迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

こちらは、2019年まで展開していた“ニコニコブロマガ”の保管庫です。

精神的に弱い人ほど、自己の才覚に自惚れる…

岩手であった、イベント中でのアイドル襲撃事件…メディアの情報のみで判断すれば、完全なミスリードをしかねないんで先に言っておくが、大概、事を起こした被疑者は“誰でもよかった”なんて言ってはいない…むしろ、自分が抱え込んだ“劣等感”を帳消しにしたかったからこそ、巷で流行りのイベントを狙い、警備体制の不備を突いて、しかも“自分より弱い者”に襲い掛っている。言い方変えれば、もう一度“俺様サイコーw”ってのを実証したかったからこそ、こういうバカげた事をやる。その前提にあるのは、幼少期から思春期に掛けての“実体験”が全てである。つまり、学校一の“人気者”である事や、成績優秀である事を自慢する人ほど、その自惚れから抜け出せず、他者から屈辱的な行為を受けると、それ故に人間不信になる…今回の場合は、まったくもってコレである。

逆をいえば、学校でのいじめに遭わず、目立った成績もなく、何のトラブルもなく大人になった人にはわからん話で、むしろ、様々な被害を受け続けた“いじめられっ子”にとっちゃ、“オマエ、精神的に弱いなw”って事で片付けられっちまう事である。どんなに他人が羨む様な功績や結果を残せても、そこに自惚れて“本当の自分”を見失ってる人間は、故に、“自己の正義”という名の殻に閉じ篭り、いつしか世間を逆恨みして、その結果、自分より弱い立場の者や、凶行を止めようと間に入った知人を傷付け、命をも奪ってしまう…ドメスティックバイオレンス(恋愛関係からの暴力)でもそれは同じで、結局は、自分の“思い通り”にならない事を、他者のせいにするあまりに、そして、相手の“優しさ”に甘えるあまりに、自分自身の感情を抑えきれなくなって暴走する訳である。

まして、中学までにいじめを苦にして自殺を考えるほど、精神的に追いやられた経験がない人ほど、思春期の“対人関係”に苦しむ訳で、それが後々、過度な人間不信に陥る要因になってる訳である。もっと言えば、本当に苦しい時に、その姿を見て声を掛け、話を聞き入れてくれる存在を、親族や友人以外の“誰か”に見出せなかった人程、更に精神的にしんどくなる訳で、そうなってくると、自分を傷付けて死ぬか、他者を殺しまくるかの二択以外、考えられなくなってくる訳である。そう、人間不信の最たる姿が、自殺と無差別通り魔殺人…って訳だ。自殺の場合は、遺された親族や友人・知人の、その行為を止めてやる事ができなかった悔いが残るだけで、当事者自身はむしろ、他の人にこれ以上、迷惑を掛けたくないという“思いやり”が、そこにはある。しかし、世間を怨み、他者を妬み、自分の才能を“否定された”事を僻み続けた果てに凶行に及ぶ“天才”は、むしろそれ故にタチが悪い。言い方を変えれば、自分“だけ”が生き残りたいが故に、他者の幸せなんてどうでもよくなる訳であり、ある意味、自分の“弱さ”を否定したいが為に、無差別殺人を企てる訳である。(で、思い通りになった途端に、自害するから、なおタチが悪いのなんのって…)

バカにされたからと言って、いちいち暴力を振るってる様では、精神的な幼さを突かれるだけで、余計にムカつくだけw まして、自分より優れたる才能の持ち主なんてのは、世間にはごまんといる訳で、自分“だけ”が優れたる存在として崇め奉られたいと思う方が、よっぽど精神的に病んでるw んでもって、自らが持てる才能が、他者より劣ってるからといって、何もせずに放置してるのも、バカとしか言い様がない。どんなに侮辱されたとしても、自分が本気でやりたい事を、ただ黙々とやり続ける事にこそ、本当の“才能”が花開く前提となる。いろんな知識を吸収するのも、自分の“好きな事”をとことん調べ尽くすのも、最初の内は奇異の目で見られて当たり前。しかし、本気で自分がやりたい事に対して、真っ正面から取り組んでいくうちに、周囲はドンドン、そこに理解を示す様になる。バカにしてる者を見返すには、それこそ、本当に忍耐力が問われる事になる…歴史的な偉人達には、共通して、他者からの批判を糧として、自らを精進していった事によって、今日まで名を残せた…もちろん、中には、その“正義”の為に命を賭し、故に“悪人”として嫌われてる者もいるが、そこもひっくるめて、本当に自分が思い描く“絶対的幸福”に、何度も挑み続けようとしないで逃げるから、誰一人として報われない訳である。

今日、金沢で発生した学校襲撃事件も、根幹的に、己の弱さに負けた愚か者が、その“精神的弱さ”を否定したかったからこそ凶行に出たまでに過ぎない。(たまたま、子供達に肉体的な被害がなかったからともかくだが…)弱者を襲いかかる者は、自らの幼さ、弱さを、自分よりも弱い者にひけらかす様なモノ…自分の才覚に自惚れ、他者を支配しようと暴力を振るったり、“宝物”を破壊したり、奪って自分のモノにしようと考えるなら、それ故に、自分が“同じ目”に遭った時、余計にハラが立って大暴れするのは、滑稽過ぎる。どんなに“自分が正しい”と言い張ったトコで、自分の心が“虚しい”と感じたなら、それは既に“正義”ではない。自らの思い通りにならない、理不尽な出来事があるのは、その数だけ、自分が誰かを不幸にさせた報いだと、自分で気付ける様になれば、自ずと虚栄心は消えていく。自分が本当に誇れる生き様を示せる様になるには、一過的な敗北や屈辱は、通過儀礼でしかない…それが怖いのであれば、やめればいい。簡単にやめられないのであれば、どんな結果も甘んじて受け、冷静に自分を見つめ直せ。他者の批判なんぞ単なる僻みだと悟れるなら、他の技能を犠牲にしてまでも精進する事ができるし、成長の為の助言だと悟れるなら、改善の余地を探して、正していけばいいだけ…幼い自分を叱ってくれる存在がいない事程、不幸な事はない。そして、自らの責任を背負えずに逃げるのであれば、罵られて当然の事。大人になるという事は、どんな理不尽にも耐えられる精神と、未来を信じる強き信念あってこそ。どちらが欠けても、大人とは言えない。まして、自分のみの幸福だけでいいのであれば、その先にある“悲しみ”を甘んじて受ける覚悟がなければ、不幸なだけだ。