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迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

奴隷を欲する者の過ち…

基本的な話、古代の“奴隷”と“貴族”の関係は、ある意味対等な立場で交渉が行われてきた…なぜなら、奴隷の“管理”は貴族の“義務”であり、それを怠って無茶苦茶な事をすれば、同じ“貴族”によって批判される事を意味するからである。つまり、賃金や健康管理を怠る様な輩が“貴族”を名乗る事は、許されない事だったからである。ひっくり返った言い方をすれば、“奴隷”に対して必要に応じた施しを行ってこそ“貴族”として認められるのであって、どこぞかのブラック企業並みのサー残や残業代未払いなどといった酷いことを平気でやるような者が“貴族”であってはいけない。つまり、奴隷が自分たちの生活のために犠牲になっている事を分かった上で、それに似合った収益分配や健康管理を約束できない者は、“貴族”を名乗る資格がないことを意味する。だから、貴族を名乗る者は、たとえ自分自身が貧困であったとしても、その配下にいる奴隷に対して、生活向上を図る上でのインフラ整備や田畑の改善などに精を出し、奴隷もまた、自分たちの管理者である貴族に対して、分相応の労働力を差し出す事で、互いを支えあってきた。それが、本来あるべき主従の信頼関係であって、物語などで描かれている、傲慢貴族と憤懣奴隷の衝突は、ごく少数派の話である。

ここからが本題。では、なんで“奴隷”を欲するものが多いのか?その最たる理由は“自由”であるからだ。ぶっちゃけ、誰からかに支配されたり、自分の思い通りの世界にならない事が憤懣の“理由”であり、ゆえに、他人の幸福や尊厳が鬱陶しく感じるからである。そして、自分自身がもっと裕福で、遊楽三昧できる立場にいたいと思うから、どうしても他人を見下そうとする訳である。しかし…さっきも述べた通り、奴隷に対して分相応の“対価”を払えない者が“貴族”であってはならないのと同様に、自由を欲する以上は、自分自身になんらかの“制約”を課す事が必須となる。つまり、自分が負担できるだけの対価があってこそ、それに似合うだけの権利や利益を得られる訳であり、そこを無視して無茶振りをすれば、必ずトラブルの原因となる。

ここんトコの国際情勢において、いわゆる“イスラム国”とか“ボコ ハラム”などといった連中が女性に対して“奴隷になれw”とほざく理由は、簡単な事…要は“モテないクン”の集団だからである。ああいうトコに集まる男性の殆どが、女性の社会進出によって“いらない子”扱いされる事に憤懣があり、自分の地位向上と、自分をバカにした連中に対する逆恨みで暴力を振るってるだけである。逆を言えば、自分を敬ってほしい、自分を必要とされる場面が欲しいから、自分よりも“劣ってる”相手を見下し、その見下した数を自慢してるだけである。だから、ノーベル賞を獲得した17歳の少女を恨むのであり、そして殺害したいのである。正直に言えば、これこそ“本末転倒”な話はない。

何度も言うが、自分の周囲に対し、迷惑をかけた分だけ報いを受けるのは当然のこと。善根であれ、悪事であれ、それに似合うだけの“対価”が、自分に降りかかるだけの事であって、他人のせいにできるほど簡単なモノではない。因果応報ってのは、自分自身の行いそのものがきっかけで成り立つモノであり、それに対して周囲が何を“対価”にしたかで答えが変わる。だから自分が、自分よりも立場が弱い相手をボロカスに罵れば、ゆえに自分が相手と同じ立場、あるいは自分よりも上の立場の者にブルボッコされても、当然の報いとなる。逆に、相手を慈しみ、敬う立場で接していれば、ゆえに相手からも、そして目上の者であっても、同じように尊敬されることになる。

いわゆる風俗系の話をすれば、相手を縛ったり殴ったりと、どんなに酷い事をやったとしても、当事者同士が好んでやってる以上は、それは互いに“対等”な状態であって、どっちか一方が拒絶すれば、単なるDVになる…当然だが、見ず知らずの相手を無理やり襲ってやったら、それこそ“犯罪”である。つまり、18禁風俗動画で酷いシーンがあっても、それは物語上の演出あって、出演者同意の下での行為である。(もちろん、一部の動画では、そうじゃないのもあるのだが…)ここを勘違いして、無茶苦茶な事をする者は、ゆえに嫌われる訳である。どんな王様(女王様)であっても、それに付き従う相手がいなけりゃ、単なる変態であり、愚か者でしかない。いわゆる“メスブタ(キモブタ)”呼ばわりされる人も、そうやって嗾ける者がいなければ、そこらの凡人でしかない。いじめをする者は、要するに、自分が親や近隣の人々から“監視されている”事が苦痛だからこそ、自分より“弱い”相手をいじめる訳であって、そこには、自分が周囲から“守られている”自覚が欠如してる弱虫である。いじめを受ける者は、それに耐えられるだけの、そして受け皿となる拠り所を持っている強みがある。いじめで自殺…の殆どは、その“受け皿”が不在で、あるいは、自分の親に対して素直になれない弱さゆえに、自らの命を絶つのである。親に対する信頼関係がないからこそであり、また、親が子をあまりにもほったからしにするから、自分の“存在価値”を見失うのである。

だから、ああいうトコに行きたがる連中の殆どは、自分を見失ってるからこそ、それを何とかして取り戻そう、築き上げようともがいてるだけである。それだけ、成熟した“平和”に対して退屈で仕方ないのである。だから、世界に対して武力衝突を求めるバカが出る訳であり、それをほっとけないから、彼らの“要求”…つまり、戦争が起きる訳である。そういう意味では、日本国憲法第9条の“戦争放棄”は、究極の“バカを無視する手段”といっていいだろう。但し、だからと言って無抵抗なままいじめられ続ける立場でいるのは、変態を通り越えて愚かでしかない。国防の要は、兵力の増強だけでなく、あらゆる有事に備えて、行動を起こせるだけの技能や知識を習得し、活用することである。そこを忘れて“憲法を守れ”と叫ぶのは、お門違いも甚だしい話である。だから、“奴隷”といっても見方を変えれば“貴族”と対等な立場であり、同じ人間として尊厳を分かち合えるのであれば、何の問題もない。むしろ、自分達を陰で支える人達をバカにする様な輩こそ、一番の“恩知らず”であり、無責任、且つ“嫌われ者”である。