迷馬の隠れ家〜裏別館〜

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の気まぐれBlogですwこちらは、雑記専用となっております…

差別用語と民族言語

とあるサッカーファンが、マンチェスターユナイテットに関する略称について、日本流の“マンU”は、侮蔑言葉だからやめて欲しいと言うネタを上げている。その理由として、ドイツ語で発音すると“肥料”を意味してて、60年程前にあった航空機事故で主力選手が“帰らぬ人”となった事を皮肉る言葉だと…だが、それを本気で気にする様では、何も表現できない。何故なら、そこには民族の違い…特に言語の違いを否定する事であり、そもそも、そういった言葉を気にしてる時点で、自惚れ以上の何者でもない。相手を尊敬してるのであれば、敢えて略したり、簡易的な言葉を使おうとはしない。むしろ、それがまどろっこしいのと、言いにくいからそうなるだけの話であり、自分トコの言語を蔑ろにするのであれば、聴覚障害者同様に、手話やジェスチャー、筆談等、声を使う以外の方法でコンタクトをとれば良いだけである。ぶっちゃけ、イラストが描けるモンであれば、マンガや絵本で状況を説明する事もできるし、場合によっては言語の違いを超えて、意思の疎通が図れる。

では、なんで差別用語は無くならないのか?これは、根本的な話、どんな言語の、どんな言葉にも、時代の流れによって変化した歴史があり、本来の意味とスラング的な意訳を含む場合があり、そして使われ始めた時期や廃れた理由が存在する。つまり、本来の意味を広義的に利用してるのか、あるいは狭義的に受け止めるかで、同じ言葉でも“差別発言”に変貌する事になる。例えば、聴覚障害者を意味するスラング(侮蔑言葉)に“つんぼ(聾)”ってのがあるが、農家の場合はタマに使う事がある…というのも、種苗を育成し作物を作る際に、ごく稀に新芽を持たないままで成長するモノが出る。こういったモノに対して“つんぼ”と表現する訳で、本来の意味からすれば、的外れな表現である。しかし、意味を知れば、それを“差別だ”と叫んでる人の学の無さを露呈させる指標にもなる。つまり、差別を生み出してるのは、使っている言語ではなく、人間心理そのものだって事だ。

もっと言えば、差別の根元なんてのは、“自分”と“他人”という区別の部分で、優劣を基準にしてるから発生する訳であり、視覚障害を患ってるといえど、他の感覚(特に聴覚)が研澄まされている人もいるし、多彩な才能がありながら、それ故に“無能”な人もいる…人それぞれに利点と欠点があり、それを上手く補って、初めて“人間”となる。子供をバカにする人は、自分が精神的に“幼い”事を自覚していないし、高齢者をバカにする若者は、経験不足で難儀する。逆に、大人を梃子摺らせる子供は、世間の厳しさを知らないだけで、それを経験させていく事で、必要な才能だけを活かせる様になるし、若年層を見下して独り善がりになってる高齢者も、自らが若者文化に積極的に関わろうと学ぶのであれば、必然的に様々な知識を吸収し続ける事ができる…自分に無い才能と出会えば、同じ才能がある者が自分をバカにしてても気にする必要は無くなるし、むしろ、興味が湧けばそっちへ軸足を変えれば良いだけ。それができる人間には、どんな言語で侮蔑されても気にしないどころか、むしろ、そういう発言しかできない人を哀れむ。

話を元に戻すと、一見、差別発言に聞こえる言葉でも、使われている場面を想像し、理解すると、そっちの方がラクだからそうなるだけの話であり、それ以外の代替表現を見出す方が、むしろ難しい訳である。日本人のスラングな言い回しも、根本的に他の言語で相手を侮蔑してる言葉も、大してレベルは変わらん。まして、仏法用語なんて、説かれた時代背景や、それを梵字(サンスクリット)から漢文に翻訳する際に音読のみでやってるから、本来の意味からズレた状態になってても、現代人にはわからん訳であるw 同じ事で、言葉ってのは時代によって使われ方や意味が変化する。そこを理解した上で批判するのは構わないが、単に“差別だ”と叫べば良いってモンじゃない。まして、民族の違いは言語にも出る訳であり、同じ“関西弁”でも、播州・摂州・泉州・河州(こうしゅう)・紀州・大和・葛城・近江・丹波・但馬…と、地域によって全然意味が違う。発音ひとつとっても、まったく意味が通じない事もしばしばあって、そこをどうにかしようと考え出されたのが“船場言葉”という“関西の標準語”あるいは“商人言葉”である。(行商人や店舗従業員は、様々な言語に精通してないと、取引ができないから…)まして、アナウンサーの場合、出身地の方言やアクセントがネックになって、視聴者からバカにされたり、同僚等から見下される事なんて日常茶飯事。(どんなにアクセント辞典を使って、発音を矯正しても、咄嗟の時には“お国言葉”が出るモンです…あの人以外はw)そこんトコを理解し、様々な言語があって、それ故のスラングな言い回しに寛容になれない様では、真の意味での“グローバル社会”なんぞ、構築不可能である。まして民族や宗教等の差別を根絶しようと思うなら、なおさらな話だと…