迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

そもそも論…真の意味での“善意”とは何か?

難病に対する理解と生活支援を訴えるパフォーマンスとして注目を浴びている“アイスバケツスプラッシュ”運動。著名人がやってるからこそ注目を浴びているが、根本的に、コレを発案した人は、あくまで自分の友人が罹患した難病の事を、広く一般にも知ってほしいから、そのきっかけでやり始めた事であって、そこに賛同し、一緒に参加してる人たちも、純粋な気持ちでやってる訳である。が、こういう“著名人のパフォーマンス”に対して、アンチを標榜する一般人や、募金活動に懐疑的な人にとっては、全部“白々しい演出”にしか見えないし、バカバカしい。しかし、肝心な事を言えば、何をもってそれが行われているのか云々よりも、慈善活動に対してバカにする人程、実は類似の慈善活動を思いついても、他者からバカにされる事を嫌ってやらないのが多い。つまり、発想は良いんだが、自分自身に疑心暗鬼なトコがある人程、他人の活動に対して、しょうもないイチャモンを付けたがる訳である。

オイラの義父でもそうだが、自分が“現場”にいて、そこで活動してるならナンボでも愚痴っていいけど、マスメディアが伝える情報以外で現場を行った事ないのに被災者をバカにする発言を聞く度に、非常にオイラはムカつく訳である。じゃ、自分はいったい“何様”だと?言っちゃ悪いが、自分が“エラい”のであれば、まず自分ができる事から、自分でやれる事からやるのがスジであって、何もしないで他人に対して注文をつける権利はどこにもない。もっと言えば、自分が“当事者”としてそうなった時に、誰が救済をしてくれるか…そこまでの考えが足らない。まして、農作物の一部を、母方の伯父(天理市内で寿司屋をやってる)に持って行って、その“駄賃”として巻き寿司やいなり寿司をもらったとしても、それを“受け取るな”と言うのは、めちゃくちゃ失礼な話。(輸送費等を現金払いで取ってるならともかく…)ぶっちゃけ論で言えば、他人の“善意”を愚弄して、それが“原因”で貧困に堕ちてるのであれば、まさに自業自得。それ相応の言い分があるだろうけど、オイラから言えば、善意を素直に受け止められない人は、故に心も貧しくなる…真の貧困は、自分の思い通りにならない事に対して不満ばかり述べ、相手の気持ちに寄り添わない、いろんな意味で“自分勝手”な神経だと思う。

“自分の思い通りにならない”事に対して不満を言い続ける人は、自分の思い通りになる事が“幸福”だと考える人である。しかし、現実はそうじゃない…否、むしろ自分の思い通りの結果になる事だけが幸福とは限らない。“思い通り”になるという事は、裏を返せば、他人の思いをどこかで踏みにじってる事を意味する。逆に、思い通りにならないからこそ、様々な“幸福論”が存在する訳であり、真の意味での救済とは、物質的な事や目に見える結果ばかりが“答え”ではない。その逆も、また然りである。つまり、子供の時から自分の思い通りになる事以外は不幸だと思う人は、大人になってもそのままで、故に自分がどれだけ他人に迷惑をかけているか、全然自覚がないまま傍若無人な態度になる。思い通りにならない事が当たり前だと学んできた人は、故にどんなトラブルがあっても平常心でいられる。もっと言えば、思い通りにならない事の方が、却って自分にとっても、そして周囲の人間にとっても幸福である事も多い…こんな事がわからないから、自分以外の幸福を考える事すらできなくなるし、もっと言えば、自分が不幸になった“理由”すら他人のせいにしたがる。幸不幸というモノは、自分の感情論でしかない以上、どんなに他人のせいにして大暴れしても、失った時間や思いを取り戻す事はできない…その時、自分にとって“不要”な存在だから消えただけであって、本当に“必要”ならば、自分自身に“責任”を課すのがスジである。

閑話休題…では、なんで自分が施す“善意”が、他人には伝わらないのか?その結論は“無関心”にある。自分自身も相手に対して“無関心”であれば、本当に救済が必要な状況において“何もできない”事を理由に避ける事はない…なんせ、相手を“知らない”以上、関わる必要もないからだ。だけど、自分が施す“善意”を、他人に押し付けると、単なる“おせっかい”となるだけでなく、その行為自体が“迷惑行為”となる。昨今の“雷親父”が近所からいなくなった背景にも、子供の躾において、肝心な部分を教えるために頭に拳骨を落としたり口うるさく怒鳴る訳だが、そこんトコを法律を盾にして、自分の子供が何をしたかを知らずに訴えるから、そういったトラブルを避ける人が増えた事によって、昔ながらの“世話役”がいなくなった訳である。ぶっちゃけ、相手を想って叱ってくれる人を、犯罪者呼ばわりしてバカにしてる人が、本当の意味で自分の善意を批判される事を恐れ、著名人の活動に対して懐疑的になる訳である。

来週は、毎年恒例のチャリティー番組が放映される訳だけど、開始当初と、現在とで、批判の方向が違っている。開始当初は、テレビの常識を覆す様な画期的な企画だった事もあり、また、純粋なバラエティーとしての役割がメインだった事もあって、結構バカな企画が生放送で流れた事もあり、内容に対する批判が多かった。が、今は寧ろ、番組そのものに対する批判が多い。つまり、募金のほとんどが番組制作に費やされていて、支援活動等は視聴率取りのパフォーマンスではないかというヤツ。でも、それを言い始めたら、募金をしない事や、様々な支援活動をしない事こそ“善意”だという事になるのか?だとすれば、自衛隊原発も“排除せよ”という言い分は、そこから来てるとなれば、辻褄が合ってくる…何もしない事が“善意”であるなら、自分が助けてほしい時に、誰も手を差し伸べないのは、それ故の“善意”だと思わなければいけない。施しを受けて、その“代償”を払いたくないならそれも結構な話。だけど、幸福ってのは、いろんな意味での“等価交換”で成り立っている。それを無視して、自分の思い通りになる事以外望まないのであれば、必ず自らの意思で不幸に堕ちる事になる。なぜなら、自分の“思い通り”になるのは、決して幸福な事ばかりではなく、不幸な結末を予期して、それがそのまま当たる事を“自分の意志で望んでる”事も含まれているからである。“願兼於業”なら良いのですが…凡人はそんな事、望む訳がないw にもかかわらず、そうなるのは、“思い通り”の意味がわかっていないからです。

自分が善意を示すためのアクションを起こしても、それが通じないのは、自分自身があまりにも、他人の活動をバカにしたツケです。どんなに正義感が強く、誰にでも愛想がよく、そして地道な活動をやっていても、それらをバカにしてる人には通じません。寧ろ、彼らにしてみれば、そんな事やってる人よりも自分の方が“エラい”のですからw 逆に、バカにされている事が嫌な人程、志が高過ぎて挫折するのです。一番“エラい”人は、他人にバカにされ様が、想いが踏み躙られようが、自分が掲げた信念に対して、どこまでも貫こうとする意思がある以上、諦めない人です。たとえ、最悪な結果が待っているとわかってても、たとえ、募金の用途が国家転覆のテロに使われようが、自分が示した“真心”が、バカにした相手の方が赤っ恥を掻く程の変革をもたらすと信じられる人だけが、世間に対して“真の善意”を示す事ができるのです。本気で世界を救済したいのであれば、自分ができる範囲での行動を起こせば良い…その積み重ねが、大いなる変革をもたらす基盤となる。これがわからない人は、いつまでも自分のできる事すらやらずに、他人を批判し愚痴るのです。自分の役割がわかってないから、自分が施す善意も伝わらない…こんな悲しい事、ありますか?