迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

愛される爺、嫌われる爺…

一昨日、“6人目のTOKIO”とも言える、三瓶明雄氏が亡くなられた…日本で一番“好かれた農夫”であり、“THE鉄腕DASH”の、ある意味マスコット的な存在だった。いうまでもなく、福島の浪江町民であり、原発事故による避難先での“無念”であった事は、ご承知の通り。しかし、一しがない高齢農夫が、ここまで全国区で愛されたのは、番組制作スタッフと良好な関係を築けた事と、なによりTOKIOが人気に奢れる様なアイドルではなかった事が全てともいえる訳であり、なにより、若年層から好かれる一番の要因は、老いてなおも“研究熱心”という姿勢だった。いつか、DASH村に戻れるその日の為に、そして、若者と一緒に開墾する喜びを、一番知っている存在だったからこそ、その全てが“好印象”として視聴者の目に映ったのは、いうまでもない。

ここからが本題。高齢者といえど、その死を惜しまれる者と、逆に長寿でも“死に損ない”と叩かれる者とがいる。その根幹的な差は、いったい何か?ぶっちゃけ論で言えば、若年層からみて、どういう印象が残ったかが全てである。つまり、一緒になって“遊ぶ”高齢者でも、ウエメセな“指導”をする高齢者でも、それが若年層から見て、後々の経験に役立ったり、将来設計の一躍を担ったと感じたなら、その時点で尊ばれる。逆に、役に立たないどころか、若者の夢や理想をバカにし、それらを潰す様な事ばっかやってると、どんなに長寿でも“はよ死ねやw”とバカにされる訳である。

もっとわかりやすく言えば、どんな失敗にも、何度でも挑もうとする者を、影でそっと支援する事や、最前線で一緒になって戦おうとする意思があるうちは、若者であっても邪険には扱わない。が、過去の功績や経験を理由に、更には自分で勝ち得た地位に奢れた態度を取る様な高齢者は、所詮は“自分”に固執した“愚か者”でしかない。つまり、過去の栄光に縋る姿は、若者からすりゃ“みっともない姿”であり、厚かましいを通り越えて哀れでしかない。逆に、過去にどんな辛い思いをして、今まで日の目を見なかった人であっても、その悲しみや苦悩を感じさせない、達観した物腰は、多くの人々に深い影響を与える事になる。だから、晩年でも多くの若者達から支持され、訃報を聞けば惜しまれる訳である。

ここに、本当の意味での“宿命”が人生を左右させる事になる。若いうちから他力本願で事を成就させてきた者は、それが“当たり前”になり過ぎて、他者に対する感謝の念がない。自らの意志で苦労を買う様なチャレンジャーは、どんな大難が待ち構えていようと、そこに挑む事から逃げはしない…だから、支援してくれる者に対し、深い感謝の念が生まれる。何故なら、多くの人々に“迷惑”を掛けてる自覚があるからで、中には禍根を残す様な事もやってる。そこを自らが省み、戒める事ができる人に対し、ボコ殴りするバカはいない…否、いたとしても、やった人間自身が、その人の“罪の重さ”を背負えないと悟った時、やった人間自身が頭を下げる事になる。

“自分は悪くない”という人間程、一番無責任で信用できない人はいない。自分の罪の重さを知り、それでも次世代を想い、何を伝え、残せるかを真剣に考える人は、故にそれに似合った行動を取る事ができる。しかし…過去の因縁を振りかざし、経験者でもないのに、さも“被害者だ”とほざく人程、自分の宿命に対し、真正面から戦う事等できない。何故なら、戦わずに逃げる事で生き存えてきたからであり、実体の無い怨みや妬み、そして他人の怒りに自分の人生が振り回されている事に気付かない事程、痛々しい人はいない。もっと言えば、昨今のネット上で拡散している“民族差別”の言論は、その殆どは“虚構”である。もっと言えば、過去の因縁って、今の自分に関係あるのか?

そういった事を踏まえた上で、もう一度、昨今の高齢者を見渡せば、何で若年層が見下すのか、その“正体”が見えてくる。ぶっちゃけ“愛されたい”と思って事を起こす、その“方向性”が間違っているから嫌われるのであって、何かを託したい、引き継いで欲しいと願うのであれば、今一度、自分自身の態度を見直さないといけない。これができる高齢者は、故に誰からも愛されるし、その死を惜しまれる。そういう意味では、本当に明雄さんは好好爺の“見本”とも言える存在だったと言って良いだろう…

 

遅ればせながら、哀悼の意を表します。