迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

なぜ若者が“イスラム国”へ参加したがるのか?

今朝のニュースで、北大の学生が“イスラム国”へ参加する為に…というのがあったが、正直、19年前の出来事が頭をよぎった。そう、いわゆる“オウム事件”ってヤツ。なぜ、学生は、既存の“平和”を否定したがるのか?その最大の“原因”は、いつも、かつての“若者”が指導者の立場になり、自分達のやりたい放題が通じる様になった事による“弊害”を、今の“若者”が被ってるからである。つまり、当時のオウム幹部の殆どが学生上がりや若き研究者で構成されていたのと同じで、それが世界規模になっただけの話だ。宗教の教義に従った行動なんてのは、あくまで隠れ蓑であって、本質は、卯建の上がらん若者が、一刻でも早く、既成の“平和”をブチ壊して、自分達が“主役”となる世界にしたいと願うから、こういうバカげた行動を取ると言って良い。

事実、“イスラム国”と称するテロ集団に加わってるのは、およそイスラム教徒とは思えない外国人…特に白人が目立つのは、その“出身国”の社会情勢を鑑みた時に、ある“共通項”が見出せる。それは、あまりにも“平和”過ぎて、若者が“退屈”している事である。そしてもうひとつは、あまりにも“高齢者”が社会で実権を握り過ぎて、未来を担う者達の成長を阻害してるからである。言い方を変えれば、“自分”が長年掛けて築き上げた“世界観”を潰されたくないあまりに、若者を冷遇し、奴隷の様に扱ってる事が、若気の至りで正義感を振りかざす者にとって許せないからである。もっと言えば、役立たずな年寄りが厚遇される事が、一部の富裕層のみが幸福である事が気に喰わないのである。しかし…真面目な話、こういう“幼い正義感”こそが、実は権限を握る“黒幕”の思うツボであって、コレが因で世界中が戦争する様になれば、一番ケラケラ嗤うのが、そういう“老人”共だ。

戦争はいつでも、富裕層のわがままで起きるのではなく、貧困層が現状の“不幸”に溺れて破壊を望む様になる事から始まる。しかし、どんなに物質的な豊かさがあっても、心が満たされない訳で、その“乾き”を潤す術を知らないから、暴力による破壊と殺戮を繰り返す。その刹那の世界観が“美しい”と感じる様になると、必然的に自分以外の“誰か”が不幸になる事で“幸せ”を得るというパラドックスに陥る。自分が“不幸”になりたくないから、“誰か”を“生け贄”にして“幸福”を得ようとする…仏法、特に法華経において、そういう“矛盾した幸福論”は、自分だけでなく全ての人々を不幸にさせる“元凶”として、一番罪深い事としている。その打開策として言われるのが“願兼於業(がんけんおごう:自らが業に挑む事を望み、願う事)”であり、自らが様々な困難に立ち向かい、足掻き続ける事を“使命”とする概念である。だが、ここで間違えてはいけない事がある…それは、その“使命”に殉ずる為と言って、他人の人生や価値観までも破壊して良いってモンじゃないって事だ。つまり、自分の“不幸”も“幸福”も、決して“他人のせい”ではないのに、他人を責め、ズタボロにする権利は、何人たりとも有してはならないという事だ。

しかし、残念ながら、拙き者達の“正義感”は、自分の不幸を“他人のせい”にする事で解決させようとするから拗れる訳であり、その“心理”を利用して、世界規模の戦争をしたがる訳である。何故なら、自分が“英雄”として褒められたいが為である。誰に?その“価値観”を決めるのは、富裕層の有識者でもなければ、自分の家族や祖国の人々ではない。自分の事を必要とし、大切に思ってる“指導者”である。その“指導者”が人殺しを望むのであれば、自らが“指導者”の“奴隷”となる事も厭わなくなる…宗教がたびたび叩かれる背景には、“指導者”と“信徒”の主従関係…というより“師弟関係”が、他者から見て異様な状態になっている事に、信徒も指導者も気付かない事が多い。褒められたい一心でやった行為によって、批判される事に強い不信感を抱ける時はまだしも、そこが狂信的な状態に陥ると、どんなに世間が“おかしい”と指摘しても、その言葉すら聞こえなくなる。多くの宗教は時として、それを“善し”としてきた部分がある。それ故に、他宗派や異文化に対する批判的な態度を取り、そういった“外部”を排除する動きを見せる訳である。そして、それが行き過ぎた時…そのカルトな思考は、内側ではなく外側に対して牙を剥く。鬱屈した思いをどうにかしたいが、自分達以外の存在が“ウザい”と思うからそうなる訳であり、他人様なんぞ“排除すべき“で凝り固まった挙げ句、自分達の存在を他人に認めてもらえないなら、破壊してしまえ…となる訳である。これこそ、“摂受折伏時による”という御金言を忘れた姿と言って良い。

自分が寛容であれば、他人もそれ故の価値観で自分の事を受け入れてもらえるのに、それが“許せない”と感じるのは、他人に屈する事の“敗北感”が嫌だからである。そうなれば、相手も同じ…結局、そこには相手を想い、信じてやれるだけの“信頼関係”を構築する術を、誰一人として学べなかった事が全てとなる。自分のみのちっぽけな世界観が、他人によってボロカスに否定される事を嫌うあまりに、人間不信になった者が向かう先は、故の“他人排除”の概念である。イスラム国やオウムへ向かう若者達は、老人共にボロカスに言われる事が腹立たしいから、武装して襲撃するのである。そして、彼等をボロカスに言った老人共も、かつて同じ様に、ボロカスに言いやがった連中が憎い…だが、それ故に若者から復讐されるのが怖いから、学童に対して“奴隷になれ”と教え込もうとする訳である。そこに気付いた者達が、結局暴動を起こす事となる。貧困が悪いのではない、富裕層が悪いのではない…一番悪いのは、第三者の振りをして嘲笑う、自分自身だ。彼等もやがて、気付く事になるだろう…世界を変革するには、表層の豊かさや武力を恨み妬む事ではなく、人それぞれの幸せを願う強き信念と、慈悲と真心から来る自らの行いであると。