羅というヤツがそれ…想像しにくいかと思うが、要するに多宝塔内部の様子を、現代風に言えばAAで表現したヤツですw)

これを奉ったからといって、すぐさま功徳や加護を受けられるという“都合のいい”モノではなく、本来はその御本尊と向き合い、手を合わせながら唱題・声明(しょうみょう)を何度となく繰り返し、精神を集中させる事で、自分自身を客観的に見る時間を作り、今までの行動を振り返り、“嫌な自分”と向き合い、打破していこうと腹をくくるための“修行”をやる事が、御本尊の“本文”といっていい。言い方を変えれば、自分が信じられる確固たる“精神の柱”を持つためのきっかけであって、何度御本尊に“助けてムームーw”とか、“呪われてしまえ”とかほざいたトコで、何の意味もないって事だ。(オカルトな意味ではともかくw)

民族や生物学上における種族の多様性は、その生物や民族が生活基盤としてる地域の環境で、そこに適応できるようにカスタマイズされた事によって出る差であって、種の保存的な事を言えば、様々な事態に備えた存続・繁栄を保持するための“選択肢”として、時折“個体種”の様なレアな存在が出てくる訳である。ぶっちゃけ、多種多様な生物や民族がいる事は、いろんな意味で“マンドクセ”な状態だから、みんな均一・同一規格にしようと、人類は考えがちである。(様々な差別を無くそうとすれば、必然的に、この考えに至るw)しかし、その考えこそが一番の“間違い”であり、多種多様な選択肢を持ってるからこその“答え”がある。ミジンコでも、平素の時はメスだけしかいなくて、しかも単体分裂だけで増やすことができる。が、乾季で水不足や水中の酸素不足が深刻になると、オスの個体が生まれ、交尾して次世代の卵を残し、次の雨季まで耐えられる状態にしてる。仮に、水のphが極度に酸性、あるいはアルカリ性に傾きすぎたとしても、種の保存の観点で、それに対応したDNAを保有する種が生き残れる様になっている…これも、種の存続に対する“可能性”であり、万一、単一の種族しかいなかった場合、ゆえに“全滅”という最悪のケースに陥る事になる。

自分から見て、無用の長物や無駄なシステムを見てバカにする事もあるだろうが、他者から見て、それを必要とする人、活用できるモノであれば、それは決して“無用・無駄”とは言えない。それを、いとも簡単に切り捨てられる人は、自分にとって“邪魔”だからそうしてるだけであって、それを他人に強要した途端、却って煙たがられる事になる。なぜなら、本当に“必要”な事は、個々の事情によって変わるのであって、それを一方的に排除すれば、同じ様に自分自身も誰かから“排除”されることになりかねない。ここの概念がすっぽ抜けた状態で、先ほど紹介したツイートの内容を実践すれば、当然ながら、どんなに努力しても、誰からも褒められないし報われなくなる。在特会の連中にしても、自分自身が“感謝”という気持ちや、他者から様々なカタチで支えられている事を自覚してない様では、自分たちの“言い分”が通じなくて当然な訳である。同じ様に、国家の屋台骨を守れない様な議会運営をやっている国会議員や政治団体が、たとえ政権を奪取できても、本来の目的を忘れて暴れた結果、多くの国民から見捨てられるのは、当然の結果。メディアもまた然り…真面目に、様々な状況に備えることを“無駄”というのであれば、何もせずに放っておけばいい。当然だが、自分が動けなくなろうが、排除されようが関係ない…少しでも誰かに、何かに縋って助けを求めたら、その時点で“負け”だ。もちろん、宗教や家族にも…なんの支えもなく、どんな努力もせず、それを自慢してる時点で、単に“かまってちゃん”確定であるw だからオイラは思う…完全なる孤立無援とは、自給自足自産自消を、完璧にできる者だけが成し得る事ができる、完全な引き籠り人生を満喫してる状態だと。でも、それができるって事は、人間でなくても良い訳であって、そんな“完璧な存在”は、机上の空論でしかない。どんなに科学が進もうと…