迷馬の隠れ家〜別館:ブルマガバックナンバー〜

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仏法用語を身近にする豆知識・その2…十の概念、五つの比較

創価学会を含む、日蓮・法華系宗教団体に属してる者であれば、“五重相対(ごじゅうのそうたい)”って言葉を耳にする事がある。そもそもは、日蓮が考える仏法のあり方が“正しい”とする概念の“検証方法”なんだが、これは何も、日蓮仏法だけの話ではない。ぶっちゃけ論で言えば、自分自身の“正当性”を示す為の比較・検証に使える、非常に便利なツールといっていいw ではその“五重相対”とは…

1)内外(ないげ)相対

2)大小(だいしょう)相対

3)権実(ごんじつ)相対

4)本迹(ほんしゃく)相対

5)種脱(しゅだつ)相対

この“五つの比較”と、相対する“十の概念”による考えを指す。つまり、比較対象となる範疇の違いが、そのまま反映されたのが、コレである。

まずはひとつ目の“内外相対”の概念。仏法としての概念では、仏法を“内道”とし、他の宗教は“外道”として分類してる訳で、仏法が他宗派よりも人類救済の法として優れてるとしている。が、コレを現代社会に押し当てると、現場の概念と傍観の概念という事になる。現場の最前線にいる者にとっては、当然ながら実体験上の考えが優先され、外部の無関係な者から野次られると、プツンとなるのは当たり前w しかし、だからと言って“現場至上主義”に陥ると、現場で最善を尽くしてるハズなのに、何ひとつ解決しないまま、悪循環な方へと堕ちかねない。だから、現場の声を重要視するのであれば、時として他者の意見を聞き入れる耳を持つ事も必要という事である。ま、ぶっちゃけ論で言えば、“集落の常識は世界の非常識、世界の常識は集落の非常識”って事w

ふたつ目、“大小相対”の概念。仏法の教えには、大まかに分けて大乗教と小乗経に分類される。大乗教とは、何もかもが救済される概念の教えであり、小乗経とは、個人的な幸福を願う概念である。概念的には船舶に喩えられる事が多いから、大乗教はクィーンエリザベスIIIやオアシス・オブ・ザ・シーズの様な大型客船、小乗経はボートレースに使うモーターボートや、レジャー用の水上バイクの類としてイメージすれば、ちょっとわかるかも…確かに大乗教は“全ての命に仏性はある”という概念の下で教えられているが、あまりにも概念そのものがデカいモンだから、中にはそれが信じられずに途方に暮れる人もいる。そこで、個々の条件に合わせた概念で救済する方法を導き出すのが小乗経である。つまり、人類皆兄弟…と言っても、地球上の人類が単一種族だったらともかく、そうじゃないからこそ、それぞれの思う“幸福論”がある。

三つ目“権実相対”の概念。仏法では、法華経を“実教”…真の教えとし、それ以外の教典を“権教”…仮の教えとして区別している。が、法華経が本当に優れているのであれば、最初からそれでいけば良いのでは?って事になる訳だが、そもそも、法華経自体が“難信難解(なんしんなんげ…理解不能で信じられない)”とされる為、そこへ導く為には、それに似合うだけの柔軟な頭脳と理解力が必要となる。だから、理解度に合わせた教えが必要となる。ぶっちゃけ論で言えば、“偽りの歴史”を習い続け、その固定概念を植え付けられた者が真実を目の前にしてそれを否定するのは、考える力を養っていないからこその話。最初からそれがわかっていればどうって事もない事でも、それを知る為にどうするかは、指導者の考えひとつとも言える訳で…

四つ目“本迹相対”の概念。法華経であっても、実は大まかにふたつの教えが存在してて、一応、須弥山(しゅみせん…インドにおける聖地。)で説いたいた部分を“迹門(しゃくもん)”とし、その途中で突然現れた多宝塔と、その中にいた多宝如来が仏法の教祖である釈尊に、自分の席を半分譲って説法を続け、弟子や菩薩達に広宣流布を託したのが“本門”とされている。ぶっちゃけると、外見上の身分や今までの経緯から成仏したと教えてたのが“迹門”であり、過去…否、遥か遠い前世の時から成仏してて、様々な時代に人々を救済する為に転生し、活動し続けてきた事を打ち明けたのが“本門”って事。大体、さっきも書いたが法華経そのものが“難信難解”な考えであるからこそ、初対面の相手に対してに“私、実は仏なんですw”なんて言って通用する訳ないからこそ、最初はシャカ族の王子として…と釈尊は説いていった訳。

そして最後が“種脱相対”という概念。仏法においては、誰にでも仏性は存在するという概念に基づいて、そのきっかけを与える事を“下種益(げしゅやく…要するに種まきw)”といい、成仏して得られる利益を“脱益(だっちゃく…要は実り)”という。つまり、法華経如来寿量品(法華経本門の中でも、一番重要な事が記載されている部分)で表記されている事は、あくまで教主釈尊の記録であって、結果論でしかない。だから、どんなに写経しようが、滝に打たれようが、仏像や曼荼羅に手を合わせようが、何でそんな事をするのか意味がわかっていないと、全て“無駄”になる。だから、まず最初に何をすれば良いのか、根幹的な事ってなんなのか、その“きっかけ”として、日蓮の場合は“南無妙法蓮華経”という題目を唱え続ける事を推奨した訳であり、また、それらを実証する為に、自分の現在の素性を明かして、そこで相手がどう反応するか見極め、そして教化していく…気が遠くなる様な話だけど、バカにされるのを承知の上で、それでも自分の信念を貫き通す事を“成仏”とした訳である。

だけど、ここまでいくと、ある意味カルトじみた話に聞こえやしないか?でも、ここが肝心。あまりにも“自己の正義”に固執して、本懐を忘れてしまえばただの変態w そうならない為に、時と場合によって、これらの比較と概念を上手く使いこなして、それぞれが願う幸福のあり方を、どう共有していくかが、仏法の本懐なのです。つまり、それぞれの違いを認め合い、そこから互いに支え合う為の共通認識を作り、広めていく事こそ、本来の“人類救済”のあり方なのです。ただ…それ故に世界中の宗教が、“自己の正義”に固執し過ぎて、いらん戦火を増やしている訳で…