迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

何故、憲法9条に捉われる人が多いのか?

トピック「集団的自衛権」について

何度もTwittreでも書いたけど、民主主義国家であり(立憲君主)議会政治制である以上、選挙で投票しない限り、または、自分が選挙で立候補しない限り、安倍政権を叩く資格はない。当然だが、憲法9条の為に自決する必要もない。そんなに自分の命よりも、日本国憲法の方が大事か?

学校の社会科…特に公民では教えない事を一言でいえば、教員にとって不都合な事を、純朴な学生・生徒に教える訳がないって事だ。もっと酷い話をすれば、真実を知りたければ、様々な事に耳を傾け、事の次第を逃げずに、まっすぐ見続ける事によって、本質的な事を知る事ができる。つまり、現場の人間程、周囲が見えてないって事だ。これ、実は役所仕事でも同じで、自分の担当部署だけなら優秀なのだが、他の部署と連携で…となると、どうしても“何で俺の指示通りにやらないんだ?”とボヤく訳である。医療機関でも、患者は自分の病気や怪我を治療して欲しいから来てるのに、現場の者としては、どうしても“新しい治療法”を試したくて、一応患者と家族に説明するけど、自分達の“専門用語”でしか説明できなくて、結局、批判を受ける事に…ってのが日常的にある。(オイラのオカンも、心臓バイパス手術後に、心臓外科の医師から治療経過の為の検査を受けてくれと言われ、定期的に某総合病院まで通院してた時期があった。で、その治療データの一部が、実は、とある循環器系の研究学会での報告事案として載ってたりするw)言い方を変えれば、自分の“正義”に籠り過ぎた結果、本当に救わなければならない人々を、無惨にも見殺しにしてる“不都合な事実”から逃げたいから、他者の意見すら聞けなくなる訳である。これ、一種のカルトですやんw

つまり、日本国憲法は元来、日本人が日本という国にいて、そこでの生存権を保障するモノであって、その為の“天皇との契約”として作られた大日本帝国憲法に代わる、民主国家としての権利と義務を定めたモノである。故に、憲法9条そのものは、どう考えても国民に対して“自衛権放棄の義務”という不条理なルールを付け加えた発想であり、その発端が、過度な愛国心を利用した軍隊を作らせない為の“約束事”だった訳である。で、それを守らせる為にアメリカ軍が、ある意味我が物顔で日本各地に駐留基地を作った訳であり、特に沖縄に集中する背景には、沖縄県民に対するアメリカとしての“不信感”と、隣接する中国…否、そこに巣食う共産主義政権の“打倒”の為という“大義名分”がある。憲法9条を廃止するという事は、件の反米感情論の人々の願いである“米軍排除”のきっかけになる反面、自衛隊が再び“日本軍”として再編成される事を意味する…というジレンマがある。逆に、憲法9条を堅持する為に自衛隊を廃止する事は、国の防衛を、在日米軍に依存する事を意味する。ここまで考えた事がない人程、今回の集団的自衛権に関するドタバタにおいて、自分さえ良ければ…な富裕層に成り下がったアーティストの“言い分”を鵜呑みにしてしまう訳である。

もちろん、憲法9条の文言は、非常に素晴らしい考えです。しかし、それとは裏腹に、周辺国が、何故日本に矛先を向けた軍拡を行うのでしょう?それは、全ての国が日本の憲法を、誰一人として“信用してない”からです。これ、実は凄く“当たり前”な話で、日本国憲法はあくまで、日本の国内でのみ通用する“国内法”であって、国連やその他の国際的機関で通用する“国際法”ではないからです。日本は本気で永世中立国を目指すのであれば、それこそスイス並みの“軍隊”を保有しなくてはなりません。スイスは、如何なる国家・組織に対して中立である事を宣言した国です。でもそれは、如何なる理由があっても他国の軍事介入、及び支援を一切断る事と引き換えに、国防の役目を軍隊に一任してるからです。そして、徴兵制度によって一定期間、スイス国民は皆、軍事訓練を受ける事が義務付けられています。これは、有事の際に、救助や支援の一切を、“自分自身”で行う為です。だから、交通事故や山岳遭難等でも、ボランティアが迅速に捜索や救護を行えるのは、そういった訓練を、国民全員が受けているからこそです。(その反面、諸外国の傭兵部隊にスイス人が多いのは、それを“国策”としてやってるからです。)こういった事も知らずに、呑気な事を言ってる作家や音楽家が多いことw

本気で日本が憲法9条を、国家が滅亡してまでも固持したいのであれば、それこそ周辺国全てに対して、一切の武装を解除する様に、国際社会で訴え続けなければなりません。しかし、以前にも書いた様に、また、Twittreでも散々呟いた様に、それが通用する相手ならともかく、自分を“最高権威”として崇めよと、一方的に話を聞かずに暴力を振るう相手に、対話の席を設けても、それに応じると思います?こんなことに応じる相手なら、過度な武装は必要ないし、そもそもあらゆる所でテロが発生する訳がありません。武力を用いて暴れる人達の殆どは、とにかく自分自身の“劣等感”を払拭したいからこそ、そして頭で考えるよりも、目で見えるカタチでの威厳を欲するあまりに、目の前の人々をバカにする訳です。そしてそれは、知性の集団である政治家や哲学者も同じ様に、暴力を振るう“問題児”を嫌うあまりにバカにする訳であり、その立場は“対等”なのです。そう、目の前にいる相手とは、それは“もう一人の自分”であり、それを映し出す“鏡”こそが“相手”という存在なのです。

ここまで説明してもわからない人は、もう、それは無知である以前に“神様”としか言い様がありませんね。全知全能の神であるなら、戦争を起こすのもやめるのも自由ですし、人の生き死になんて、まったく関係ない存在ですからねw でも、本物の神様は、人間の営みに対して、一切の干渉を禁じられた存在です。何故なら、ひとつでもその神通力によって施しを行おうとすれば、それ故の差別が発生するからです。そんな理不尽な話、あなたは耐えられますか?自分の目の前で、自分達が掲げた理念の為に、我が子が犠牲になるのを、黙って見てられますか?“神”って存在は、そういうモノなのです。人間だからこそ、そして、未来を思う大人がからこそ、子供を守ろうとするのは当然でも、その“方向性”を間違えてはいけない。誰かの犠牲によって生じた“偽りの平穏”に縋ってるだけでは、やがてそれ故の“代償”を払わなければならない…等価交換の理です。その理、生老病死同様に、何人たりとも逃れられない“宿命”です。それでも憲法9条こそ守るべき道だとしたら…人類は完全な滅亡を望まないといけません。何故なら、人間がいる以上、地球上から、愚かな戦争をなくすことは不可能だからです。自分達が他者との繋がりを信じ、共存する為の生き様を示し続けない限り…