迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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仏法用語を身近にする豆知識・その4…増上慢とは情弱の別称。

日蓮宗系宗教団体ならよく使う言葉に、“三類の強敵”という言葉がある。これ、ぶっちゃけて言えば、自分達に対する批判をする連中に対して使ってるトコがあるんだが、本来の意味は、布教活動を阻害する存在であり、身分や立場を踏まえた上で、3パターンに分けられる事から“三類の強敵”と称される訳であって、中身としては、ほぼ一緒w とはいえ、この“三種の情弱”程、タチの悪いバカはいない。

では、この“三類の強敵”ってのを大雑把に解説すると、

1)マスメディアが垂れ流す“データ”を真に受け、真実を確かめようとしない“俗衆増上慢”

2)既存宗教の“常識”にとらわれて、他宗派信徒をバカにする“道門増上慢”

3)世間から“聖人君子”として崇め奉られている事を隠れ蓑にする“僭聖(せんしょう)増上慢”

ってのに分けられる訳で、基本的に、僭聖増上慢が風聴した事に対して踊らされるのが“俗衆増上慢”であり、自分の事は棚に上げて、批判ばかり繰り返すのが“道門増上慢”といったトコだろう。で、今回は、いわゆる“グローバル社会”を標榜する上で知っとくべきなのは、貧困層・低学歴層に蔓延りやすい“俗衆増上慢”について。

名前の通り、“俗衆”すなわち“一般庶民”が情報の真贋を見極めずに騒ぐ事で、事態を悪化させる存在が、俗衆増上慢と称される存在であり、別の意味ではフーリガンに近いと考えていいだろう。こういう人達の“情報源”は、大概の場合はゴシップ誌であり、いわゆる“裏モノ系”とされる情報雑誌やタブロイドの類である。ま、アレ自体は、読む分には面白い話が多いし、様々な業界の“裏事情”を知りたいと思うのは、人間の佐賀…もとい、性(さが)とも言える部分。しかし、俗にいう“裏情報”なんてモノの正体は、ロクな取材もせずに筆者の仮説や想像で作られてる部分があり、また、業界の者と言っても、本当にその現場の人間がペラペラと喋れる部分なんてのは、本当に“当たり障りのない”部分のみで、末端の存在と幹部では、話が違って当たり前。そういった事を踏まえずに、記事上の“情報”のみで判断し、実際のデータを提示しても信用できない上に、当事者の話であっても、それが“虚構”に聞こえるから、余計にタチが悪い。

そもそも、ネット上で流れる情報も、マスメディアが公表してる事も、ちょっと調べれば“真贋”を見極める事ができる事案であっても、それが“面倒臭い”から、ついつい鵜呑みにしてしまう訳であり、また、自分が持ってる情報に記憶違いや私事的推察が混じってても、そのままにしてるモンだから、相手の情報や公式記録等のデータが、素直に聞き入れられなくなる訳である。言い方を変えれば“己の正義”に自惚れて、他者からの指摘すら“不当な批判”としか受け止められない、非常に困ったちゃん状態が、俗衆増上慢には多い訳である。当然ながら、この感覚は他の増上慢でも共通した認識で、少しでも自分に都合が悪いと“〇〇が言った事だし…“とか、“▲▲で流れてた情報だから…”って責任転嫁する訳である。

歴史を学ぶ上で、当事者から話を聞く時は、あくまで中立な立場で検証する心構えが必要であり、主観論は排除した上で纏めてこそ、それらの“情報”が“史実”として後世に伝える価値が生まれる。が、対になる“情報”を消去した上で、一方的な感情で歴史を学べば、当然ながら“史実”そのものも歪んでくる。今の中国やロシアの態度を考えると、今の指導者がどのような“歴史認識”で学んできたかを推測する事ができる…つまり、自分達の“正義”に固執するあまりに、かつての“怨敵”と同じ姿に成り果てている事に気付かないどころか、それを指摘したとしても、受け入れる事等できない…特に、義務教育期間中に、指導者自身が無茶苦茶な事を学童達に教えていたなら、尚の事である。これが、富裕層の場合だと、他の国々との交渉等がある関係で、自分達の事を客観視する考え方を学ぶ事ができるのだが、広域交流等ができない…否、交流を持ちたくても、その余裕がない人々にとって、目の前の“現実”だけが全てである以上、指導者の指示通りにしていないと、不安で仕方がない訳である。つまり、中国の軍人共でも、幹部クラスの将校は戦争する意思がなくても、末端の兵士にとっちゃ、早くドンパチして成果を上げる事で、家族の生活を安定化させたいトコがある。この“温度差”が、実は中央政権そのものが理解してないトコであり、自分達自身をキチンと諌められないのに“宗主国”を名乗った上で、近隣諸国に対して強硬姿勢を示してるから、余計におかしくなる訳である。つまり、海外のニュースで中国が日本を名指しで非難してる背景には、それを見た中国人民が“日本は敵だ”という認識を植え付ける為にやってるパフォーマンスであり、ぶっちゃけ、天安門事件の様なテロが起きる事を恐れてやってるまでに過ぎない。同じ事は、日本の政府がやってる事でも言える話であり、メディアを通じて“何がしたい”のかを見極める洞察力が、庶民には不可欠なのである。が、教育現場でそういった事を教える教師なんぞ、正直皆無である。

つまり、本当の意味で“増上慢”とは、自分の知り得てる“情報”が、本当に正しいかどうかを考えず、しかも“自己の正義”を振りかざして、相手をバカにする事で自尊心を誇示してるだけである。“鬼灯の冷徹”ってコミックで、桃太郎を諭す話があるが、ぶっちゃけ、コレである。総合した判断が正しいかどうかはともかく、今までの経験や実績に自惚れ、本当の自分を見失った人ほど、玉石混在の情報に騙されやすく、そして、やり場のない怒りから私怨に狂い、その上で他者の幸福も、そして自分の幸福をも破壊しようとする…非常に愚かで、哀れな姿です。だからこそ、時として様々な文化交流が必要であり、そして、相手を想う気持ちを学ぶ為に、宗教哲学がある…ここを忘れてしまっては、限界集落の問題も、都心での孤独死も、何ひとつ解決しないのです。まして、民族や宗教の違いによる差別なんてのは、愚の骨頂。単に情報を発信するだけでなく、自らも情報の“受信者”として、様々な声に耳を傾け、一緒になって考える事で、様々な可能性を広げる事ができるのに、それを拒んでしまえば、何も学べない…増上慢とは、ぶっちゃけ、学びを忘れた愚か者の別称であり、究極の“情報弱者”なのです。