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迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

仏法用語を身近にする豆知識・その5…まさに“地獄の沙汰”は自分次第w

アニメ“鬼灯の冷徹”のテーマソング“地獄の沙汰は君次第”って曲は、実に面白いコンセプトだと思うw しかし、一口に“地獄”と言えども、仏法における“地獄”は、最低最悪の状態を…って思ってるそこのあーた、そもそも、十界論で説かれる“地獄”とは、何をやっても上手くいかない境涯として捉える為の“迹門”であって、法華経における“地獄”も“仏”も、それらは自分自身の命に備わる境涯そのものである。つまり、法華経では“十界互具(じゅっかいごく)”とされ、その境涯を開く為に仏道修行があるとしてる訳。では、一般的に知られている“六道輪廻”を含めた“十界”とは何か?

まずは“地獄”…よく“悪い事をしたら地獄に堕ちる”等と言われる訳だが、そもそもは、無限の“苦しみ”の境涯であり、何をやっても報われないと思い込む、精神的な虚脱感そのものが、本来の“地獄”の正体。物語等で言われる“八大地獄”とか、件の曲に出てくる“全部合わせて272もある”ってのは、あくまで概念の話。本当にそんなのが“あの世”に存在するのであれば、現世でも同じモンが存在するって事になる。

次、“餓鬼”…これもある意味“地獄”のひとつっぽく聞こえるけど、まったく違うのは物欲全般を指す事で、食糧危機から財政破綻まで、様々な“目に見える欲望”に振り回された概念。腹ペコ状態でバイキングレストランで食べきれない程のメニューを皿に盛りまくる姿も、新作ソフトが出る度に開店前の家電量販店で並んだり、季節限定とか数量限定とか言われると、ついつい買いたくなる…って心理は、実は“餓鬼”の心理そのもの。

その次が“畜生”…ま、一口で言えば“弱肉強食”の概念であり、動物の生き様そのもの…って感じ。つまり、草食獣は肉食獣から身を守る為に武装したり、自分好みのメスを射止める為に、他のオスと覇を競い合ったりする姿から転じて、“力による支配”で相手との差をはっきりさせる命のあり方そのもの。言い方変えれば、体力勝負で破れた者は、勝者に何もかもを奪われる概念こそが、これと言って良い。

で、ここまでの概念を纏めて“三悪道”という訳なんだが、この上にあるのが“修羅”…要するに“化かし合い”の概念。ぶっちゃけると、詐欺やイカサマで精神的に相手を追い込む概念と言って良いかもw ま、体力で敵わない相手でも、頭脳勝負になったら形勢逆転…って事もある訳で、もっと言えば、相手をバカにして、相手の精神的弱点を利用して、自分を有利にする様に仕向ける魂胆がある。だから、自分自身がイタい部分を突かれると、すぐに逃げようとするのも、この概念。いろんな意味で“他力本願”な命の概念。

“人”…平らかなる存在、ある意味平均的。要するに“普通”な訳だけど、その基準は、あまりにも曖昧。一番“感情”がない状態であり、一番“穏やか”に思える状態だろうけど、要するに“中身カラッポ”な状態。だから、“自分”という存在を探す為に、常に迷い続ける訳で…

“天”…まぁ、俗にいう“天国”とか“極楽”とか“歓喜の世界”なんて表現されるが、こんなのは、さっきの“五道”を経験してて、そこから一時的に開放された概念でしかない。ぶっちゃけ、自分の願い事が叶ったり、自分が他人に褒められたりして有頂天になった概念こそが“天”であり、その喜びが醒めた瞬間、今まで以上に苦労するハメに…この繰り返しが“六道輪廻”の正体であり、何も“死後の世界”だけの話ではない。当然、ここから先の話も、ご多分に漏れずw

“声聞”…漢字の読み方をそのまま受け止めれば、様々な意見を聞き、学ぶ事を意味する。ま、ある意味“知性の餓鬼”であり、知恵第一とする概念。だから、様々なトリビアを求め過ぎて、使えてない状態だと、単なるバカであり、いろんな意味で“知識の虫”でもある。

"縁覚”…言ってみれば、様々な“出逢い”と“別れ”から様々な事を悟った様に感じる概念を指す。ある意味“理念ある畜生”といったトコw 単に競い合うだけでなく、互いを“認め合う”という概念がある分、話せば、あるいは出逢えば解り合える。でも、自分の感覚がズレてると…

“菩薩”…自分の経験や知識を活かし、如何にして自分の周囲を救うかで心を砕く、いろんな意味で“慈悲の命”ってヤツ。但し、どんなに自分が“救済”の為に困難と立ち向かってると思って行動を起こしても、その想いが相手に通じないと、偽善となる…つまり、“善意の修羅”であり、それ故の誤解でバカにされると、途端に“本性”が出てしまう。富裕層がどんなに自分の身銭で社会貢献を行っても、貧困層から見れば“冷やかし”にしか感じなくてバカにされた途端、やる気が失せればそのまま“地獄”になる。

そして“仏”…どんなにバカにされても、どんなに力が弱くても、どんなに他者から騙されやすくても、決して“自分”を見失わず、そして“相手を想う”気持ちをもって、自分の今までの事が、全て“万物救済”に通じると信じきる、一番タフな概念。ひっくり返れば、どんな姿であっても、“自分は自分”と胸を張って誇れる生き様を示せた者こそ辿り着ける境涯が、本来の“成仏(即身成仏)”であって、死んだ者に対して使う“成仏”とは、まったく意味が違うw 

自分を戒め、決して自惚れず、そして、どこまでも真心を“信じる”事ができる人こそ、本物の“仏”であり、それを見てバカにする人は、言ってみれば、その純真さが羨ましいから、ちょっとでも自身が相手より“優れたる存在”と見せかける為に、あーだこーだと余計な事をする訳で、その結果、自分が本当に望んだ“自分”という名の姿から遠ざかっていても“気付かない”から、迷いが生じる訳であり、故に苦しむ訳である。つまり、どんな境涯であっても、自分を見失わない限り、他人から見て苦労してる様に思える事でも、全て“解決済み”となる。地獄の様な状況であっても、そこで諦めたり、悲嘆に眩れるばかりではなく、何度でも立ち向かおうとする事が、自分の境涯を変えていく“源動力”となる。その“きっかけ”として、様々な経験があり、出逢いがあり、そして自分が戦うべき場所があるのです。生きてるうちに経験する事全て、必ず何らかのカタチで無駄にならない…それを否定した途端、自分の命はよりネガティブになる。ただそれだけの話。まさに“地獄の沙汰は君次第”…否、“地獄の沙汰も自分次第”で、本当の幸福を得られる“極楽”に変えられるのです。