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迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

歳を重ねても成長がないのはこれ如何に?

8年前の小学生殺害事件にしろ、ジャイアンツの“お家騒動”にしろ、根幹は一緒…どんだけ精神年齢が“幼い”んだよw ぶっちゃけ、ここんトコの国際情勢も、凶悪犯罪の類も、オイラから見れば、被疑者の“中身”が無さ過ぎる。年齢だけは重ねていても、やってる事が自分勝手で自己中心な駄々捏ねがこうも横行してると、なんにも“成長”してないなぁ…としか言えない。あまりにも哀れで、こんなのが“親世代”だと思うと、子供であるオイラ達がみっともなくて恥ずかしいわ。いや、マジでw

そら、今の若い子が“悟り世代”と言われるのも無理ないですな。米寿にもなろうかとしてるモンが、自分の意を介さない相手をバカにした挙げ句、意見を聞き入れないどころか、一方的に“クビ”って言ってる時点で、今の若年層が“夢”を描けるとでも?正直、こんな“老害”が自分の権利ばかりを振りかざしてるのは、同じ先人達に失礼過ぎる。自分の思い通りにならない事を嘆くのは構わんが、だからと言って、それを“他人のせい”にした時点で、社会的地位や権限なんてのは、チープで価値がないものに変わる。思い通りにならないからこそ、人生は面白いのであって、また、自分が思い描いた“未来”を、自分より若い世代に引き継がせたいなら、自らの身の引き際を見極めてこそ、若年層から尊ばれる訳であり、社会的地位にしても、それに似合うだけの社会貢献や活動を、最前線でやってきてるからこそ手に入るモノである…そこを勘違いして、権限や地位を振りかざし、相手を見下してると、今は良くても、将来的にしんどくなる。ぶっちゃけ、今の高齢者が軽犯罪をやる背景には、自分の存在を忘れて欲しくないからであり、話し相手が欲しい故の話。ただ…“誰でもいい”訳ではなく、“自分と対等”である事が最低条件になる。だから、介護士やヘルパーが30歳以上若いとバカにする訳で、同世代だと、今度は学歴や資格等の“社会的地位”で篩いにかける…ここまでくると、よっぽど“バカ”としか思えん。

況や、SNS最盛期な現代において、インターネットを通じてコミュニケーションが獲れる人でも、“リアル世界”での地位を“バーチャル世界”でも振りかざそうとする訳で、もう、その時点で“人生の学び”を捨ててる様なモンである。様々な意見を見聞し、自分の世界観を縦横無尽に広げられる人は、まず、ネット上に他人の悪口を、しかも特定できる様な格好では書かない。まして、自分がやられたら一番不愉快な事を、他人にしてどうするよ?悪口を“笑い”に変えられるユーモアな人ならともかく、そうじゃない人にそれをやれば、どんだけ自分がネット上で、あるいは現実の社会で叩かれるよ?そこまで考えがめぐらない人程、平気で人前で“ブッ殺す”だの“余所者出てけ”だのとヘイトスピーチをしたがる。オイラから言わせれば、本気で“ちっせぇなぁお前らw”な訳で、自分が他人に言われてムカつく言葉は、どんなに首から上に出掛かっても、絶対に言うべきではない。同じ気持ちであったとしても、自らがそれを言う事で、必ずその言葉は、自分の命に何らかのカタチで襲い掛かる。例え元々の原因が自分ではなくても、因果としてめぐってくる…

弁護士って仕事は、マジでヤクザ以上に金銭に“汚い”存在である…なんせ、依頼者の弁護を引き受け、得られる予定報酬が高額になればなる程、法律の解釈を曲げてまで結果を出そうとする。もちろん、無実の罪を晴らす為に被疑者が、あるいは原告が雇うのは当然の権利だからそこは批判しない。が、だからと言ってスジの通らない話まで強引に裁判で結果を出そうとする時点で、裁判をする意味がない。当然だが、結果を重視するあまりに証拠を捏造したり、自白させる為に拷問に近い取り調べをやる検察も、裁判をバカにしてる様なモンである。まったく、裁判官もしんどいよなぁ。ただ、その裁判官も、法律に関する専門知識に特化し過ぎて、社会情勢を見る目がない様では困る。原発問題の裁判で、大飯原発の運転差し止めを指示する判決を出すのはいいが、それによって、誰が一番迷惑するのかわかった上でやったかどうか、正直、疑わしい。むしろ、原発が動いてないから“安全”ではないし、むしろ、無駄な電力使って原子炉内の核燃料を冷やし続けなければならないのであれば、そっちの方がよっぽど経済的負担や環境破壊が深刻だと、オイラは思う。もっと言えば、鉄道による高速輸送を行うにも、貨車を引っ張る機関車を、非力な蒸気機関車でやろうとすれば、どれだけ石炭や水を浪費するのやら…それを避ける為に、国鉄時代から電気機関車を使う方式に変えてきたのに、それを“否定”したら、トラック輸送による排ガス問題で国道43号沿線の住民に“死ねw”って言ってる様なモンである。一見すると関係ない様な事案でも、全て隣接する関係がある以上、何らかの“犠牲”をどこへ払うかをキチンと決めずに、そして、該当する住民に対して、それに似合うだけの社会保障や代案を示さずにやってたら、そら、狂って当たり前です。なんせ、奈良県内は至る所に“開発制限”が指定された区域があって、そのルール(条例)を守らないと、家の増改築はおろか、災害復興の為の修繕すらできないという、住民軽視もいいトコな話である。もっと言えば、開発制限によって、太陽光発電や小型風力発電等の“エコ住宅設備”を取り入れたくても、市町村役場で“門前払い”なんてのは日常茶飯事w(知り合いの一級建築士も、頭抱える程厄介なのよw)そういった事を知らずに、奈良県民を批判するなら、宮内庁or橿孝と喧嘩する事だけは必至w 以前にも話したが、京奈和道を整備するにも、当初より予定が遅れてる最大の理由は、郡山インターチェンジ周辺で、平城京の遺構の一部が見つかり、橿原考古学研究所の研究員がすっ飛んできて、発掘調査をやった為。

話が逸れ倒したので元に戻すと、知らない事は正直“知らない”と言って、素直に専門家の解説を仰ぐ事が大事。だけど、専門的過ぎて訳がわからなくなったら、他の意見にも耳を傾け、また、専門家でも見落としてる“事案”を提示して、情報を共有してこそ、初めて社会を安定化させる事ができる。その為には、自分自身の知識や常識に固執せず、いろんな事の興味を示し、試してみる事も必要な事…それを拒んだ時点で、精神的な成長は見込めない。何故なら、自らが“情報共有”という拡張デバイスを拒否した時点で、詰め込められる情報が限られ、それ故に“知らぬ存ぜぬ”な事案が増え、自らが“過去”に留まる事を“望んだ”からである。