迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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仏法用語を身近にする豆知識・その3…どんな事案も“ケースバイケース”なりw

佐渡御書に“摂受(しょうじゅ)折伏(しゃくぶく)時による”という御金言がある。正法流布(宗教哲学の普及)を行う時、相手の意見を聞き、その思いを汲み取りながら仏法へと導くのが“摂受”であり、相手の意見を聞き、それを批判して正しき道へと導くのが“折伏”の基本姿勢である。でもね、実はこの原理、一般的な部分でも言えた事で、イソップ物語にもある“北風と太陽”の法則と同じなんだよねぇw 強引な事をやっても埒が開かないなら、相手の方からそうなる様に仕向けていく…言い方を変えれば、批判する事で冷静に判断基準を見極めていくのが“折伏”であり、拡大解釈をもって相手の言いなりになりながら逆転を狙うのが“摂受”とも言える訳。しかし、それ故の“問題”ってのも存在する。

折伏”ってのは、文字通り“相手の理論をへし折って平伏せさせる”という強引な印象があるが、本音を言えば、通らぬ道理に対して真っ正面から否定し、本来あるべき姿勢を正す事を促すのが本筋であり、自分の言い分をはっきりさせた上で、実証を示す事が基本となる。ぶっちゃけ、自分が言った事に対して責任を取る事が、折伏の基礎と言って良い。

相対して“摂受”とは、“相手の意見を受け取る”という意味で、自分の意見よりも、相手の意見を尊重する様なトコがある。故に、相手の思いを反映させる為に、自分自身の心情とは反する事であっても、それを否定する事が許されない事を意味する。だから、思い通りの結果にならないのも、それを“他人のせい”にできるのが、摂受の基礎と言って良い。

こう考えると、一見“摂受”の方がラクそうに聞こえるが、実は全く反対。“摂受”には“自分の意見”を反映させる為に、自己犠牲を厭わない忍耐力が必要で、逆に“折伏”は、“自分の意見”を反映させる為に、相手を傷付けてまでも突き進む強引さが胆となる。いい意味での“ジャイアニズム”こそ、時には必要であって、それは、時として自分自身を、あるいは相手を傷付ける事になる。けど、どっちもが“幸せ”になりたいからこその“喧嘩”であって、そこから相手の“痛み”を知る事で、自分ならどうするかという意見を出す事もできるし、相手もまた、自分と同じ悩みや不幸を抱えてる事を知れば、自ずとその拳を引っ込める事もできる…単に“お人好しな八方美人”では、自分も、そして相手も不幸なだけであり、等価交換の理を考えた時、“摂受折伏時による“という本意を知る事になる。摂受が通じるのは、あくまで相手も謙虚な姿勢を示す場合であって、傲慢な相手にそれをしても、却って自分がしんどくなるし、もっと言えば自分のせいじゃないのに、その責任を擦り付けられても、文句が言えなくなる。傲慢稚気な相手を諭すには、その責任を誰が負うのかを明確にする事が重要であり、その為に、相手を罠に嵌める事も、時として必要な訳である。そこでビービー言う様なヤツに、媚び諂う必要はない…これが折伏の道理であり、自分がやりたい事、成し遂げたい願いがあるなら、どんな困難に対しても挑み続ける事が肝心となる。

だから、交渉事において、相手の条件を一方的に呑むだけでなく、それに似合うだけの代償を引き出す為にどうするか…そこで強引に出るのも、依頼を断る事も、勇気が必要だが、相手が傲慢に出た時は、躊躇せずに殴ればいい…殴ると言っても、直接暴力を振るう事ではない。成果主義ならば、それを逆手に、責任の所在を問い詰めればいい。一度相手の意見を呑んだのであれば、それをキチンと訴える権利が発生するのだから。ただ…その使いどころを見誤ると、それ故の災いを、自らが招く事になりかねない。だからこそ、駆け引きを学ぶ事が必要なのに、それを嫌って遠ざければ、本当の勝負時に臆病になる。本当の勝負師は、自分の博才に奢れない…引き際を弁えた上で、自分の度胸を試すのが、本物なのであるw